聖水
『薬を欲する人』が再開を願う「彼女」について
彼女は聖水から成る。半透明の身体が月光を跳ね返して照り輝くその光は、俺の体が持つ治癒能力の全てを揺り起すものだった。彼女こそ、この世で唯一絶対に綺麗なものに違いなかった。綺麗なもの、というのは、俺を不安にさせないものということだ。彼女のことは信じられる。彼女のことだけは。あるいは、こうした俺の思い込みこそが、彼女を一層女神然とさせたのかもしれない。実際、彼女のことだけは信じたい、という思いはあった。汚い自分の中から必死になって探し、掻きだし集めた、いわばそういうものだった。彼女を信じられなくなった時は、もう俺が俺をどうにもできなくなった時だと思っていた。つまりは俺が世界に与えた最後の猶予、それが彼女だった。
俺を救うのはいつでも超常現象だったように思う。総じてグロテスクな意味を内包したもの達ではあったが、現実のいかなるもの等よりも、それらはずっと優しかった。彼らは俺の代わりに喜怒哀楽を感ずるものであり、度々俺が自身の精神状態を見極めることの役に立った。俺の「意識」は出来損ないで、俺を必要とすることをしばしば忘れてしまう。俺には、俺の事情が分かる俺以外の存在、というものがどうしても必要だった。ただ当たり前に生き抜くことを考えれば、彼らの協力を求めることは避けられなかった。
気づいた時には殺意だけがやたらはっきりと、自分の深い所にこびりついていた。若い年齢による反社会的な性格の発生。それ自体は珍しいことじゃないはずだ。閑散としながらも騒々しい田舎での暮らしを送る若者が持つ不特定多数への殺意など、恐らくは欲求不満の産物に過ぎない。
故郷において、俺が愛せるものはごく限られていた。それに反して、俺を愛するものは十二分にあった。この孤独は壮絶なものだった。だから、と言って、その寂しさを埋めるために「愛すべきもの」という概念を俺が作り上げてしまうと、俺はついに自分からさえも見放されてしまう。それはまずい、と思った。俺が観察を諦めた俺が、どのような立ち回りをここで見せるのか。そんなことを考え出すと不安で眠れたもんじゃなかった。
彼女の愛する日本文学は、彼女にだけではなく俺にもその微笑みをくれた。優れた詩や小説のいくつかは、なんなら当人である俺よりも饒舌に俺の心情を明かした。触発された俺は、何度か彼女に自分の書いたものを見せた。その時にはよく言われた。「あなたが書いているのは皆あなたの話だわ」――当時はそれの何がそれ以外のものと違うのかわからなかったが、今はそれをすることの愚かさが分かる。とはいえ、俺は諦め悪く彼女に作り話を聞かせたし、その度に批判をくらい続けた。やめなかったのは、結局のところ、批判しながらも、彼女がいきいきとしていたからだった。その様子を見ていると、俺は褒められることが無くても、「なんだかいいな」と思って、また新しい嘘話を彼女に教える気になった。
彼女が居る日々が永遠であれば良いと毎晩思った。こんなことを言っては本末転倒になるが、俺は彼女を隣に繋ぎとめることができるのであれば、いかなる致命傷をも負ってやろうというつもりだった。
結局、俺が必死こいてでも守りたい彼女というのは、自分だったのだろうか?
俺は、俺が逃げられないもののことをよく知ってる。それらはすべて、俺が一度は放り出してしまいたいと考えたもの達だ。俺はありとあらゆる責任から逃れたい。幸福は苦手だ。あればかりは本当に誰も謝ってくれない。俺でさえ反省することを忘れることがある。かといって他人に「あなたを喜ばせてしまってごめんなさい」とか言われるのもおかしな話だと思う。
昔の自分には申し訳なさを感じる。本来ならあいつを助けてやらないといけないのは俺だった。俺にはあいつを絶望からすくいあげる責任があったろう。それなのに俺はそれをしなかった。いや、したこともあったはずだ。俺にはあいつに教えてやりたいことがあった。ここはお前が思っているような酷い所じゃない。お前が理想とする世界は必ず地球上に存在していて、今はまだその場所を見つけていないだけなのだ、と。そう教える事には随分粘ってみせたはずだ。その頃にはもう、自分は幸福に適応できない体になっていたのだろうか。
自分のことを不幸だと思ったことは無い。自分は幸せだ。両親健在で金には困らない上、食う寝る所も住む所もある。そういう環境に感謝こそすれ、憎むなどとても。しかし、こう思うのもどうかしているような気がする。本当に俺が心から湧き上がる感謝の為に有り難さを表そうとしているのなら、こんなにも嫌な気持ちになるわけがないのではないか。結局のところ、俺は自分が生まれてしまった事実が憎くて仕方ないのではないか。感謝、というものをしたくてたまらないだけで、本当はどうすればそれができるのかわからないのではないか。
「家族」というものは俺にとって最も強い幸福の象徴だ。俺が絶対に手に入れてはならないもののひとつ。理想を言えば、俺はそれが欲しい。俺がばかにする女たちの様に、恋愛だってしてみたい。誰かを無闇に好きになれるということはどういうことなんだろうか。いつかは、好きな人と結婚して、子供を持ってみたい。実際は酷い人間不信で、人を好きになるどころか、人というだけで信用できないというんだから、本当に夢の話だが、理想を語るならそういうことを考える。現実に、俺がそういう幸せを得ることで喜んでくれる人だっているのだ。悪い考えじゃない。生まれ変わったらやってみたいことのひとつ。でもこれを考えて深めすぎるのはあんまり苦しいから程々にしないといけない。俺は知っているのだ。「生まれる」ってそりゃ暴力だ。
よく窓から身を乗り出して飛び降りることを考えた。俺の部屋は屋根裏にあった。とはいえ二階建ての家だから、仮にそこから飛び降りたとして大事にはならないはずだ。でも怪我がしたい、という思いでよく外を見ていた。深夜。星が綺麗だとなおさら血が見たくなった。綺麗な物が見えると自分の醜いのが本当に堪える。
あの子は死んでしまったんだろうか? 俺の中で最も綺麗だったあの子。詩的表現が嘘くさくなくぴったり似合う良い子だった。美しく賢いあの子が「私はあなたの未来の姿」と俺に教える時、俺は密かにそれを喜んだ。こうなれればいいな、と思った。彼女はある悲しい哲学を信じ込んでいるような雰囲気があったが、同時にしなやかな強さも感じることのできる人だった。俺もああなりたかった。子どもを救える大人に。
愛なんかで俺の気が済めば今日までの苦労はない。




