当日のこと 【Ⅴ】 《修正後》
――苦しそうだった。
とても苦しそうで、今すぐにでも泣き崩れてしまいそうな……、俺の記憶に残り続けているアイツからはまったく想像出来ない、悲しい、悲しい顔をしていた。
あの日、母さんの三十二の誕生日に、……いや、もしかしたらもっと前からだったのかもしれない。あの頃の【僕】が、五感と心を精一杯に使って感じとっていた世界は、気がつくと、捉えどころのない、不確かな何かへと変わってしまっていた。
だから、なのかな? しばらくの間、叔父の家にお世話になる事が決まった時、自然と心が躍った。息苦しいあの町で、落ち着かないあの家で、未来を夢見る事よりも、まだ何も始まっていないこの町で、まだ何も終わっていないこの家で、新しい暮らしをすることに明るい未来を感じたんだ。
目の前に新しい光があって、その光を今度こそ失わずに居続けたくて、だから……、だから。
「……ぁ」
気がつけば、拳を力強く握っていた。内側の皮膚にくっきりと爪痕が残るぐらいに。……痛かった。正直、かなり痛かった。
爪の先の形を四つ、くっきりと残した右手を開けたり閉じたりして、……やっぱし痛かった。
母さんは、蘆屋家に俺を預けたその日に『しばらくの間、斎蔵叔父さんのところでお利口にしているのよ』と、言っていた。そして、『もう少し生活が落ち着いたら、おかあさん風季のこと迎えに行くから。それまで、……ね』、そう最後に言い残して、あの家へと帰って行った。
あの時の母さんの弱々しい後ろ姿は今でも鮮明に覚えている。そして、その背中をただ見つめていた自分自身の気持ちも、はっきりと覚えていた。決していい記憶なんかではないのに、忘れられない記憶。
ただ一言『行かないで!』と、言えていれば、今とは違う日々を送っていたかもしれない。だけど、あの息苦しい町に居続けることが怖くて、だから母さんの背中が見えなくなってからもただ下を向いて佇むことしか出来なかった、あの頃の俺。
……あれから四年も経って、今日から俺も中学生になる。あの頃【僕】が出来なかった事、しらなかった事も、今の俺は出来るようになったし、たくさんしることが出来た。あの頃に比べればそれなりに度胸もついた。……ちょっとは、男前にもなった。……と思いたい。
「俺は、変わったのかな? ……変われたのかな?」
鏡に映る自分を見据えて、小さく呟く。あの頃の俺は、衰弱気味な母さんを引き留める事が出来なかった。強引にでも、母さんの傍に居続けようとしなかった。
……今の俺は? もう一度母さんに会った時、どうするのだろう? 『行かないで!』って、叫ぶのかな? それとも……、また、逃げるのかな? 母さんから。
「……、」
「――ふふっ、風季くん、鏡を見つめるのもいいけれど、そろそろ朝ご飯の支度出来ますから、ちゃんと食べていってくださいね」
「へっ……ヘッ!?」
「ふふっ」
「きぉーう、のおかずはサケでーすぅよー」なんて鼻歌交じりに口ずさみながら、小夜李さんが洗面台から去って行く。…………アァー、……。
「……うっ」
バッ! と、両側の頬を思いっきり叩いた。というより、勢いよく押しつぶした。……の方がしっくりとくるのかもしれない。
もちろん、痛かった……。
―登場人物―
犬坂 風季 (いぬさか ふき)
母さん (かあさん)
そして、
子夜李 (こより)
―以上―