スタンド・バイ・ミー その1
第2章突入。
筋肉要塞が出てからの話です。
開口一番で「映画の世界からやってきた」とは。
突如現れた筋肉は、酷く電波な男だった。しかし、ここで「帰れ!」などと言った結果、逆上されても恐ろしい。俺は部屋の端に立てかけてあるちゃぶ台を広げて、「ま、ま、どうぞ」などと万年下っ端サラリーマンが如き低姿勢で、筋肉に座るよう勧めた。すると筋肉はド渋い声で「悪いな」などと呟き、立て膝を突いてどっかり座った。何とか殴られずに済みそうだと、俺は胸を撫で下ろした。
それから俺達の間には、気まずいとしか言いようがない沈黙が流れた。
片や、健全かつ健康優良な男子大学生、片や、映画人を名乗る電波筋肉。ロマンティックの欠片も無い沈黙ほど不毛なものは存在しない。黙って顔を突き合わせていても仕方がないので、勇気を出して「どうも」と声をかけてみると、筋肉はふいに「スライだ」と短く言った。
「スライ?」と尋ねれば、「名前だよ」とこれまた短く答える。思っていたよりシャイな筋肉さんだ、なんて若干心の余裕が出来てきたところで、「で、お前の名前は?」などとすかさずドスの効いた声で投げかけられ、俺は再びしゅんとした。
「檜山蘭っていいます。苗字が檜山で、名前が蘭」
「ヒヤマ、ラン。いい名前だな」
世辞であることがひと目でわかるほど、マッスル・スライ氏の眼は金魚のように右へ左へと泳いでいる。映画の世界の人間を自称するのに、演技が下手とはこれいかに。
「まあ、語感は悪くないと思ってます」と答えると、スライはどこか申し訳なさそうな視線を俺に向けた。
「ラン、もしかしなくてもお前は、俺のことを変な奴だと考えてるだろ?」
「そりゃまあ……急に映画の世界からやってきた何て言う男、変なヤツだって思われても仕方ないと思いますけど」
「……正直な意見、身に沁みるよ」
スライはバツが悪そうに頭をかく。
「だが事実だ。俺がテレビから出てきたところをお前だって見ただろ?」
「そう言われましても」と疑いの眼差しをスライに向けた俺は、そこでようやく「おや」と気が付いた。
芝のように短く切り揃えられた黒髪、少し曲がった唇、大きな鼻――この顔、よく見れば先に見ていた映画の主人公と瓜二つだ。それに名前も、先の映画の主人公は「スライ」という名だった。
偶然の一致としては出来過ぎているほどだが、だからといって「ハイハイなるほど。やっぱりアナタは映画の中から来た人ですか」などと信じればただの馬鹿である。
起きたことは間違いなく現実だが、常識で言えばあり得ない事態なのだから、まずは何かタネがあるんじゃないかと疑って然るべきだ。
俺は彼の化けの皮を剥がすため、いくつか質問してみることにした。
「そもそも、貴方はなんの映画から出てきたってんですか?」
「お前がさっきまで見てた映画、〝悪魔の地獄グリズリー〟から。一応主役だ」
装飾語がくどくてうるさい。そんなタイトルだと知っていれば、ハナから持ちかえらなかっただろう。というか、グリズリー要素あっただろうか、あの映画。
言ってやりたいことが色々あるのはさておいて、「なんで映画から出てきたんですか」と会話を続ける。
「俺だって出てきたくって出てきたわけじゃない。俺の住んでた映画の世界がぶっ壊れて、こっちの世界にはじき出されたんだ」
「そんな話、自信たっぷりにされても」と言いかけた、その時のことだった。俺の脳内には、さながら雨後の竹の子のようにニョキニョキとアイデアが生えてきて、そうかと思うと瞬く間に竹林の海を作り出した。
そうだ。確かにコイツは迷惑者の電波男だが、だからといって無下に追い出す必要もない。むしろ上手いこと懐柔し、親愛なる隣人にでもなりさえすれば、俺にとって大きな助けとなる。
仮に俺がスライと仲良くなって、白鯨に彼を連れていったとしよう。恐ろしき筋肉を搭載する人型兵器めいた大男を目の前にした先輩方は、「なんだどうした」という畏怖も混ざった懐疑的な目で俺を見るだろうが、そこで俺がひと言、「アメリカに居た時の友人です。アクション指導のため、無理言って連れてきました」などと吹けば、目の色を変えるに決まっている。白鯨内で俺の評価はうなぎのぼり、瞳にハートマークを浮かべた黒沢先輩から、「素敵ですっ」などと抱きつかれること間違いなし。恋の迷路の制圧は既に目前である。
そうと決まればまずは友好関係の構築からだ。「映画の世界から来た」だなんて、子どもでも信じない与太話だが、それすらも受け入れてやれば、俺と筋肉との心の距離はぐっと縮まることだろう。
