サブリミナル・マイノリティ
#1
世界なんて終わってしまえばいいと、毎日思っていた。
自殺する直前の心境というのを、よく夢想する。
たぶん、あらゆる葛藤を通り越して、既に感覚は鈍麻しているのだろう。
そうじゃなければ、踏み出せない。
屋上から飛び降りたり。
電車に飛び込んだり。
踏み台を蹴り倒したり。
練炭に火をつけたり。
その、最後へと至る行為というのは、まともな神経では到底できまい。
本人は正常のつもりなのだろうけど。
そう。
世間だか社会だか知らないが、そういう中で生きていると、納得いかないことや違うだろうと思うことが多々生じる。普通ならそうしたズレは、順応したり我慢したり諦めたりしてやり過ごすのだろう。
だけど。
そのズレを、自分の中で解決できずにいると。
そこからどんどんズレが広がり、悪化して、世間や社会との乖離が起きる。自分では正しいと思うことが自分以外には理解されなくなる。異常のレッテルを貼られ、それに対してこちらも頑なになり、孤立が深まっていく。
そうして、断裂がもはや修正不能になったとき。
人は──死にたくなるのだろう。
俺の中にも、断裂がある。
元々、何となく生き辛さは感じていた。生きていても楽しくない、辛いことばかりだと思いながら、それでもどうにかやり過ごしていたのだけど。
身の回りが回らなくなるにつれて、やり過ごすことができなくなった。失業があり、離婚があり、荒れた生活が祟って病気になり、家族とも疎遠になった。世間とも社会とも切れて、その乖離が決定的になって、自分の世界に接触してくるあらゆるものが不快になった。
生きるのは辛い。とても辛い。
痛かったり、苦しかったり、腹立たしかったり、煩わしかったり。
そんな辛さを乗り越えてまで生き続ける意味が、わからなくなった。
でも死ねない。水を張った洗面器に顔を突っ込んでも、ロープで首を括っても、結局は苦しさに負けて諦めてしまう。
どちらにしても苦しいのだ。それを乗り越えなければ畢竟、自力で死ぬことはできない。
生も死も、辛さの先にある。
それを知ってしまったら、後はもう絶望するしかない。生きていたくないのに死ぬこともできず、煩悶を繰り返しながら毎日をずるずると過ごしている。
いつまで経っても俺の感覚は鈍麻しない。一体どれだけ苦しめばその境地が訪れるのか。
もう待てない。
自分で死ねないなら、誰か殺してくれ。死なせてくれ。
恐怖も苦しみも感じることなく、一瞬で。
コンピューターをシャットダウンさせるみたいに、即座に、プツリと。
俺の世界を終わらせてくれ──。
「では、安楽死に肯定的な意見を伺っていきましょう」
つけっ放しのテレビから垂れ流された音声が、ふと耳に引っかかった。
画面に目を向ける。軽薄な討論番組──いや、教養の皮を被ったバラエティか。左上のテロップには『世の中のタブーを激論』とある。
「死ぬ権利を認める時代になったのだと、思います」
語り出したのは、陰鬱な目をした男。『新進気鋭の社会学者』と紹介されている。見た目から肩書まで、何もかもが胡散臭い。
「医療も社会制度も進歩したことで、生きたければどこまでも生きられる時代となったのです。そうなれば当然、余剰になってあぶれる者が出てくる」
「でも、人口は減少しているんじゃ」
雛壇のタレントが口を挟む。
「世界全体では人口は増加し続けていますよ。ですから
自殺というのは、総体としての人類が均衡を保とうとして発生する現象であると、私は考えています」
スタジオがざわついた。
同時に俺は興味を持った。そのまま傾聴する。
「ですから自然なことなのですよ、自殺は。もちろんそれぞれ原因はあるのでしょうが、最後の最後に後押ししているのは、そうした人類全体の調整機能であると」
人類が、人口を調整している。
ならば俺が死にたがっているのも。
お前は余分なんだ。必要ないんだと、人類に切り捨てられたということか。
理不尽な話だが、なぜか悪い気分はしなかった。
「暴論だ」
向かい側のパネリストが叫んだ。
「そんな、何の根拠もないことを」
「仰る通りです。根拠はありません。ですが、根拠がなければ語ってはいけないというわけでもないでしょう。ここは自由な言論の場なのですから」
「そんなトンデモ理論を、誰が信じると」
「信じたくなければ信じなければいいだけのこと」
「ちょっと待ってください」
雛壇の女が話の腰を折る。せっかく盛り上がっていたのに。
「安楽死って、重病の人の話だと思っていたんですけど、その、自殺したい人に対しても認めるべきって言うんですか」
「当然です。今申し上げたように、私は自殺も自然の摂理によって起こるものだと考えています。ならば病死と同等に扱うべきでしょう。死にたい人は
速やかに、楽に死なせてあげるべきなのです」
テレビの向こうが騒然とした。
俺は何だか高揚している。
「人の命を何だと思っているんだ!」
顔を真っ赤にしたパネリストが激昂する。
「そんなこと倫理的に認められるわけがない」
「認められないでしょうね。ですが、裏を返せば歯止めをかけているのは倫理のみ、ということでもあるのです。そして倫理というのは不変ではない」
誰もが浮き足立っている中で、そいつだけは淡々と、滔々と話を続けていた。
「死んではいけない、という価値観がこの国で共通認識になったのは、実は最近のことなのです。ほんの一昔前までは、国家のためだの主君のためだの家名のためだのと、実に下らない理由で人は自ら命を絶っていた。その反動から命を尊ぶ考えが広まったのでしょうが──いささか振り子が振れすぎた嫌いもある」
「振れすぎた?」
「生の肥大化と、私は呼んでいます。生きることを過剰に尊重した結果、死ぬことを厭うようになってしまった。誰しもに必ず訪れることだというのに。生きていれば何とかなるとか、死んだらおしまいとか、これはもはや強迫観念です」
生きていれば、何とかなる。
ならねぇよ。
そんなのは、何とかなっている人間の言い分だ。
「毎日地獄のような苦しみを味わっているのに、それでも生きることを強いるべきか否か。それが安楽死問題の主旨なのでしょう。ならばそれを、なぜ心の苦しみには適用しないのか。死にたいと思っている人だって毎日地獄のように苦しんでいるのです」
そうだ。
その通りだ。
「そういう人は、その、精神科とかに」
「もちろんまずは医療機関にかかるべきです。ですが、治らない病気があるように、治らない心の病だってあるのです。前者には安楽死を認めて後者には認めないというのは、道理が通らないのではないですか」
こいつは何者だ。
この男の素性が知りたくなった。他人に興味を持つなんて何年ぶりだろうか。
PCを開いて、名前を検索する。
「死にたい人に生を強要する権利はありません。できるだけ楽に死んでいただくのが、社会としても人類としても、自然なあり方なのです」
検索結果のリンクを押す。
テレビの画面よりもさらに陰気な顔が、ディスプレイに表示された。
#2
いったい、あとどのくらい続けることになるのかと、ぼんやり思った。
