私のクラス 【Ⅰ】
書写 ―賀茂 吉野―
彼女は、気配を消して、ペールオレンジ色をした引き戸に軽く寄りかかっていた。
彼女は、初めて担当するクラスの授業開始五分前から、一組の引き戸の前で耳を澄まし、生徒のごちゃごちゃとした雑談に聞き耳を立てていた。
ただ彼女は、周囲から見ると、必死に何かを盗み聞きをしているおかしな人ではなく、担当のクラスの授業が始まるのを、扉に寄りかかって待っているクールな女性に見えているのだろう。
私は、賀茂吉野。
もともと私は、東京にある、ある学校で教師をしていたのだけど、少しばかりこの湖中市、洸凪町でやらなくてはならない事があり、東京から態々この土地にやって来る事になったの。
でも、だからといって本職の東京にある学校の教師を唐突にやめる訳にはいかないでしょ。
だから私は、東京の学校からこちらの霞原学校に無理やり移動してきたの。
もちろん色々な手を尽くしてね。
この霞原学校中等部での私の担当クラスは一年一組、担当教科は一、二、三組の国語。
この学校には一週間前から移って来ていて、洸凪町にはもうすでに二週間程前から滞在している。
洸凪町にはこれから約二年間滞在する予定で、順調にこれからも何事もなく進めば、私は東京に帰る予定。
だけど、私がここでやろうとしている事がそう簡単のうまくいくとは思ってはいない。
「まぁこのまま順調に何事も起こらないのが、私にとっての願いなのだけどね……」
小さくそう呟いてから、右腕にしているエルオスの腕時計を見る。
エルオスは今期、高級ブランド界で一位、二位を争う程のブランド会社。
そして、その作品の中でもとくに人気が高い、腕時計『ナイル ブラックシェル』を、その細い手首に付けていた。これは、私の一番のお気に入りの腕時計。
そんな高級腕時計の針は八時四十四分を指しており、朝会の開始時刻は八時四十五分。
「そろそろね」
また、小さくそう呟いて、扉の手をかける。
―ガラガラガラ―
教室に入り、黒板の手前にある教卓へと足を運ばせる。
新しいクラスに新しいクラスメイトでまだ落ち着かない生徒達を見て言う。
「静かに」
―ザワァザワァザワァ―
これくらいでは静かにはならないわよね。
そうねぇ……。
教卓前で、指をトン、トン、トン、トン、と、最低限の動きで、それでも周囲にはっきりと聞こえるぐらい高く、教卓を叩き始める。
―ザワァザワァ―
私は教卓を指の先で叩き続ける。
―ザワァ、トン、ザワァ、ザワァ、トン―
まだ、続ける。
―ザワァ、トン、ザワァ、トン、トン、トン―
まだ、まだ、まだ。
―トン、トン、ザワァ、トン、サワァ、トン、サワァ、サワァ―
叩き続ける。
―トン、……、トン、……、トン―
やがて、教室が静かになってゆく。
しかし、その静寂と同時に教室全体の雰囲気までもが徐々に重くなってきているようにも見て取れる。
「今日からこのクラスの担任になる賀茂吉野といいます」
そういってクラスを見渡すと、窓側の一番手前の席の右側に堂々と座っている男子生徒を見る。
あぁ、本当に居たわね。
「私の担当教科は、一組、二組、三組の国語です」
名前は確か、犬坂風季。さて、あんな生徒がいるこのクラスは……とても面白くなりそうね。
「これからこのクラスで一年間やって行きます、よろしく」
そして、小さく、小さく、ニヤリと笑う。
「まず、私は貴方達を、貴方達は私を知らないと思いますので、これから自己紹介をしようと思います」
生徒の雰囲気がまた少し荒れる。
―ザワザワ―
私は無視して続ける。
「では、先ほども言ったとおり、私の名前は賀茂吉野、担当教科は国語よ」
続けて言う。
「私の紹介はこれぐらいだと思うけど、もし貴方達から何か質問があるというなら聞きます」
続けて言う。
「何か質問はありますか?」
そう言うと、何人かの生徒が手を上げる。
その中でも、率先して『はい!』と声を出した生徒がいた。
「也宮君、貴方は私に何が聞きたい?」
そう聞きながら、声がした方へと顔を向ける。
「えっ……ええと、先生の歳はいくつですかね?」
也宮が座っている席は、先程の、推測では間違えて右側の席に座ってしまっているのであろう犬坂の、左の席に座っていた。
きっと仲がいいのだろう。
「私のことは賀茂先生か吉野先生って呼んでもらえるとうれしいわ。そうね、年齢は、秘密よ」
それだと、也宮の後ろに座っている背の高い生徒、千東登もきっとそのグループね。
「秘密」
「――女性に年齢を聞くことは、とても失礼なことなのよ。年上に好かれたいのなら、年齢を聞く事だけは、禁句。ね?」
じゃ、千東の横に座っている女子、千葉千裕は、いや、彼女は違うわね。千葉はあの三人とは違う学校から来ているはずだから。
「…はい」
也宮は、しぶしぶと着席した。
「では次に」
「――先生!」
ん? 確か、久万猫目ね。
「なにかな?」
「スリー」
「――秘密だ」
―ヌゥニャャャ―
私が答えたと同時に、教室に甲高い発狂が響き渡る。
ふむ、猫目のこれからの扱い方はこれでいいわね。単純な奴は好きよ、私はね。
「先生?」
えぇと、あぁ、名前が……。
「あの……先生?」
ちょっと待っていて、今名前を。
その生徒に手を開けて、突き出して待て、のジェスチャーを送る。
「……でも、先、加茂先生……、……猫目、猫目君が頭から血を流して机にうつ伏せになっていますよ!」
「あぁ、そう、薄影さん、なら貴方が連れて行ってやってくれる」
薄影ね…。手ごわいわ、影が薄すぎてこの私ですら、一瞬誰だか分からなかったわ。
「……でも、賀茂先生がさっき猫目君にペンを投げつけ。」
「――秘密よ」
「……い、行こう、猫目君」
「階段には気をつけるのよ」
私は完璧に微笑んで二人を見送ってやった。
「で、他にはいますか?」
―………………―
その質問から一分が経過しても、沈黙は続いた。
―登場人物―
賀茂吉野 (かも よしの)
それに、
犬坂 風季 (いぬさか ふき)
千東 登 (せんとう のぼる)
也宮 倖平 (なりみや こうへい)
千葉 千裕 (ちば ちひろ)
久万 猫目 (くま ねこめ)
薄影 笹 (うすかげ ささ)
―以上―