打算塗れの考えに突き動かされるまま、「スライさん」と俺は筋肉氏の名前を呼んだ。
「どうした、改まって」
「俺、貴方の言ったことを信じますよ、へへ。映画の世界からいらっしゃったんですよね」
「だから俺は、始めからそうだって言ったろう。で、お前はそれを信じなかった」
「とにかく今は信じる気になったのです。へへ、どうでしょうか、望まないまま向こうから来たんじゃ、宿のアテなんて無いのでしょう」
「まあ、あるわけがないな」
「でしたら、こんな汚い場所でよければ宿にしてくださいな。ついでに、夕食なんて一緒にどうです? お腹もお空きになってるでしょうし」
「ずいぶんな大盤振る舞いだな。悪いが、オケラだぞ俺は」
「心配しないでくださいまし、お金なんてモノは取りません。ただ、貴方の話を色々と聞きたいんです」
「なら断る理由もない。ただ、ひとつ頼みがある」
スライ氏はどこかきまり悪そうに、てっぺんの辺りの髪を摘まんだ。
「一緒に住むんだから、そのスライさんってのと、妙な敬語は止めてくれ。ムズかゆくって仕方ない」
○
お言葉に甘えて敬語と敬称を即止めにした俺は、スライを引き連れ外食へ出た。上半身裸のままヤツを外に出すわけにもいかなかったのでTシャツを貸してやったのだが、俺はその行為をすぐさま後悔することとなった。
ヤツの人並み外れた筋肉量により、お気に入りのTシャツが瞬く間にノースリーブと化したのである。Tシャツ一枚と引き換えに、他を圧倒する力の前にひれ伏すのは服も人間も同じだということを学んだ。
アパートを出て巣鴨駅方面に脚を向けると、道中にチェーンの牛丼屋がある。空席が目立つ店内に足を踏み入れた俺達は、窓際のテーブル席に掛けた。人をもてなすための食事だと考えると心もとないが、不法侵入筋肉相手と考えれば充分過ぎるくらいであろう。
メニュー表を眺めるスライは心底不思議そうに目を丸くしている。大方、〝牛丼を初めて見た〟という演技であろうが、それを知りながらもあえて乗ってやることにした俺は、「これは牛丼といって白飯に味のついた牛肉をかけて食べるものだ」と説明してやった。
「ずいぶんヘルシーな料理だな。さすが日本、イメージ通りだ」
牛丼がヘルシー料理なら、ポテトフライは野菜スティックだ。
それから大盛り牛丼を2人分注文し、ほどなくして運ばれてきたそれにて男臭いディナータイムと相成った。
「美味そうだ」と楽しげな笑顔を浮かべるスライだが、箸を握ったきり中々食べ始めようとしない。「どうした?」と尋ねると、箸の使い方がわからないらしい。見かねて店員を呼び、カレー用のスプーンを持ってきてもらうと、奴は恥ずかしそうに「すまんな」と笑った。
「箸を知らなかったわけじゃないが、向こうじゃ使う機会が無かったんだ。こうも難しいものだとは思わなかった」
日本語はぺらぺらのクセに箸は使えないとは、お粗末な役作りである。筋肉量以外は誇るべきところが無いようなヤツだと、俺は心の中で評した。
男と顔を突き合わせて黙々と食事を進めるのもあんまりなので、俺は適当に話を切り出す。話題といえば専らスライについてであった。どうせだったら、コイツの設定を根掘り葉掘り聞いてやろうと思ってのことだった。
「スライ、お前さっき、映画の世界が壊れたからこっちに来たって言ったよな? もうちょっと詳しく話してくれないか?」
「ランがさっき見てたビデオ、あれが、〝悪魔の地獄グリズリー〟を記録していた最後の記録媒体だった。それが壊れた、だからこっちに出てきたんだ」
「記録していた媒体が全部無くなるだなんて、珍しい話でもなさそうだけど。でも、映画の世界の住人が現実の世界に出てきたなんて話、今まで聞いたことないぞ」
無暗に確信を突いてみると、スライはスプーンを置いて渋い顔をした。
「映画の世界を構築する要素は2つ。ひとつが記録媒体で、もうひとつが人の思い出だ。片方が消えても、もう片方が世界を支える。……だが、〝悪魔の地獄グリズリー〟のような、誰の思い出にも残っていない映画を記録した媒体が消えれば話は別だ。世界は崩壊して、俺のような登場人物は揃って〝死〟を迎える」
「でも俺は地獄の悪魔グリズリーを観た。俺の思い出があれば、お前が居た世界は崩壊しないんじゃないのか? つまり、なんでお前がこっちに来たんだって疑問に繋がる」