今日も暇だ。
入ったのはフリーの客ばかり。指名はゼロ。実入りの少ないフリーはなんだか損した気分になる。
でもまぁ、仕方ない。こんな年増を抱きたい男など滅多にいないし。冷やかし半分の客でも来てくれるだけありがたいと思うべきなんだろう。
流されるまま流されて、気がつけば二十年。後悔するつもりはないけど、年を重ねるにつれて虚しさは募ってくる。
最初に体を売ったのは高校のとき。ネットで知り合ったエロ親父とやって、小遣いをもらった。セックスは大して気持ちよくないし好きじゃないけど、ワリのいい肉体労働だと割り切れば我慢できた。
そのとき気持ち悪いとか怖いとか思っていたら、この沼にハマることもなかったんだろう。今さらだけど。
わたしはむしろ、ちょろいもんだと味をしめてしまった。
卒業してもしばらくは援交を続けて、そのうち高校生のフリも面倒になって風俗を始めた。本番に抵抗はなかったから、地元を出て寮完備のソープに入った。
最初の頃は入れ食いだった。若いというだけで男は掃いて捨てるほど寄ってくる。毎日指名客でスケジュールが埋まり、だいぶ稼いだんだと──思う。
実のところ、その頃の記憶はあんまりない。忙しすぎて、というか、なんだか夢の中にいたような気持ちでふわふわと毎日を過ごしていた気がする。
そのとき稼いだお金も、今はほとんど残っていない。いったい何に使ったのやら。もしかしたらわたしの経済観念が緩いのをいいことに、店がちょろまかしていたのかもしれない。
十年過ぎたあたりから、指名が減っていった。しょせん若さだけが取り柄だったらしい。愛想も悪いしサービスも雑。客の顔も覚えられない。それで若くなくなれば、当然客は離れていくわけで。
浮かれた気分も少しずつ醒めて、我に返り、後に残ったのはなけなしの貯金と、稼げなくなった情けない体。残高はピーク時の二割を切り、逆に体脂肪率は三割を超えた。全体的に重力に勝てなくなった。皺をメイクで隠すのも一苦労だ。
このままじゃ先が見えている。潮時なんだろう。そう思っていよいよ別の仕事を探したりもしてみた。昼の仕事の求人を見て応募しようとしたのだけど。
履歴書が、書けない。
どう書けばいいんだ。店の名前なんて絶対に出せないし。仕事内容はざっくりと接客でいいのか。面接で具体的に聞かれたらどう答えたらいい。
そういうアレコレを考えて、悩んでいるうちに面倒になって。
けっきょくいつも投げ出してしまう。
いっそのこと何も書かず、家事手伝いで通せばいいのかもしれない。でも、それはそれでなんだか悔しい。
何もしてなかったわけじゃない。それなりに稼いでいたんだ。サービスして、見返りにお金をもらって。他の仕事と変わりないのに。
それをなかったことにしないといけないというのが、癪だった。
どうしてこんなに後ろめたい思いをしなきゃならない。隠さなきゃならない。必要とされているからこういう仕事があるんだろうに。
しっぽり楽しむだけ楽しんで、その後は見て見ぬフリをされる。遠ざけられる。
そうして世間から、置いていかれる。
今はまだ、どうにか食い繋ぐことができているけど。
それもできなくなったとき、わたしは。
どうなるのだろう。
──どうでもいい。
未来のことなんて、考えたくもない。
このまま生きられるだけ生きたら、野垂れ死ぬか。
それがわたしにふさわしい。きっとそうなんだろう。
「現在、この国の性産業はとても歪な構造になっています」
待機部屋にいる別の子のスマホから、声が聞こえた。
ネット番組を観ているようだ。性産業。うちらの話題なんだろうか。気になったので後ろから覗いて見せてもらう。
「風俗などという言葉でオブラートに包み、料亭だの浴場だのという建前の下で売春が行われている。それが果たして健全な状態と言えるのか」
丸テーブルを囲んで五人くらいが討論している。いま喋っているのはナマズみたいな顔をした男。色白で、のっぺりしていて、いわゆる生理的に受けつけないタイプだ。
「それがいいんじゃないですか。奥ゆかしくて」
顎髭を生やした好色そうな爺さんが言う。
「そんなものは奥ゆかしさでも何でもありません。法の目を掻い潜るための、単なる姑息な手段です」
「そうです。実際はただの売春なのに、それを隠蔽している。悪質です」
ナマズ男の隣のおばさんが声を荒らげる。いかにもなインテリママだ。昔の学園ドラマに出てきそう。
「それによって多くの女性が、禁止されているはずの売春を強いられている。このような店は取り締まるべきです」
「取り締まっても、地下に潜るだけだぞ」
爺さんの側にいた、いかつい男が反論する。この人は見たことある。元悪役プロレスラーだったかな。
「あんたはわからんだろうが、男は性欲をどこかで発散しないといけないんだ。取り締まっても絶対になくならない」
「それはそうでしょう」
おばさんが言い返す前に、ナマズが口を挟んだ。
「ですから私は、売春を合法化すべきだと考えています」
あれ。
このナマズ、そっち側なのか。隣のおばさんも裏切られたみたいな顔をしている。
「禁止するからそういう歪なことになってしまうのです。どうせ無くならないのであれば、国家が徹底的に管理すべきなのです」
「じ、時代を逆行させる気ですか」
「逆行のどこがいけないのですか。行き詰まったのなら元に戻すのも一つの手でしょう。それに過去と現在では社会状況が全く異なります。かつての反省を活かし、今の時代に合った制度を作るのであれば、それは逆行ではないでしょう」
ナマズは半笑いを浮かべながら、全員を相手にして喋り続ける。
「性産業に従事している、いわゆるセックスワーカーの多くは、別に強要されて働いているわけではない。借金漬けの果てに沈められて──などというのは遠い昔の話です。中にはいるのかもしれませんが、大多数は納得してその仕事に就いている」
「なら、いいじゃないか、このままで」
「問題なのは、今のセックスワーカーは社会の枠組みから外されている、という点です。需要があるから存在しているのに、実際に従事している人のことを誰も直視しない。汚れ仕事だと唾棄している」
汚れ仕事。
そんなことはわかっている。でも。
「そうした偏見は、残念ながら無くなることはありません。性欲という人間の本能に関わる問題である以上、今後も根強く残ることでしょう。しかし、偏見を持たれているからこそ、せめて社会の枠の中に入れてやるべきなのです。それによって、
社会が彼らの存在を認め、彼らも社会の中で活動しているという実感が持てる。それが何より重要です」
偏見がなくならないとか、社会に入れてやるとか、ぞっとしない言われ方だけど。
存在を認められる。社会活動している実感を持てる。
それは少し面白い気がした。性欲処理で社会活動か。いい社会じゃないか。
「労働環境、社会保障、そして衛生面の問題。セックスワーカーは様々な不安を抱えて働いています。それを法整備によってクリアにすることで、偏見を持たれている彼らを保護する。反社会に靡かせないためにもこれは有効です」
