仮見学の一日目 【Ⅶ】
◎ ◎ ◎
一年四組、オセロ部の部室を後にした今。現在地、トイレ。
正確に言うと、その入り口。もちろん男子トイレの。男子トイレの左隣には女子トイレもあったりする。
そして今、どの辺りに居るのかというと、五組の教室前付近。五組は、現在将棋部が使用している仮部室でもあったりするのだけど、別に見ていくつもりはない。
しかし、なぜトイレ! なぜトイレに来てしまったんだ!
……いや、決して、絶対に、トイレを見学対象に選んだ訳じゃないんだからな!
……はぁ。
小さく深く溜め息をついて、トイレ前の壁に寄りかかる。そうしてまた一つ溜め息をついて、またまた一つ溜め息をついて。うん、諦めるのはまだ早い! と、心に勢いをつけて、向かい側、五組教室の壁に設けられている緑スペースに画鋲で貼り付けてある何枚かのチラシへと眼をやる。
千東はトイレ、倖平もトイレ。お二人ともまずはトイレに行きたいと申されてきたので、仕方なくトイレを優先することに。
『別に俺は』とトイレへの同行は固くお断りさせて頂いたのだけど、やっぱり一人きりは寂しいので――寂しかったんだよ! ……――、二人の背中が見えなくなってからの、少し間を空けてから、後を追うように同じ道を進んできたわけで。思いのほかトイレはすぐ近くに在った。その距離、四組を出てからの徒歩で二五歩程。
トイレの前でしばらく立ち止まって、もうそろそろ二人ともトイレから戻ってくる頃だろうと、思うから体をトイレの出入り口からは視界になる場所、その壁の隙間へと押しやる。
「……お前は、そこで何をやっている?」
「そんなのは決まっているだろう、ビックリ、ドッキリ大さくっ……」
言葉のキャッチボール。受けては俺、投げてきた方は右斜め後ろ辺りに。
相手さんからこちらへと、当然のごとく投げ込まれてきたボール。それが当たり前の事過ぎて、こちらも当たり前のようにキャッチ、しかし、ふと――ん? 今の誰の声? ――今のこの現状で当たり前のような会話が成り立とうとしていることに妙な突っかかりを感じて、その心の意思に体が受け答えるかのように、ほぼ反射的に手のひらの内のスッポリと納まっていたボールを手放してしまった。
この声には覚えがある、そして、その声の持ち主は今……トイレタイムなはずなのだけど……。――でも、やっぱりあのお方だよね。――恐る恐る声の聞こえた方へと振り返る。やはりというか、何というか、……。
何を隠そうそこにおられたのは、――誰よりも先に『トイレ』と口走ったトイレの虜――千東君ではないかぁ。
「――アァハッハッ……、失敗だぁ……」
とりあえず、作戦失敗によるあの独特の気まずい雰囲気を作るまいと反射的に口から零れ出てきた言葉で場を濁す。と同時に俺への何かしらあるだろう追撃も回避出来たら言いなぁ……。
と思ったのだけれども、千東は、「いや、失敗はしていないだろ?」と予想外の言葉を返してくる。
「だって、お前は倖平だけを驚かそうと、そんな傍から見たらまるで、トイレから出てくる生徒を襲おうとしている危ない人のごとくスタンバっていたのだからな」
「オォ!? おぉ、おぉ~~……」
あんぐりと開けた口か閉まらない。開いた口がふさがらないとはこの事を言うのだろうか。
「どうした? 俺は何か間違った事を言っているか?」
「えっ、ええと、ええと、その……」
千東と視線を合わせ辛い、だから一度、千東から視線だけを放してそこらを自由に泳がせることに。
流れるように視界を横切ってゆくものは、最初は壁に貼り付けてあるチラシ、次に将棋部の看板――奥のほうに見えるオセロ部の看板――千東の薄気味悪い笑み――通り過ぎてゆく通行人A――その隣を歩くB――将棋部の看板――と、視線を千東へと戻して首をブンブンと少々大袈裟気味に左右に振る。
「そうだな、なら俺は向こうで物静かに監視しているから、まぁがんばってくれ」
首を上下にフンフンと動かすと、千東が背中を向けてどんどん遠ざかっていく。あいつは一体何処まで行くのだろうか? いやいや、まず何処から監視をするというのだろうか? そもそも! 何処から出てきたし!? えっトイレは!? えぇ……。
唸っている間にも数秒という時間は刻々(こくこく)と流れていく。ジャバジャ、とトイレの奥から手を洗う音が響いてきた。
ハッ、と我に返ると、心を鬼にする。
出入り口からターゲットが出てくるまで後、約数秒。
その数秒内にこの周囲に新たな人物が登場する確立は少ないと考える、考えたい。そう信じて一瞬辺りを見渡す。視界に映る人物は、物陰に潜む人影一つを覗き今のところナシ。これなら行ける! と信じて身構える。
人を驚かすことに迷いや躊躇いなどを持ってしまうと、その分相手の反応が鈍くなってしまう。だから問答無用の容赦厳禁で試みねばならぬのだぁ! と、でもそんな、親しい友達に対してさえも恥ずかし! と思ってしまう行為を、まだ顔も名前も知らない同世代が見ている前で実行するなんてもう、HA! HA! HA! と、すでに日本語ですらない言語で叫びながらその場を逃げ出してしまう程に恥ずかしいに決まっている。
だから、そんな非常事態を避けるためにも! 念には念をね!
と、数秒の間に長々と、流れるように思考をめぐらせていると、スタッ……スタッ……、と随分ゆったりとした足音が、トイレの奥から少しずつ響いてきた。
まず始めに上履きの先が見える、と同時に体を男子トイレの前へと乗り出す。そこで、「ワァ!」と短く、何とも単純な言葉をその相手に投げかけた。
……投げかけてからの数秒の空白。
「……はぁ…………キャッ」
男子トイレの前に人なし、その左隣から出てきた人物から、随分と間を空けて小さな叫び声が聞えてくる。小さく、小さく、少しずつ声が小さくなって、声が聞こえなくなったと思うと、トテッ、と尻餅をついてしまっていた。
その姿を、両手を耳ほどまで掲げて、口を半開きにしたまま呆然と見詰めている俺。体中を駆け回る嫌な感覚。ゾワゾワッ、と体内から嫌な汗が噴出してくるような錯覚が心と体を支配する。
「……えっ……ど、どちらさま?」
―登場人物―
犬坂 風季 (いぬさか ふき)
千東 登 (せんとう のぼる)
也宮 倖平 (なりみや こうやい)
それに、
・・・ ・・・ (・・・ ・・・)
―以上―