雨上がりの散歩
窓の向こうからは、いつまでも止む気配のない雨音が聞こえる。
雨はここ数日ずっと降り続いていた。
ボクはカーテンの隙間から窓を覗いた。無数の雨跡の為ゆがんで見える夜の町並みは、とても静かだった。まだそんな遅い時間でもないのに、誰も外を歩いていないし、時折車が通りすぎる以外に、動く物が見あたらない。
カーテンから顔を抜いて、ミカちゃんの方に眼を向ける。
ミカちゃんは相変わらずベットに横なっていた。今日も、ベットからほとんど出なかった……。
あれ以来、ミカちゃんはずっとベットから出ようとしない。ベットから出るのはトイレに行くときぐらいで、ご飯もベットで食べている。仕事にも、ずっと行っていない。
そして、いつだって笑顔だったミカちゃんが笑わなくなった。まるで笑い方を忘れてしまったように無表情になり、時々思い出したように泣いていた。
テレビを見ている時でも、ご飯を食べてる時でも、不意にミカちゃんは泣き出してしまう。寝ながら泣いている時もあった。
ボクはそんなミカちゃんを見ているのが、とても悲しかった。でもボクにはどうすることも出来なくて、とても辛い。
今ミカちゃんは寝ているのかな、起きているのかな。
ボクはミカちゃんのベットに飛び乗って、足下で丸くなる。
眼を閉じると、雨音が聞こえた。
あの雨は、まるでミカちゃんが流し続ける涙みたいだ。このまま雨は、ずっと止まないのかな……。
そんなの嫌だよ。
明日こそ晴れると良いな。そしてミカちゃんと散歩に行くんだ。
雨の音を聴きながら、ボクは眠りについた。
眼を覚ますと、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。
すぐにミカちゃんも眼を覚まし、カーテンからの光に気付いた。しばらくの間上半身を起こして、部屋に差し込むほのかな光を見つめていたけれど、やがてベットから抜け出して、カーテンへと歩いていった。
ミカちゃんはカーテンに手を添えて、ゆっくりと開いた。
部屋が光に満たされていく。
窓の外には、晴れ渡った空が広がっていた。
雨が、止んだ。
ボクは隣に立つミカちゃんを見上げる。無表情だったミカちゃんの口元に、少しだけ笑みが見えた。そして、小さな小さな声で呟いた。
「散歩に、行こう」
道路はまだ湿っていて、周りの草木にはたくさんの水滴が光っていた。どうやら、雨はついさっき上がったばかりのようだ。
ボク達はいつもの散歩コースをゆっくりと歩き出した。
まだ朝が早いから歩いている人はほとんどいないけれど、たまにボク達とすれ違う人はみんな不思議そうな顔をしていく。ミカちゃんは、服を着替えずに外へ出たんだ。
ミカちゃんはそんなすれ違っていく人に何の関心も持たず、相変わらず感情のない顔で、機械のように淡々と散歩コースを歩いた。
ボクはそんなミカちゃんの横をぴったりと寄り添って歩いた。
ミカちゃんが今何を考えているのか、ボクには解らなかった。でも、それでもミカちゃんが散歩に出かけたてくれて嬉しかった。家の中で死んだように過ごしているミカちゃんを、ボクはもう見たくなかったんだ。
日の光は段々強くなり、湿っていたアスファルトが少しずつ乾いていく。
やがて家が近づき、ボク達のゆっくりした散歩ももうすぐ終わりを迎えようとしていた時、ボク達の眼の前に花びらが舞い込んできた。
見ると、小さな公園の樹に綺麗な花が咲いていた。それが風の吹く度に散っていく。
飛んできた花びらのいくつかが、ボク達の足下の水たまりを彩る。
ミカちゃんは足下の水たまりに眼を遣ると、しゃがみ込んで呟いた。
「ひどい顔……」
どうやらミカちゃんは水たまりを鏡代わりにして、自分の顔を見たようだ。
確かにミカちゃんはここ数日ろくに食事をしなかったので、すっかりやつれてしまっていた。
ボクは水たまりを見つめるミカちゃんの顔に、鼻を近づける。
「このままじゃ、ダメだよね……」
そうだよミカちゃん、このままじゃダメだよ。元気を出して。
ミカちゃん立ち上がると、家とは別の方へと歩き出した。
さっきまでのゆっくりとしたのとは違う、力強い歩み。
ああ、この道は知っている。ミカちゃんはあそこに行く気なんだ。元気が無い時に、いつも行くあの場所に。
あそこに行けば、いつもミカちゃんは元気になれるんだ。
ボク達は元気へと通じる散歩道を一歩一歩歩いていった。
ボクは時折ミカちゃんの顔を見上げた。顔は相変わらず無表情だけれど、眼はいつものミカちゃんに戻りつつあった。
それを確かめる度に、嬉しくてボクの足取りは軽くなる。
もうすぐ着くよ。そしたら、また笑ってくれるよね。
そしてボク達は川岸の土手にやってきた。
土手に上がった途端、空が開けて強い風がボク達を吹き抜けた。
ミカちゃんは立ち尽くして、ゆっくりと流れていく雲を見つめた。ミカちゃんの髪が、風にそよぐ。
空を見上げていたミカちゃんの顔が、また悲しそうになっていく。
だからボクは飛び出した。
ミカちゃんの前に出て、振り返る。
一緒に走ろうよ!!