「あの、『彼ら』というのは?」
おばさんと爺さんの間で居心地悪そうにしていたアナウンサーが聞き返した。司会なのにちっとも仕切れていない。
「彼女たち、ではないのですか?」
「セックスワーカーは女性ばかりではありませんよ。男性だって、いわゆるニューハーフの方だっています。当然そちらも同様に管理すべきでしょう」
男が男の相手をするゲイの風俗──ウリ専。そしてニューハーフや女装子のヘルス。どちらも「お尻の穴は性器じゃない」という理屈で普通に売春が行われているらしい。これはこれで、やっぱり変な理屈だ。
けっきょく、隠したいだけなんだろう。
存在するけど認めたくない。汚いコトだから、恥ずかしいモノだから。「売春に似た何か」ということにして、どうにかこうにかやり過ごそうとしている。
ご利用するだけしておいて。
──くそ。
なんだか腹が立ってきた。
見ろよ、おい。汚くたって生きてんだ。恥ずかしくったって同じ場所で暮らしてんだ。売春して、体売って金もらって。文句あるか。
ダメだってんならちゃんと取り締まれ。できないならきちんと認めろ。
中途半端にするから。
こんな半端なバカができ上がってしまったじゃないか──。
「セックスワーカーは確かに社会に存在しているのです」
そうだ。存在してる。
「褒められたことではありませんが、必要とされているからそういう仕事がある」
必要とされたんだ。たくさん。それなのに。
どうしてこんなに惨めな思いをしなきゃならない。
「彼らを社会の恥部などと貶めて隔絶するのではなく、社会の一員として存在を認めて囲い込む。そうでなければ彼らの人権は護れない」
こいつの言う通りになれば。
この先細っていくしかない道も、少しは開けるのだろうか。
履歴書にも堂々と書けるようになるのだろうか。
「現在の脱法的な状況が、セックスワーカーを不当に虐げる要因となっているのは明白です。完全に禁止したところで脱法が違法になるだけで状況は変わらない。彼らだって
我々と同じ国民なのです。同じように護られて然るべきです」
わたしは自分のスマホを取る。そして。
ナマズの手元のネームプレートを確認して。
その名前を検索窓に入力した。
#3
働いたら負け、というのは蓋し名言だと思っている。
だって、負けじゃないか。
面倒くさい。しんどい。ストレス溜まる。体も壊れる。腹も痛くなる。
そんな嫌なことのオンパレードを毎日繰り返してまで、働かないといけないものなのか。
金を稼がなきゃならない。生きていくために働くのだという。
でも、別に贅沢をしなければ、わりかし生きていけるものなのだ。最悪、生活保護という手だってある。
ただ、問題なのは。
世間体。
これが一番厄介だ。
仕事してないというだけで、白い目で見られる。穀潰しだの臑かじりだのと犯罪者さながらに叩かれる。
実際、犯罪に近いことではあるらしい。この国では働くことが当然なのだという。憲法にも勤労は義務なりと明記されている。
でも、それは「しないといけない」くらいのニュアンスだろう。イコール犯罪ではないはずだ。
悪いことはしていない。誰にも迷惑はかけていない。
親には多少迷惑かけているかもしれないが。それでも小遣いはもらっていない。金がなくなったら、しぶしぶ単発のバイトをやって凌いでいる。
単発以外はやらない。
仕事が、長続きしないのだ。
どんな仕事でも、必ず他人と関わらないといけない。いつもそれがネックになる。
気の合う人ばかりなら問題ないけれど、気の合わない人が一人でもいるともう駄目だ。やる気がなくなる。毎日が鬱になる。腹も痛くなる。
それは多くの場合、思い込みであり考え過ぎだ。相手に悪意はない。自分の過敏すぎる性格が原因だ。わかってはいる。
だけど、一旦そう思い込んでしまったら──もう、どうしようもないのだ。無意識に拒否反応が起きる。そして腹が痛くなる。
で、結局嫌になって辞めてしまう。
働くということに、向いていないのだと思う。
それなら何も無理して働くこともないだろう。そう思うのに。
何だかやたらと居心地が悪い。
そしてやっぱり、腹が痛くなる。
『ベーシックインカム導入の可能性を探る』
いつものようにトイレに籠ってタブレットでニュースを漁っていたら、ひとつの記事が目についた。
ベーシックインカム。確か国民全員に一定の生活費を支給する制度だったか。どこかの国で実証実験をやっているというニュースを見た覚えがある。
本当に実現したら有難いことだけど、現実的ではない気もする。
『国内外で論議され、実証実験も行われているベーシックインカムであるが、様々な問題も指摘されている。実際に導入される可能性はあるのか。その際の問題は何か。今回は導入賛成派に意見を聞き、疑問をぶつけてみた』
冒頭文の後で、意見を聞いた何某という学者が紹介される。写真もついていたが、生白いオタク顔でどことなく如何わしい。十人中七人くらいには好感を持たれない感じだ。
『ベーシックインカムは、これからの時代の社会保障としてスタンダードになることでしょう』
のっけから飛ばしている。
半信半疑で、記事を目で追っていく。
『AIの発達により、あらゆる労働がコンピューターと機械で可能になる時代が遠からず到来します。これはかつての産業革命の比ではない。確実に人余りの状況が訪れます。その際に余った人材をどうすべきか。国民を養うためにわざわざ機械よりも効率の悪い人間に働かせるのか。これはいかにも本末転倒です。そんな馬鹿なことをするくらいなら、いっそ働かなければいいのです。要は
人間に必要以上に働かせないようにすることが、最大の効率化なのです』
なかなかエッジが利いている。
真偽はともかく、面白そうな話だった。
『そのために必要となる制度がベーシックインカムです。私の試算では、非効率な労働による損失よりも、国民全員に生活費を支給した方がコストを抑えられるという結果が出ています』
その後に試算結果らしきグラフが載っているが、これも何だか眉唾だ。大体こんなもの、未来に起きる仮定の話を机上で出しただけだろう。いくらでも自分に都合よく操作できる。
『人間を労働の義務から解放する。これが新たな時代の産業革命です。働きたい人は好きなだけ働けばいいし、働きたくない人は無理に働くことなどないのです』
ここで、インタビュアーから質問が入る。全国民に一定額を支給するとして財源はどうするのか。この手の話のお約束だ。
『そんなことを気にしていては何も始められません。どうにでもなりますよ。増税も当然あり得ますし、生活保護や年金も廃止でしょうから、そちらの予算を回すこともできる』
年金も廃止か。何気に凄いこと言ってるな。
でも、どうせ破綻寸前のシステムなのだから、いっそ無くしてしまってもいいのかもしれない。自分も長いこと払ってないし。
『子供からお年寄りまで、老若男女の区別なく全員が同じ額をもらう。もちろん乳幼児や被介護者など、余分にコストがかかる方には別途の補助も必要でしょうが、人は皆平等であるという観点においては、これほど理想的な制度はありません』
