抑うつの写真家
「頑張り屋なところも、不器用なところも、全部好きだよ。ひとりでは上手くいかない時も、これからは僕が隣にいるから」
心が通って、初めて身体を重ねた日のことを覚えてる。一緒に過ごした日々も。幸せで、満ち足りた毎日だった。
それが、あんなことになるなんて……。
***
カーテンの隙間から差し込む、強い日差しで目が覚めた。
冷蔵庫を開けるも、食べるものがなかった。なんとか一つ残っていたカップ麺を棚から出し、ガスで湯を沸かす。
午後。日が高く昇った頃にやっとのことで、家を出て散歩に行く。それが唯一の日課だ。
心が落ち込んでからというもの、私は近場しか出掛けられなくなった。それでも、写真は撮りたい。私は何年も前から風景の写真を撮ってインスタに掲げることが趣味だった。それで毎日、家のそばを散歩して、身近な景色をカメラに収める。
何度か角を曲がると、洒落た雰囲気の白い壁が現れた。最近近所にできた雑貨屋だ。時々表に出ている商品を眺めたりする。イケメンの店員がいるようでその人を見かけると、私は緊張する。
店先にこの前までは見なかった小物が見えた。新しく入荷したのだろうか。その、エッフェル塔の小物の写真を撮りたいな、と思った。
もちろん店の商品を勝手に撮ってはいけない。
そんなことはしないが、もっとよく見たいと、体がその店に吸い寄せられていた。
店の、入り口を入って少し先のところで、容姿端麗な店員が商品整理をしていた。
店の入り口は大きく開けていて、店の前の2つの低い棚それぞれの間の、3方向から店内に入れるようになっている。
私はその店員を避けるように大回りをして店の前の棚に近づいた。傍目には若干不審ではあっただろうが、距離が取れたので少しリラックスして商品を見られそうだ。
「こんにちは。いらっしゃいませ」
彼がこちらに気がつき、店の入り口を窮屈そうにくぐって出てきた。棚一つ隔てた至近距離。
こちらも軽く会釈をする。店員に認識され、近くまでやってきたので私は無駄に2、3歩後ずさった。
「素敵なカメラですね」
「えっ、あ、すみません……」
男性に微笑みかけられて脳が硬直する。
「時々来て頂いてますよね。ありがとうございます」
認知されていたことが分かり、心の中で震え上がる。
ああ、私はもうこの店には来られない。
「見て行かれるだけでも、是非」
今更無視する訳にもいかず、おどおどしながら店員とできるだけ距離を取りつつ店に入る。
お手頃でお洒落なキッチン雑貨や冷感グッズなどが所狭しと並んでいる。
「ツイッターって……やってますか」
棚を挟んだ反対側から店員の声がした。
「ここのアカウントをフォロー頂くと」
彼は一呼吸置いた。
「リボンパスタを一袋プレゼントさせて頂くんですけど」
リボンパスタ。聞き馴染みが無いが、多分パスタなのだろう。
正直パスタを茹でるのですら億劫だ。もらったところで実際使うか分からない。しかし、ちょうど今月も食費を切り詰めて生活しているところだったし、食品はあった方がいいかもしれない。
恥を捨てフォローしたアカウントを見せにいく。そうだ、パスタのため。一瞬だけぎゅっと目を瞑った。
端正な顔が私のスマホを見つめるのに約7秒。
「あれ!mao_1107さんですか! 僕maoさんの写真のファンなんです。ほら、僕もフォローしてる」
落ち着いた雰囲気だった彼が子どもっぽく燥いで言った。
画面のどこかに名前が載っていただろうか。写真垢のユーザー名を呼ばれて肩が跳ねる。
見せられたスマホは確かに私のことをフォローしていた。
家の近くにできた雑貨屋の店員が私を知っていた。
そんなこと、ある?