第169話「駆け引き」
『まぁ大丈夫よ』
俺が納得できないでいると、スマホ越しに鈴嶺さんの優しい声が聞こえてくる。
彼女、ほんと時々優しい声を出すよな。
いったいどこから出ているんだ?
「そうなのか?」
俺からすれば大丈夫じゃないと思ったから相談をしたわけなのだが、美咲をよく知る鈴嶺さんが言うのならそうなのかもしれない。
と、一瞬思ったのだけど――
『えぇ、あなたが駄目人間になっても、あの子なら喜んで養ってくれるわ』
――大丈夫の意味が違った。
「それは別の大丈夫だろ!?」
『ふふ』
俺がツッコミを入れると、鈴嶺さんは楽しそうに笑い声を漏らす。
相変わらずこっちを弄って遊んでやがる。
『でも、本当に大丈夫よ? あなたが駄目人間になろうと、傍に居て自分を甘やかしてくれるのなら、あの子は喜んで養うもの。なんなら、外に出ないようになれば他の女性が近寄る心配もなくなるから、大歓迎でしょうね』
「俺は駄目人間になりたくないから、相談してるんだよ……」
駄目人間になっている時点で、全然大丈夫じゃないと思う。
『どうして? ヒモなんて、男性の夢でしょ? 心配しなくても、あの子は私やあなたの傍にいると甘えがあったり油断してたりするからドジをするけど、普段はなんでもできる完璧超人よ? 仕事の一つや二つ軽くこなすでしょうし、なんなら自分で経営できるもの。お父さんの会社を引き継げばいいだけだし』
ヒモが男の夢というのには賛同しかねるが、確かに美咲は、今が別人だと思えるくらいに少し前までは完璧なイメージがあった。
実際、勉強では予習復習だけで、塾に一生懸命通っていてIQも高い鈴嶺さんに次ぐ成績であり、運動でも運動部顔負けに体力測定の数値や球技での活躍が凄い。
音楽や美術でも先生たちから絶賛されているようなので、本当になんでもできるのだろう。
「だけど、俺がそれに甘えていいってわけじゃ――ん? 今、なんて言った?」
頭の痛い状況に思考が鈍っていた俺は、遅れて鈴嶺さんの言葉を理解する。
『何って、お父さんの会社を引き継げばいいって言ったわね。あら、言ってなかったかしら? おじさん、結構大きめの会社を経営しているのよ』
「初耳だ……!」
『あら、そうなのね』
とても白々しく言ってくれる鈴嶺さん。
絶対俺に言っていないことは覚えていて、美咲が言っていないこともわかっている上で言ってきている。
まさか、美咲がお金持ちのお嬢様だったなんて……。
いや、でも思い返せば育ちの良さは窺えたし、笹川先生はお嬢様のような上品でおしとやかな雰囲気もある。
お邪魔した家も大きかったし、家具も高級そうだった。
それどころじゃない状況だったからあまり気にしていなかったが、言われてみれば心当たりはあるのだ。
しかし――。
「美咲からも言われてないんだが……?」
『あら、忘れたの? あの子ああ見えて、結構強かよ? 社長令嬢なんて知られたら、あなたに距離を取られる――少なくとも一線を引かれるのなんてあなたの性格からわかりきっているのに、わざわざ自分から言うわけないじゃない』
そうだった……。
そういえば、美咲は天然なところもあるが、計算で動ける子だった。
実際、俺が断れないような状況に持っていくというのは、偽彼氏を始めるようになった頃からチラホラあった。
「笹川先生が会社の業務じゃなくて、保育士をしていることに関しては……?」
『おじさん、娘に凄く甘いから。保育士が夢だった美空さんの想いは尊重して、後継者は旦那さんにって考えてたのよ。まぁその代わり、自分の認めた男じゃないと駄目だ――ってことで、美空さんの旦那さんとも最初の頃少しあったわ』
うん、おかしいな?
鈴嶺さんがそれを知っているということは、当然美咲も知っていたよな?
となれば、俺が美咲の家に行った場合美咲のお父さんがどういう反応を示すかなんて、あの子わかりきっていたはずだよな……?
『あぁ、言っておくけど、旦那さんのことがあって美空さんが酷く傷ついてしまったから、余計過保護になったところはあるわよ? さすがに、あなたの時ほど酷くはなかったから』
まぁ、それなら一応……?
いや、でもなぁ……。
「だけど、揉めはしたんだろ……?」
『厳しいけど、現実的な条件をいくつか出して試したくらいかしら? 美空さんの旦那さんは、エリートみたいだったし』
「悪かったな、落ちこぼれで」
『誰もそんなこと言ってないじゃない』
いや、今の流れはわざと引き合いに出したやつだ。
それくらい、そんなに長くない付き合いでもわかるぞ?
めんどくさいから言わないけど。
「まぁそうなると、今の後継者は……」
『いないはずね。美咲も保育士さんになりたいようだし』
「…………」
後継者がいなくなっても、笹川先生や美咲に押し付けていないことを考えるに、美咲父は本当に娘の幸せを第一にしているのだろう。
笹川先生の時のように、美咲の旦那へ――という考えがあった可能性もあるが、俺が挨拶に行った時の反応を見るにそうとは思えない。
今思えば、あの過剰反応には、美咲を笹川先生と同じ目に遭わせたくないというのもあったのだろう。
『でもあの子は、あなたを養うためなら喜んで会社を継ぐでしょうね。そしたら、おじさんから感謝されるんじゃない?』
鈴嶺さんは声のトーンを少し落とし、息をフーッと吐くように囁いてきた。
俺の脳裏には、意地悪げに目を細めてほくそ笑む彼女の顔が浮かぶ。
「彼女の夢を諦めさせるなんて、彼氏として不甲斐なさすぎるだろ……」
『だけど、自分には社長になる器なんてない――って言いたいんでしょう?』
さすがというべきか、こちらが言いたいことはお見通しらしい。
まぁ俺を知る人間なら、皆がそう考えるだろうが。
「学力も、コミュニケーション能力も足りないからな」
『困ったわね~。今から、私がしごいてあげましょうか?』
なるほどな。
つまり彼女は、美咲の想いを捨てさせられない俺が、将来を見越して今から頑張るしかない。
それには自分を頼ってくるはずだから、そこで普段の鬱憤を返す憂さ晴らしをしようと考えているわけだ。
まぁ、美咲に頼ったら絶対イチャイチャでそれどころじゃなくなるので、俺が勉強で頼るなら鈴嶺さんしかないのかもしれない。
笹川先生よりも、同じ範囲を勉強している鈴嶺さんのほうが話は早くて、彼女への負担も少ないだろうから。
何より、笹川先生とは違い、鈴嶺さん相手なら美咲もそう文句は言えない。
――しかし残念ながら、心愛の面倒を見ないといけない俺にはその道を選ぶことなんてできない。
鈴嶺さんは、そのことに気が付いていないようだ。
もしくは、心愛のことがあろうと、俺が頑張って両立するとでも思っていたのかもしれないが。
「いや、鈴嶺さんが継いだらいいんじゃないか?」
『……はい?』
俺が言ったことを一瞬理解できなかったのか、数秒遅れて気の抜けた声が返ってくる。
「能力的に申し分ないだろ。美咲のお父さんは鈴嶺さんにも甘いみたいだし、娘が継がないなら鈴嶺さんが継ぐと喜ぶんじゃないか?」
詳しくは知らないが、美咲たちに会社のお金の一部が入るようになっていれば、美咲父なら頷きそうな気がする。
どのみち、後継者問題はどうにかしないといけないのだから。