何だか社会主義みたいな話になっている。大丈夫かこれ。
案の定インタビュアーから指摘が入り、それから勤労意欲の低下に繋がらないかという質問が来る。これもお決まりの展開だ。
さあ、どう答える。
『ベーシックインカムはあくまで底上げをしているだけです。個人の所得や企業活動に制限をかけているわけではない。より良い暮らしをしたい、いい物を買いたいという人は結局働いて賃金を得るしかないのです。そういう人の勤労意欲には影響しない。そうではない人は』
自分のような人は。
『現在の制度だって元より勤労意欲はないし、そういう人に無理に働かせたところで不幸になるだけです。自身も、周囲も、国家としても』
ああ。
わかっているじゃないか。
『もし、この制度で誰も働かなくなるというのであれば、それはやむを得ないことでしょう。滅びるだけです。強制されなければ働かないような怠惰な国民は滅んだ方がいいのです。働きたい人が働き、働きたくない人は働かない。それで過不足なく回る社会こそが、これからの社会です』
過激だ。
過激で、荒唐無稽で、どこか間違っている気がする。
でも。それでも。
何だか久しぶりに胸が空いた気がした。
ブラウザで別のタブを開いて、この男のプロフィールを調べ始める。
腹の痛みもいつの間にか消えていた。
#4
今日もまた、あまり眠れなかった。
寝られるときに寝ておかないと。それはわかっているのだけど、そう思えば思うほど目が冴えて。
気がつけば、余計なことばかり考えている。
もぞもぞとベッドから抜け出して、壁の時計を見上げる。十時を少し回ったところ。カーテンの隙間から漏れた光が枕元まで真っすぐ射し込んでいる。外はいい天気らしい。
視線を時計から下ろして、そっと様子を窺う。木製の柵の中にある、小さなベッド。
タオルに包まれた赤ん坊が、すうすうと寝息を立てている。
今日は寝つきがいい。いつもならそろそろ泣き出す頃だ。毎日このくらい寝ていてくれたらいいのに。
ゆうべは大変だった。
寝ている途中で泣き出され、おしめを替えてミルクを飲ませてもなかなか泣き止まず。
やっと寝ついたと思ってこちらも横になり、微睡みかけたところで。
また──泣き出す。それが三回くらい続いた。
睡眠を妨害されることほど、神経に障ることはないと思う。
眠れないのもそれが一因なのかもしれない。神経が過敏になっている。ちょっとした物音でも気になってしまう。
──なんなのだろう。
ぼんやりと木の柵を眺めながら、考える。
どうしてこんな思いをしてまで、育てなければならないのだろう。
柵の向こうの、タオルの内側。そこで寝ているのは紛れもなく、自分の子供。
でも、実感がない。
出産はとにかく地獄だった。いっそ殺せと何回思ったことか。実際そんなようなことを叫んでいた気もする。
それだけ辛い思いをして産んだのだから、大事にしなければ。そう思うようになると言われていたのだけど。
私は、思わなかった。そこに寝ているモノに愛情が持てない。
そもそも愛情というのが、わからない。
今まで生きてきて、そんな感情を覚えたことなんてなかった。親には育ててもらって世話をしてもらって、感謝はしているけど、でもそれは親だからある意味当然なことでもあるわけで。
その関係に愛情というものが、果たしてあったのかどうか。
少なくとも私の方は、感じなかった。
今のダンナとも、学生時代に請われてつき合い始めて、卒業後にプロポーズされてそのまま結婚した。彼といるのは楽しくはあったけれど、でもそれは友達といるのとあまり変わりなかった気がする。
結婚も、子供を作ることも、全部彼から切り出された。私は断る理由がないから受け容れただけ。別に彼と暮らしたかったわけでも、子供が欲しかったわけでもない。
それでも一緒に暮らせば、お腹を痛めて産めば愛情も湧くものかと思って、してみたけれど。
未だにその瞬間は訪れことなく。
こうして昼間から、薄暗い部屋の中でくたびれている。
本当は、愛情なんて存在しないのかもしれない。それは「ないけれどあることにする」お約束みたいなもので、みんなで暗黙の了解を守っているだけなのではないか。
愛情は、ないけれど、ある。そう思い込むことで成立するもの。
だったら。
どうして私だけ、そう思えないのだろう。
そんな簡単なお約束すら守れない、私が馬鹿なのか。
馬鹿なのだろう。どうせ私は馬鹿だ。こんな馬鹿が母親なんて。子供を育てるなんて。
──ダメだ。
疲れた頭で考えたりするから、気が滅入るのだ。
気分転換しようと立ち上がって、部屋を出る。寝間着のまま隣のリビングに行ってテレビをつけた。もう赤ちゃんも起きて構わないから、音量は下げない。
画面に映ったのは、殺風景な背景と、カメラの正面に座っている背広の男。政見放送か。そういえば選挙期間だったと思い出す。
いつもならさっさとチャンネルを変えていたところだったけれど。
「現在も子育てに苦労されている親御さんは、多いかと思います」
何の話だろう。
気になったので、リモコンを握ったままその候補者の演説を聞く。何だか目つきが陰険だ。あまりいい印象は持てない。
「育児というのは、親にとっては大変なことであり、一方で子供にとっては非常に重要なプロセスでもあります。幼少期の育て方でその子の将来が定まると言っても過言ではありません」
嫌なことを言う。
でも、その通りではあるのだろう。親は身内であると同時に、一番たくさん接することになる他人だ。親とぶつかることで曲がったり直ったりしながら、子供は自身の在り方を見つけていくのだろう。
隣の部屋で眠っている、あの子も大きくなって、自我を持ったとき。
私はちゃんと接することができるのだろうか。
考えただけで、また気が重くなる。
「そのような大切な期間を、果たして育児の素人である親に任せていいものか。私は長年疑問に思ってきました」
育児の素人。
当然だ。ほとんどの人は初めて親になるのだから素人に決まっている。
「虐待や育児放棄によって亡くなる子供は後を絶ちません。命を落とすことはなくとも、幼い心に深い傷を負うことになる。そのような惨状を目の当たりにする度に、私は忸怩たる思いに駆られます」
虐待。育児放棄。
どうしてそんな酷いことをするのかと不思議に思っていたけれど。
今なら少しだけ、わかる気がする。
もし、今みたいに神経がすり減っているときに、子供が面倒を起こしたら。私だって。
自制が利かなくなるかもしれない。
怖い。
そんなことをしてしまいそうな、自分が──怖い。
「警察も児童相談所も、現状では何の歯止めにもなっていません。親という印籠を振りかざされれば彼らも引き下がるしかないのです。ですから、私は
親から育児の権利を剥奪しようと考えています」
な。
なに言い出すんだ、この人。
「生まれた子供は一括して、国が育児を行います。整った環境で、専門のプロフェッショナルの手によって。それが子供を心身ともに健やかに育て上げる最善の方策です」
専門家が──育児する?
