恩を返す人に、さらにまた恩を作る人 【Ⅱ】
「――うっ……あっ!」
意識が戻り、それと同時に反射的に体に力を込めて立ち上がろうとする。
「あっ、あっ、あぁ!」
―ドサッ―
まずは立ち上がろうと、そのためにまず右肘から力をいれて体を起こそうとした、のだが、気がつくとその体はさらに下へと落ちてしまっていた。
「……痛い……」
例えるなら、何処までも平坦に出来ている、と思っている道を歩いていると、突然にそこには無いはずの落とし穴に嵌まってしまったという感じだろう。
ここは……? ここはぁ、一体何処なのだろうか?
「も、もしかしたら俺、死んだの」
「――あぁ、そうだ、犬坂、お前は死んだ」
…………。
「犬坂、お前は衝突事件を起こして死んだ。最悪だな、お前は被害者じゃない、加害者だからな。」
その何処からともなく聞えてくる声を無心で聞いていると、あたりが薄く、白くなってくる。
「……くさ……煙? ゲホッ、あぁ、頭痛い」
……ここは、本当に、何処だろうか?
そこは、白かった。全体的に面積の少ない、白い縦長のボックスにいる気分、天井は高く白い、今俺が横倒しになっている地面も白く、でも少し薄汚れているような? 横幅はそこまで広くなく、白い壁で四方八方を塞がれている。
だけどどこか見慣れたような雰囲気を漂わせているような気がするが。しかし、この辺りに漂う煙い煙のせいでその雰囲気もぶち壊されている。
「まぁ、でも、やっぱりまずは今の態勢を立て直さなきゃ」
そう呟くと、先程と同じように右肘に力を入れて、仰向けの体を右から起こす。
今度は、とくに支障もなく想い道理に立ち上がることが出来た。
「犬坂、お前はもう死んでいる」
「……俺はもう死んでしまったのですかね?」
そう答えながらも、もう一度辺りを見回してみる。やはり、白い空間、だけど、俺が想っていたような場所でもなかった。
天井はやはり白く、床もとくに変わりなく白いままだけど、あの白い壁はただの白いカーテンだったし、何より俺の膝よりも少し高い白いベッドがある。
「あぁ、犬坂、お前は死んでいる、お前はもう死んでいる!」
うわ、酷い、酷いよこの人、というより、この人は一体?
「……あの、貴方は一体?」
「俺は坂木志郎、この中等部保険室の担当の教師をやっている」
「そ、それは、そうですか」
………。
「あぁ、そうだ」
……とにかく、ここは会話を続行することに
「それで、その、なぜ俺は保健室に居るのでしょうか?」
「お前は人の話をあまり聞いていなかったようだな。言っただろう、お前は衝突事件を起こした犯人だ。」
「……一体誰と?」
「そんな事はなぁ、事は自分の頭で考えてみろ」
「…………」
……あぁ、どうしよう、思い出せない。
俺がしばらく考え込んでいると、カーテンの隙間から白い煙が吹き出てきた。
「くさ、あの、坂木先生、ここ保健室ですよね? 保健室って禁煙ですよね。」
「あぁ、お前は何を言っている、ほら見てみろ、これは電子煙草だぞ? お前は電子と本物の区別もつかないのか」
その声のする方向、その白いカーテンの方を見つめると、俺の目線よりもだいぶ高い所にひっそりと白い棒が出てくる。
その棒は、しかし、ただの棒にしか見えない。どう見てもただの棒。煙も出さなければ、何か光を発する訳でもない、ただの白い棒。
「それ、本当に電子煙草ですか?」
そう言いながらも、カーテンの向こう側の坂木先生に気づかれぬように、そっとその棒へと手を伸ばす。
そっと、そっと、あと少し、もう少し、おっ。
「――あっ」
その白い棒に、後ほんの少しの所まで手を伸ばした所でその白いカーテンが軽く開かれた。
「ふん、甘いなぁ犬坂よ、お前が俺からこのたばチョコを奪い取れるとでも思っていたのか?」
…………。
そのカーテンの間から坂木先生が頭を左手でさすりながら出てきた。
その坂木先生の身長は百八十センチと言った所だろうか、千東よりもだいぶ高い。
白いワイシャツに灰色の長ズボン、その上から膝辺りまである白衣を羽織っていて。
その髪は銀色に染まっており、長方形の眼鏡を掛け、その眼鏡の奥の瞳は虚ろとしている。
「……あぁ、すいません」
腰の辺りに添えている右手の人差し指と中指の間には一本の白い棒が挟まっていた。
「まぁいいさ、それと俺はもうそろそろ職員会議が始まっちまうからな、この保険室を留守にするが、お前はどうする? もう少しここでサボってくか?」
「サボるって、あぁ、俺も準備をしたら教室に戻ります」
「そうか」
そう言ってから、坂木先生は自分のディスクまで行くと、ディスクの下の引き出しを開け、何かの箱を取り出してからその白衣のポケットに入れる。そして、そのまま保健室の白い引き戸の前まで歩いていく。
その白い引き戸に手を掛け、開けるのか? という所でこちらを一切見ずに言う。
「まぁ、焦るなよ、お前らはまだ子供だからな、後先考えずにやんちゃするのも良いが、たまには後先考えて落ち着いて行動して行く事も、大事だぜ」
「……えっ、どういう意味――あっ」
「――まぁ、問題を起こさなければそれで良いからよ、がんばれ」
俺がその意味を聞こうとすると、こちらに何かの箱を投げつけ、何かまた気になる言葉を残し、そのまま引き戸を閉めて行ってしまった。
「……あの人は一体何が言いたかったのだろうか?」
小さく愚痴のように呟くと、その右手に収まっている箱に目をやる。
その箱はよく見る煙草のケース、でもその煙草の名前はたばこチョコ、これはまた別の意味でよく見る駄菓子チョコの一種だった。
「………………」
そのたばチョコのケースを見つめて一分程。
「……電子煙草じゃないだろこれ!」
……、あぁ、なんだかものすごく疲れた。
そう思い、白いベッドに頭を落とす。
―ギィコ―
ベッドが少し軋み、体が、グッ、と軽くなったような気がした。
このまま眠ってしまいそうだ。
そう思いながらも、タオルに包まれた枕に頭を託して、右を見つめる。
どうやら、この隣にも、もう一つベッドがあるらしく、そのベッドを挟んで窓から温かい風が
こちらに流れてきた。
「……暖かい、それに甘い?」
その風は、温かく、ほんのりと甘い匂いがした。
何処から?
「……あっ」
少し強めの風が吹いたためか、その窓側のベッドとこちらのベッドの間を作っている白いカーテンが大きく揺れる。
そして、そのカーテンの奥から見えたのは人、女子だろうか?
「…………」
覗いてはいけない、落ち着け、お前は覗き魔になりたいのか?
いや、でも、でもさ、別に顔を見るくらいならさ、すごく気になるじゃないか。
その二つの意見が俺の心の中でせめぎあっていた。
「……………」
でも、覗き魔、いや、そもそも駄目だろう、ものすごく失礼だし。
だけどだな、だけどだ、お前は男だろ! 別に疚しい心も……いや、少しは在るのだけど……。
その戦いは激しく、しかし長く続く事はなく、意外なことにあっさりと決着はついた。
「……や、止めておこう、うん」
そう決意し、やはり教室へ戻ろうとベッドを出て立ち上がると、先程開けられたカーテンの間を通ってそのカーテンで閉ざされた空間を出る事にした。
―登場人物―
犬坂 風季 (いぬさか ふき)
坂木 志郎 (さかき しろう)
―以上―