#5 女将さんの正体
おでんやのご主人、田淵さんに連れられて、女将さんが入院しているという病室までやってきた。
「ここだよ。言っとくが…つまらん謝罪は、やめとくんだな」
俺は、黙っていた。
つまらん謝罪はやめろ、と言われても。
俺には、土下座でもして謝るしか無いんだ。
4人部屋の病室に入ると、窓際のベッドに女将さんがチョコンと座り、明るく晴れ渡ってはいるが、ビルしか見えない外の景色を眺めていた。
「おぃ、立花が来たぞ」
そう、ご主人が声をかけると、左側のこめかみ辺りに大きな絆創膏を貼った女将さんが振り向いた。
「あら、スグルちゃん、どうしたの。そんなもの抱えて…」
女将さんはそう言うと、控えめな声で笑った。
目に大きな怪我はしていないようだった。
「本当にすみませんでした」
俺は、病室でも膝と手を床につき、頭を下げた。
「何よ、スグルちゃん、やめてよ…あんた、まさか本当に被害届なんて出したんじゃないだろうね。あれは、壊れたうちの柔な椅子が根性なしなんだよ。バカ言っちゃいけないよ。まったく…」
「いえ、椅子を床に投げたのは、俺ですから…」
「分かったわよ。…じゃあ!私の言うこと聞いてもらえるかしら。聞いてくれなかったら本当に被害届出すわよ」
「はぁ、そりゃ聞きますけど…」
「じゃあ、みっともないその格好を直ぐに止めて、屋上迄付き合ってくれる?」
そう言うと、女将さんは、じっと俺の目を見据えた。
僕を見詰める女将さんの顔からは、いつもの人懐っこい笑顔は、消えている。
凄みをも感じさせるその表情に、気押される位だった。
「さぁ、早く立ち上がって。あんたは、ここで待ってておくれ」
女将さんがご主人にそう声をかけると、そのまま病室を出て行った。
「早く行けよ」
ご主人が、俺の頭を小突いた。
俺は慌てて立ち上がり、女将さんの後を追って廊下を進み、階段を登って屋上に出た。
「ホントに狭いわよねぇ。」
女将さんが話を切り出した。
「な、何がですか?」
「空よ、空」
虎ノ門にあるその病院は五階建てだったが、屋上に出ても、空は周りの高層ビルに遮られていた。
「グラウンドに出てると、空が広く感じるでしょう?それとも、もう、忘れちゃったかしら」
俺は、周りをビル群に遮られた狭い空を見上げた。
晴れ渡っているのにガスがかかり、もやがかかった薄汚れたちっぽけな青空。
まるで、今の俺を見ているようだ。
「さすがに覚えちゃいないわよねぇ」
俺は、女将さんの言っている言葉の意味が分からなかった。
「あたしね、審判の資格を持ってるのよ」
「審判…ですか?」
「そう、審判」
「野球の、ですか?」
「アウトォー」
突然、女将さんが足を肩幅に開いて、右手の拳を握り、ドアをノックするような仕草をしながら大声をあげた。
突然のアウトのコールにびっくりした俺は、後ろにひっくり返った。
「アハハ、そうよ。横浜市のね。さすがにもう、最近はグラウンドには出てないけどね。私ね、息子が二人いてね、若い頃にソフトボールやってたのもあって付きっきりで野球教えてたんだけど、ひょんなことから横浜市野球協会の審判の資格をとってね」
「あっ、そう言えば…、中学3年の夏の大会の決勝の試合、一塁審判、女性だったような…えっ、でもまさか、あの審判が?」
女将さんが俺の顔を覗き込み、今度はいたずらっぽく笑った。
「アハハ、そうよ。思い出した?あの日は、私ね、ほんとは準決勝でお役御免だったんだけど、何しろあの暑さだったでしょう?決勝の審判が、二人具合が悪くなっちゃってね。決勝を見学しようと思って残ってた私が塁審やることになってね」
「そうだったんですか…」
「何しろ、貴方、横浜で、10年、20年に一人の逸材だって審判仲間でも凄い噂だったわ…。でも…今の貴方は、アウトね。残念ながら」
俺は、反論さえ出来ずに下をうつむくしかなかった。
「何があったのか、詳しくは分からないけど、もう、野球は、出来ないの?」
プロ野球を引退してから誰にも言わせなかったその質問を、女将さんが、刺すような視線と共に、僕に投げ掛けた。