それじゃあ、親は。
「親権はもちろん親のままですが、それだけです。育児には一切干渉させません。接触する際には専属のカウンセラーの許可を取っていただきます」
子供と話をしたり、出かけたり。そんな当たり前のことすら許可がいる。自由にできない。
そんなの、どこが親なんだ。
いや。でも。
親は親なのか。一緒にいなければ、育児しなければ親じゃないわけじゃない。むしろ育児しなくても親だから問題になっているわけで。
それなら。いや。
なんだか動揺している。どうしてだろう。
「問題のある親か否か、というのは判断が非常に難しいものです」
画面の向こうの男は、こちらに語りかけるように続ける。嫌な目だ。でも。だけど。
「人当たりの良かった女性が親になった途端に豹変するという事例を、私はいくつも知っています。こればかりは親になってみないとわからない。そして実際に問題が起きて、子供が傷ついてからでは遅いのです。ですから
適性の有無に関わらず、一律に親から育児を取り上げる。生まれてきた尊い命を救うには、これしかありません」
この人、本気か。真面目にこんなこと言っているのだろうか。
こんな主張して票が集まるとは思えない。泡沫候補だから好き放題やっているだけなのか。世間からは間違いなく総スカンだ。
子供を持つ親だって、ほとんどはきちんと育児をやっている。自分の子供を取り上げるなんて、そんな話を支持するわけが。
──でも。
本当に、そうなのだろうか。
本当は、みんな私と同じように、暗い思いを抱えているのではないだろうか。
愛情というものもわからずに子供を産んで。これからのことで憂鬱になって。
この子がいなければって──ふと思ったりしているのだろうか。
もし、そんな親たちが、この放送を見たら。
そこに希望を見出したりしたら──。
「子供は国の財産です。ならば国によって保護されるべきなのです。未来ある子供たちを守るためには、無能で無責任な親に育てさせてはならないのです」
隣の部屋から泣き声が聞こえた。
私はそれにも構わずに、震える手でスマホのロックを解除して。
その候補者の名前を検索した。
#5
どうしてまともに生きられないのかと、うんざりした。
体が重い。百キロもあるのだから当然か。
ほとんど転げ落ちるようにしてベッドから降りる。寝る前にガンガンしていた頭の痛みは治まっていた。二日酔いは免れたらしい。
足を引きずるようにして台所まで行って、冷蔵庫から買い置きのファンタ五百ミリリットルを一本出して、一気に飲み干した。四十前にもなってファンタというのも我ながらどうかと思うけど、好きなのだから仕方ない。
パンツ一丁でソファに腰を下ろし、テレビをつける。夕方のニュースの時間だった。眉毛の濃い気象予報士が伝える天気予報を聞くともなく聞く。
疲れが取れていない。昨日はハメを外しすぎたか。
昨日と言っても日付では今日なのだけど。仕事が終わってから、同僚二人に閉店まで残ったお客たちも加えて、六人で朝まで飲み屋をハシゴした。
さながら怪獣襲来みたいな有様だったに違いない。総体重五百キロ超のヘビー級おっさん集団、しかも半分はケバいメイクに派手なウィッグに露出多めの衣装に……要するに仕事着のままだったから。
なるべく迷惑にならない店を選んだつもりだったけど、それでも迷惑だったかもしれない。明日出勤する前に謝っておこうか。
こんなナリだから目立つのは仕方ない。好奇の目は慣れたものだけど、悪目立ちしてはいけない。
そのくらいの配慮がなければ。
この、まともな世界で。
まともではない、こんな生き物は生きていけないのだ。
──本当に。
何をどう間違って、こんなナリになったものだか。
全ては自分のひねくれた性格が招いたことだ。世を拗ねて、他人を嘲って、ありとあらゆる「正しいこと」に背いて生きてきた。
背いたと言っても反社会ではない。それは自分がいちばん忌み嫌うところだ。反社会も裏社会も表に対するアンチテーゼでしかない。そんなものは社会に付随する、ただの影だ。
自分は、そういうのも含めて全部から外れていたいのだ。何かの枠に収まっているという状態が嫌だった。
でも、それでは生きていけない。社会の中にいる限り、この枠からは逃れられない。
だから。
男なのに、女の恰好をして。
いい歳こいた大人なのに、子供みたいに選り好みして。
極めて常識的なのに、非常識な言動をして。
そうやって枠から外れているフリをすることで、自分の気持ちを納得させる。そういう解決の仕方を覚えてしまった。
太ったのは単なる不摂生だけど。
中途半端に枠からはみ出して。中途半端に社会と接して。
その結果。
こんな、何だかわからない肉の塊が出来上がってしまった。
──しょうもねぇ。
まともに生きられない、自分の性根が嫌になる。
「ジェンダーについて、見識をお伺いしたいと思います」
ニュースの後の番組がつまらなかったので適当にザッピングしていると、珍しい言葉が聞こえてきた。
ジェンダー──社会的な性。あまりテレビで聞く言葉ではない。
「まず初めに、そもそもジェンダーとはそこまで重要なものなのでしょうか」
生白い男が画面の中で発言している。知り合いのオカマのすっぴんに少し似ていた。テロップには内閣補佐官の誰々と表示されている。
「今さら何を言うのですか。重要です」
カメラが切り替わって女性が大映しになった。いや、この人は。
男性──でもないか。トランスジェンダーの国会議員。ニュースで見たことある。元々はLGBT絡みの活動家だったはずだ。
LGBT──レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの頭文字を取った略称。そうした性的マイノリティの権利を主張する活動が、最近は増えている。
バイセクシャルで女装で仕事している自分としても、縁遠い話ではない。店の同僚はもれなくそのカテゴリに属しているし、もちろんお客にも同類は多い。どこどこのパレードに参加しただの誰々の活動を応援してるから支持をよろしくだの、店でもその手の話題は度々上ってくる。
だけど。
正直なところ、そうした話はあまり好きではなかった。そういう活動をしている人と自分の間には、深くて暗い川が流れているような気がしてならない。
まず何より、LGBTという言葉が気に入らない。こっちは枠から外れたくてこんな恰好しているのに、どうしてわざわざ新たに枠を作って囲い込もうとするのか。勝手に規定しないでほしい。
そして、彼らの活動そのものも。ケチをつけるわけではないけど。
何だか引っかかって仕方がない。