まるでボクの声が聞こえたように、ミカちゃんはピクリと反応した。見上げていた顔が、前を向く。
向かい風がボク達を邪魔するように吹いていく。
ボク達はよくここで駆けっこをしたんだ。
来た時は暗い顔をしていても、駆けっこをした後はいつも笑顔に戻っていた。
だから走ろう、ミカちゃん!!
ミカちゃんの足が、地面を蹴った。
それに答えるように、ボクも4本の脚で地面を蹴る。
ボク達は同時に走り出した。
襲いくる向かい風に負けなまいと、ミカちゃんは力一杯走る。ボクはミカちゃんとの距離が開かないように減速したり、また急に加速したりしながら走る。
2人で、のんびり歩いているお爺ちゃんを追い抜く。
走りながら、ミカちゃんが笑った。
ミカちゃんのスピードがどんどん落ちていく。でも、ミカちゃんは走るのを止めなかった。精一杯の笑顔で走り続ける。
ボクはそんなミカちゃんを見ていた。
ねぇミカちゃん、もう大丈夫?
ボクがいなくても、大丈夫?
ボクが死んでからずっと元気をなくしてしまったから、ボクはすごく心配だったんだ。
でも、もう大丈夫だよね。
また笑っててくれるよね。
ミカちゃんばかりを気にしていたボクは、水たまりに気付かず勢いよく突っ込んだ。跳ねた水が辺りに飛び散る。
それを見たミカちゃんが、水たまりの前で足を止めた。
ボクも走るのを止めて、引き返す。
水たまりを挟んで、ボク達は向かいあった。
揺れ続ける水たまりの水面に、ミカちゃんが映る。太陽の光を浴びて、水たまりがキラ
キラ輝く。水面のミカちゃんもキラキラして、とても綺麗だ。
ミカちゃんは揺れる水たまりを見つめてから、顔を上げた。ボク達の眼が、合う。
「ジュン?」
やっと、気付いてくれた?
ミカちゃんには見えていないけど、ボクはずっと側にいたんだよ。大好きなミカちゃんの側にいたんだよ。
ボクは吠えた。
ミカちゃんの耳に届くように、ボクの声が聞こえるように、力一杯吠えた。
ミカちゃんは、悲しそうな嬉しそうな顔をする。
「ずっと、いてくれてたんだ……。ゴメンね、ダメな飼い主で。心配、かけちゃったよね……」
瞳いっぱいに涙をためて、ミカちゃんがボクに話しかける。
「でも、もう大丈夫だから。あたし、大丈夫。……だから……」
ミカちゃんの声は震えていた。
ボクはミカちゃんを見る。しっかりと、その先の言葉を聴くために。
「だから……」
必死に次の言葉を言おうとするけど、声がつまってしまう。まるで声が出せなくなったように、ただ口を動かした。
「…………」
喉から出る微かな声をかき消すように、強い風がボク達を通り過ぎていく。
やがてミカちゃんは唇を噛んで、俯いた。
ボクはミカちゃんを見続ける。
ミカちゃんは何かを飲み込み、もう一度顔を上げて、そして……。
「今までありがとう、ジュン。バイバイ。」
ミカちゃんが笑った。
その途端ためていた涙が頬を伝っていく。でも、ミカちゃんは笑っていた。
何度も何度も涙を拭うと、もう一度笑う。
「また、ね」
そして、ボクに背を向けて歩き出す。
ボクは歩いていくミカちゃんを見送る。
ミカちゃんの姿がどんどん遠くなる。でも、ミカちゃんは一度も振り返らなかった。
もう大丈夫だよね。寂しくないよね。ボク、ミカちゃんの笑顔が見れて安心した。だから、もう行く事にするよ。
じゃあね、ミカちゃん。
ボクもミカちゃんに背を向けて、走り出した。
一生懸命脚を動かし、ボクの体は加速していく。今まで出したことのない位の速さでボクは走る。
どんどん、どんどん、加速する。
そしてボクの体は宙に浮いた。
そのまま蒼い空を蹴って、上へ上へと昇っていく。地面があっという間に遠くなる。
ボクは最期に振り返り、家へ帰るミカちゃんを見た。
……さようなら……。
ミカちゃんはすぐに見えなくなった。
空を昇りながら、死ぬ間際にミカちゃんがボクに話してくれた事を思い出す。
『天国の手前には虹の橋があってね、死んでしまった動物たちは、そこで飼い主がやってくるのを待っているの。
だから私たちはいつかまた会えるんだよ、ジュン。
きっと、会えるから』
うん、ボク待ってるよ。
ミカちゃんが来るまで、ずっと待ってるよ。
だからミカちゃんも、ずっと笑っていてね。
ボクはミカちゃんのことを考える。初めてミカちゃんの家にやってきた日から、一緒に過ごした日々を。いつまで経っても変わらない、ミカちゃんの笑顔を。
やがて大好きなミカちゃんを想いながら、ボクは空に溶けていった。
ありがとう、ミカちゃん。
おしまい