確かに同性愛やGIDは昔から偏見に晒されてきた。だいぶ風当たりが弱くなったとはいえ、今も彼らには生きづらい社会に違いない。
自分もカマ豚だのキモ豚だの、散々悪口を叩かれてきた。でも。
気色悪いと言われるから、何だこの野郎と言い返せる。うちらは笑われ嫌悪され見下されることでコミュニケーションを成立させてきたのだ。
一方で活動家たちは、自分たちが笑われたり嫌悪されたり見下されたりしない社会を目指している。だから当然そうしたコミュニケーションを快く思っていない。
うちらだって別に、良いことだなんて思っていない。そんなのは、イロモノとしか見られない連中が波風立てずに社会と関わるために編み出した処世術に過ぎない。
だけど。
うちらはずっと、そういう扱われ方の中で生きてきたのだ。不当だろうが卑屈だろうが、そういう生き方しか知らないし、できないのだ。
だから、もし、それが全部偏見であると否定されたりしたら。
オカマのイロモノ扱いはけしからんと、店まで潰されてしまったら。
困る。凄く困る。今さら社会の中で普通に生きろと言われたって。こんな珍獣が女もののスーツ着て経理だの事務だのやっていたらおかしいだろうに。むしろこっちが申し訳ないわ。
彼らの主張は正しいし、立派ではあると思うけれど。
やっぱり手放しでは支持できない。
「生物としての性と心の性が一致しない性的マイノリティにとって、ジェンダーは大きな問題です」
このときも、トランスジェンダーの議員は正論を繰り広げていた。
「それによって深刻な偏見に晒されることも少なくありません。ですから」
「そういう話ではありません」
生白い補佐官が止める。穏やかな口調なのに妙に威圧感がある。
「では、ひとつご質問しましょう。もし
ジェンダーというものがなくなったら、あなたはどうお思いになりますか」
ジェンダーが……なくなったら?
意味がわからない。質問された議員も怪訝な顔をしている。
「それは、生物としての性に統一するということですか。でしたら」
「そうではありません」
補佐官は小馬鹿にするような笑みを浮かべながら言う。
「生物としての男女、この場合は雌雄と言った方が適当でしょうか。それが必要とされるのはせいぜい医療か研究分野くらいでしょう。それ以外で男女を区別するのは、社会的な役割としての性──すなわちジェンダーです。私は
社会生活における全てにおいて、性別による区別を撤廃しようと考えています」
性別を撤廃?
一体どういう冗談だ。そんなこと。
「そんなできもしないこと言って逃げないでください!」
正しい反応だ。できるわけがない。
だけど、相手は。
「私は至って真剣です。現在法案の提出に向けて準備を進めています」
平然とそんなことを言い放つ。
「性別という区別がなくなれば、同性も異性もありません。全ての人が同じ『人間』という存在です。性別に関わらず好きな装いをして、愛したい人を愛したい。それがあなた方の主張なのでしょう。その障害となっていた性別の壁が無くなるのだから、あなた方にとって理想の社会ではありませんか」
「な、何もそこまで望んでいるわけでは」
狼狽えている。当然だろう。
この人たちにとってジェンダーは、それ自体がアイデンティティなのだ。ある意味、普通の人以上に男であること、女であることにこだわっている。
それがなくなってしまったら。
自分たちの存在意義すら──失いかねない。
「そんな法案、通るわけがないでしょう」
「そうですね。猛反対は必至でしょう。だからこそ、是非ともあなた方の支持を頂きたいのですよ。賛成して──くださいますよね」
議員は口をつぐむ。それは、彼女のロジックから大きく外れた提案だったのだろう。
「そ、それ以前の問題です」
どうにか立て直そうと、別口から反論したけれど。
「そもそも男性と女性では根本的に違いが」
おいおい。
あんたがそれ言っちゃ駄目だろう。自家撞着というやつか。
「雄と雌とで差異はもちろんあります。ですがそんなものは大した違いではない。身体特徴にせよ思考傾向にせよ、性別以前に個人個人で千差万別なのです。その違いに比べれば雌雄による相違など誤差の範囲でしょう。むしろ
性別を規定されていることが、そうした差異に拍車をかけているとさえ思っています」
本当は、大して差なんてないのに。
男である。女である。そうした思い込みが、男をより男らしくし女をより女らしくしている。無意識に寄せに行って性差を増幅させている。
そういうことは──あるか。
「ならば、我々は」
「あなた方の存在こそが何よりの証左ではないですか。自身の中に肉体と異なる性を認識したことで、その性別らしい在り様であろうとしたのでしょう。その結果、あなたはこんなにも女性らしくなった」
立ち位置を見失った議員は、男の独演の前に憮然と口を閉ざしてしまった。
「男性の役割、女性の役割などというのは前時代の発想です。性別などという肉体の性と乖離した概念が存在するから、そんな下らない役割分担が根強く残ってしまった。今こそその枠組みを外し、真の平等な社会を目指すべきでしょう。これからは
男も女もない。全員が等しく同一の存在となるのです」
実現性があるとは思えない。どう考えてもまともな話ではない。
だけど。
まともじゃない生き物としては、そのくらいがちょうどいいのかもしれない。
枠を外して、みんなが等しく同じになる。
そうなれば、自分も。こんなひねくれた珍獣でさえ。
みんなと同じに──なれるのだろうか。
カラフルなウィッグにドレス姿で事務をやっている自分を妄想しながら、テレビから目を離す。
眠くなってきた。疲れが取れていないのだ。
弛みきった体をソファに沈め、その男の顔と名前を反芻しながら、目を閉じた。
#6
まだ動悸が治まらない。
地下鉄の、駅のホーム。
ベンチに座ったまま身体を丸め、何度も深呼吸する。ぜいぜいと喉が鳴って恥ずかしかったけど、気にかける余裕はない。
油断した。
最近は発作も起きていなかった。走っている車を見ても動揺しなくなったし、まだ少し怖いけれど横断歩道も渡れるようになった。
ここ一ヶ月は、休まず大学に行くことができていた。だから。
少し、気を緩めてしまったのかもしれない。
駅から正門までの大通り。構内に入るにはそこを歩かないといけない。
歩道は整備されているけど、それでも心許ない。いつもは車道から離れた隅っこを歩くのに、そのときはうっかり車道側に寄ってしまった。
そこへ。
後ろから。
スポーツカーが猛スピードで走り抜けていった。
爆音と、突風と、排気ガスの匂いを感じて。
雷に打たれたみたいに全身が硬直して、それから遅れて発作が起きた。胸が締めつけられ、激しい不安が襲ってくる。
とにかくその場を離れなければ。車の見えない、音のしない場所に避難しないと、また倒れてしまう。
大学まではまだ距離があった。だから駅の中に引き返して。
改札を通って結局ホームまで下りて、ベンチでなかなか治まらない動悸を堪えている。
震える手で鞄からiPhoneを取り出し、イヤホンを耳につける。何でもいいから気を紛らせないと。
YouTubeのアプリを立ち上げて、適当にミュージックビデオを再生する。映像は見ずに、耳から入る音楽だけに集中する。
やっと落ち着いてきた。いちおう薬は持っているけど、あまり頼りたくない。
もう、五年になるのに。
頭を抱える。
やっぱり、まだダメなのか。
──どうして。
どうしてこんなに苦しまないといけないんだ。
ただの、普通の日常が、ずっと続いていた。それが。
あの日に。
ぜんぶ、ひっくり返ってしまった。
家族旅行の途中だった。山の保養所で一泊した、その帰り。
運転はお父さん。助手席にお母さんがいて、弟が隣にいて。
崖沿いの道の、右曲がりのカーブに差しかかったところで。
対向車線の車がはみ出して、衝突した。
そこからは断片的にしか思い出せない。いろんなことが一度に押し寄せて、ぐちゃぐちゃになって。
真っ暗になった。
起きたら土の匂いがした。
崖下の地べたの上だった。すぐ近くに壊れた車が逆さまになっていて。
車の裏側ってこんなふうなんだって、ぼんやりとそう思ってから、中を見ると。
運転席のお父さんは、血まみれで。
助手席のお母さんは、潰れていて。
後部座席に弟の姿はなくて。
車から離れて、見上げたら。
木の枝に──ぶら下がっていた。
そうしてわたしは家族をなくした。
ぶつけた相手は飲酒運転だったらしい。懲役十年かそこらの判決が出て、結審している。お爺ちゃんや親戚は軽すぎるって怒っていたけど。
どうでもいい。
量刑が重くなったら家族が生き返るというのなら、いくらでも抗議する。でも、もちろんそんなわけない。怒ったところで意味がない。
それに。
裁判で一度だけ見た相手は、気の弱そうな、普通のおじさんで。
ひどくやつれていて。涙でぐしゃぐしゃにした顔で。
ごめんなさいごめんなさい許してくださいごめんなさい。
念仏でも唱えるみたいに謝られて。
責める気持ちがすっかり失せてしまった。むしろ同情さえしてしまった。
この人も不幸になったんだ。
お酒を飲んで運転したせいで。ハンドルを切り損ねたせいで。
この人も。わたしも。みんな不幸になった。
車さえ乗っていなければ──こんなことにはならなかった。
そう思ったら。
あの鉄のカタマリが、なんだかおぞましい化け物のように思えてきて。
怖くなってしまった。
わたしにとって、この世界は化け物だらけだ。
毎日毎日、ひっきりなしに化け物どもが道の真ん中を行き交っている。平気な顔して人を殺して。不幸な人を生み出して。
それなのに。
誰も何とかしようとしない。交通ルールを守りましょう、飲酒運転はいけません。そんな口先ばかりのおためごかしで、あの化け物どもをのさばらせている。
異常だ。異常な世界と、それに気づかない異常な人々。
もう嫌だ。
どうか、お願い。
車のいない世界に行きたい──。
「車のない社会を目指します」
突然、イヤホンから人の声が聞こえてきた。
驚いて画面を確かめる。ミュージックビデオから別の動画へと切り替わっていた。勝手に関連動画の再生が始まってしまったらしい。
政治家らしき人が、街頭で演説している。聴いていたアーティストに関係しているとは思えないけど。
いや、それより。
さっき聞いた言葉は。
──車のない社会?
停止を押しかけた指を止めて、動画の続きを見る。
「モータリゼーションの名のもとに、誰もが車を持つ時代になってから半世紀。昨今では車離れも取り沙汰されていますが、それでも道路には依然として車が溢れ返っている。毎日事故が発生し、人がはねられ命を落とすことさえ起きているのに、人々はそれを日常としてやり過ごしている。これは異常です」
そう。異常だ。
気づいている人もいるんだ。この人は。
代表──候補? 与党の代表選挙の候補者なのか。
「人間にはミスもエラーもつきものです。判断の誤り。操作の誤り。そんなエラーだらけの人間が運転すれば事故が起きるのは必然でしょう。一方でメーカーの対策は遅々として進んでいない。これは明らかに怠慢です。事故を仕方ないものと受け容れてしまった社会に胡坐をかいている。ですから
私はこの国で、一般車の販売と運転を禁止することを提案します」
まさか。
本当に──そんなこと言う人がいるんだ。
「バスやタクシーなど、商用車以外は公道を走らせません。免許制度も大きく変えます。普通自動車免許は撤廃し、専門のドライバーのみ免許を交付します」
聴衆がいっせいに騒ぎ出した。ヤジが飛び、ブーイングも起きた。
「もちろん多くの人は不便を被るでしょう。産業も衰退するかもしれない。ですが私はこれまでも、声すら上げられない少数者に寄り添ってきました。
認識すらされない少数者──それこそが本当の意味でのマイノリティです。その代弁者であることが、私の一貫した信念であります」
認識されないマイノリティ。
わたしのことなのか。
「友人を、家族を失くす。生活に支障をきたす怪我を負う。無残な事故の犠牲者が毎日出ているというのに、誰も顧みない。これはどうしたことか。みなさんは真剣に考えたことがありますか。大切な人を、日常を突然奪われた方々のことを。生きたくても生きられなかった多くの命の無念を。それをもたらしたのは自然災害でも天変地異でもなく、人間の作った、人間の生み出した、あの傲慢なる鉄の機械なのです」
そうだ。そうだ。もっと言え。
この人は確かに、わたしの代弁者だ。
「そんな彼ら犠牲者──言うなれば人身御供の上に成り立つ社会など、私は認めない。今こそ新たな社会に向けて
エラーだらけの人間が運転する車を、完全に排除するべき時なのです」
心臓が高鳴っている。さっきとは違う胸の苦しさに、小刻みに息を吐く。
本当なのか。本気なのか。
この人は真剣に、こんなことを──。
ああ。
車のいない世界。それが、本当に。
この人が総理になれば──実現する。
この人は誰だ。事務所は。連絡先は。
前かがみになったままiPhoneで検索する。イヤホンはいつの間にか耳から外れていた。
電車がホームに入ってきた。先頭車両が目の前で停止する。
わたしは行き先を確認すると、立ち上がって。
開かれた扉へと、駆け込んだ。
#7
一体どうして、こんな社会になったのだ。
ガラス戸を開けて、ベランダに出る。手すりに身を乗り出して眼下の大通りを眺めた。
閑散としている。停留所に停まっているバスと、時々通りかかるタクシーとトラック。昼の最中だというのに数台ほどしか走っていない。
先月までは、ひっきりなしに車が往来していたのに。
静かだ。車の音もないし、それに。
ひとつ上の階に住んでいた、双子の子供。保育園に空きが出なくて母親が困っているらしいと妻から聞いていたが。
あの賑やかな声を、もう半年近く聞いていない。育児施設に強制収容されたのだという。
一律で育児して、教育をして。そんなのが正しいはずがないというのに。
モラルも大きく乱れている。もはや崩壊と言ってもいい状態だ。
性別による区別が撤廃されたことで、男と女の境目がなくなった。街中には同性カップルが溢れ、男装も女装も珍しくなくなった。そもそも衣服にメンズやレディースという括りがなくなったのだから、男装でも女装でもないのだが。
スカートは女性のものでなくなり、逆に背広ネクタイという女性も増えた。当初は凄まじい違和感があったが、最近ようやく慣れてきた。
売春が合法化されたことで、昔の遊郭よろしく色街も各地で作られた。他業種の会社が次々とセックスビジネスに参入し、派遣会社も一般職と同じようにセックスワーカーの斡旋を始めているという。いつの時代の話なのかと、頭がくらくらする。
うちの職場にも先日、どこどこの娼館で働いていたという子が入ってきた。そんなこと堂々と言われても困る。いちいち意識してしまって仕方がない。
学生の間でもセックスワークは人気のアルバイトなのだという。若い世代はもはや恥ずかしい仕事という感覚ではないのだ。ついて行けない。
人手不足も深刻だという。あらゆる業種で働き手が足りていない。ベーシックインカムの導入によって働かなくても生きていけるのだから当然の事態だろう。企業の倒産も相次いでいる。
明らかに経済が衰えている。金の回りが鈍っている。それによって路頭に迷う……ことはないけれど、生活レベルを落とさざるを得ない人も増えていると聞く。悲観して自殺を選ぶ人が、連日安楽死施設に殺到しているのだという。
狂っている。
誰がこんな滅茶苦茶な世の中にした。
──あいつだ。
あの、昏い淵の底みたいな目をした男。でも。
この国は民主主義だ。あいつを選んだのは他でもない、この国に住む民衆なのだ。
一体誰が支持したというのか。自分の周囲にだってあいつの支持者なんていない。いくら投票率が三割を割り込み、政治離れが極まった隙を突いたのだとしても。
あいつに票を投じた奴は、必ずいるのだ。それが信じられない。
どんな連中だ。こんな馬鹿な世の中を望んだのは。
人生に見切りをつけた落伍者か。
娼婦としてしか生きられない淫奔な女か。
働きたくない怠け者か。
子育てに嫌気がさした母親か。
男にも女にもなりたくない変態か。
事故で酷い目に遭った不運な者か。
そんな取るに足らない、少数者が。
この国をすっかり駄目にしてしまった──。
この国は、もう終わりなのだろうか。
ベランダの手すりに寄りかかったまま、目を閉じる。
静かだ。
たまに通る車の走行音以外は、風の音しかしない。空気も以前より澄んでいる気がする。
自動車がなくなっただけで、こんなにも清々しくなるものなのか。
子供の声まで消えたのは寂しいけれど、それでもヒステリックに叱りつける親の声もなくなったのは悪くない。あれは聞いているだけで嫌な気分になるものだから。
精神的に余裕が持てるようになったのは間違いない。こうして昼間からのんびりできるのも、ワークシェアが進んで休みが増えたおかげだ。職場でもやたらプレッシャーをかけられたり叱責されたりすることが少なくなった。辞められては会社としても困るからだろう。
ブラック企業なんて誰も寄りつかず、あっという間に淘汰された。学生も卒業してすぐに就職するのは半数以下だという。好きなことをして、その中で仕事を見つけていく。それが正しい順序だし当たり前だろう。思えば企業も学生も、どうしてあんなに新卒採用に躍起になっていたのだろう。
自殺者も──意外なことに──それほど増加はしていない。安楽死の希望者は必ず事前カウンセリングを受けることになっており、そこで思い止まる人も結構いるのだという。顕在化したことで歯止めもかけやすくなったということか。
繁華街は寂しくなったものの、いかがわしい看板も消えて以前より見栄えは良くなった。売春業の徹底管理によって反社会勢力の入り込む隙もなくなったと聞く。どうせ連中は新しいシノギを見つけるのだろうが。
性別も、いざなくしてみたら思ったほどの影響は起きなかった。困ったのはトイレと銭湯くらいか。それも完全個室化と水着の着用必須であっさり解決した。男とか女とか、実はわりとどうでもいいことだったのかもしれない。
一番深刻な影響を及ぼしたのは、やはり自動車の廃止だった。インフラの一角がごっそり抜き取られたようなものなのだから当然だろう。地方の人はかなりの不便を被ったに違いない。だがそれも、路線バスの拡充と配車サービスの推進で少しずつ改善されているという。
尻に火のついた自動車メーカーも、運転者不要の完全自動運転車の実用に向けて本腰を入れ始めた。来年には試験段階ながらも幹線道路での運用が始まるらしい。道路はどこもがら空きなのだから実験もしやすいに違いない。結果的にはこの施策が自動車の革新を促したわけだ。
目を開ける。
別の住人の部屋から、テレビの音声が漏れ聞こえてきた。
「悪影響はもちろん承知しています。急激な変化に、今はまだ追いついていない面があることは否めません」
あの男だ。いつもの声。いつもの演説。
「新たな試みには、必ずそうした痛みが伴います。ですが、このプロセスを乗り越えたとき、我々は新時代の到来を目の当たりにすることになるのです」
人々に希望を持たせて、我慢させる。まるきりペテン師のやり口だ。
だが。
政治なんて昔からそんなものだったような気もする。より多くの民衆を騙した者が、騙した民衆のためという名分で、好き勝手に社会を動かしていた。多かれ少なかれ、政治家にペテンの素養は必要なのだろう。
変わりないか。それなら。
「少数者こそ、物言わぬ弱者こそが新たな時代の主役です。これからも私は、声すら上げられぬ弱者の代弁者として、彼らの望む社会を作り上げてまいります」
そんなに悪くないかもしれないと、少しだけ思った。