「悪魔の地獄グリズリー、だ。そもそも、お前は思い出と呼べるほどあの映画に思い入れは無かったろう。だから、完全な映画世界を構築するまでにはならなかった。しかし、弱いながらも生まれた繋がりが、主人公である俺だけをこっちの世界に引きずり込んだ、といったところだろうよ」
「待て待て。そもそも、なんで地獄グリズリーを覚えてるのが俺だけなんだ? 映画ってのは色んな人が関わってるだろ。監督、俳優、その他諸々。それに何より観客だ。10人や20人はくだらない数の人の思い出から消える映画ってなんだよ」
「主演俳優を含め、スタッフは全員死んだよ。昔の映画だからな。で……作られたのはいいが、悪魔の地獄グリズリーは劇場で公開されなかった。深夜の小劇場はおろか、関係者の家でも。おまけにソフト化もされていない。これで誰の思い出にも無い映画の完成だ」
「でも、実際にビデオが残ってた。あれがマスターテープってわけでもないだろ?」
「言っちゃ悪いが、映画スタッフがクズばかりだった。編集前の映像が漏れるなんてのは日常茶飯事だったから、それが巡りに巡って日本に流れ着いたんだろうよ」
「だから、ところどころ効果音が抜けてたわけだ。でも、妙なことに日本語字幕はついてたな」
「『ハリウッドで公開予定の大作が一足先に見れますよ』なんて言えば、字幕さえついてりゃセコい映像でも高値で売れる時代だ。お前が見たビデオも、多分その類のものだろう」
どうやら、映画の世界云々の設定だけは入念に作ってきたらしい。俺は「なるほど」と唸り、重箱の隅をほじくるのを止めにした。
それから、冷たい茶を貰って一服などし、「さてそろそろ出るか」と支払いを済ませようとレジに並ぼうとしたところ、1人の客がやってきた。黒いズボンに黒いシャツ、黒い軍手、おまけにマスクまで黒い。海苔の生まれ変わりみたいな格好の男は、俺の前へと強引に割り込んできた。
「なんだコイツ」と憤りを隠せない俺だったが、次の瞬間には、その怒りはどこへやらと立ち消えてしまった。男の手には銀に光るナイフが握られていたのである。
「おい、レジ開けろ」
ナイフを持つ右腕をスゥッと上げた男は、落ち着き払った声で店員に命令した。命あっての物種主義の俺が、「オイ早く開けろよ!」などと慌てふためいたことを言い出すまでもなく、店員は表情を強張らせながらも命令に従いレジを開ける。すると男はレジの中から札だけを引き抜き、手早くポケットに詰め込んだ。
どうやら痛い目見ずに済むらしいとホッとしていたのも束の間、男は俺にもナイフを向けた。こんな時に限ってスライの野郎はトイレタイムである。何のために鍛えた身体だ!
「お前も財布出せ」
「何も俺の金まで盗ることはないだろう! 横暴だ!」と言い出すことなど当然出来るわけもなく、俺は「ひゃい」などと何とも情けない返事をしながら震える手で財布を渡した。
「あの、あの、どうか命だけは」
「心配すんな。抵抗しなけりゃ殺しなんてしねーよ」
その慈悲深さに「へへー」と深々頭を下げたその時、「何やってるんだ」という、呆れたような声が聞こえた。顔を上げれば、待ち望んだ大胸筋がそこにあった。「覚悟しとけよ岩海苔男!」と、喉の奥で呟いた俺は既に勝ったつもりになっている。
「ラン、この男はなんだ? なんでお前は頭を下げている」
「見てわかんねーか、デカブツ。強盗だよ、強盗」と、岩海苔は不用意にもスライへとナイフを向けた。
「その格好を見れば誰でもわかる」と返したスライは、右腕を前へと突き出す。「アッ」と思うよりも早く、岩海苔は鼻血を噴き出して、力なくその場に倒れ込んだ。
見た目の通り、頼りになる男だ。やはり利用価値は十分にある。
ほくそ笑む俺を余所に、「行くぞ、ラン」と何故か不満げに吐き捨てたスライは、一足先に牛丼屋を出ていった。
○
店を出ても、スライはいやに不機嫌な様子であった。帰りの道も、もう半分過ぎたところまで行ったが、「旨かったぞ」とも「ごちそうさん」とも言やしない。ひょっとして、必死に練った設定を中途半端にほじくり返されたことにへそを曲げているのだろうか。
見た目の割に細かいことを気にするこの筋肉、さてどうしたものだろうかと思ったが、理由を聞いて却って期限を損ねたりしたらなおのこと面倒だと思い、あえて何も聞かずに歩いた。
ほどなくしてアパートにつき、リビングまで上がったところで、座布団にどっかりと腰を下ろしたスライが眉間にしわを寄せながら口を開いた。
「……ラン、なんであんな卑劣な男に頭を下げた」
機嫌を損ねた理由は思いもよらぬものであった。「なんだそりゃ」と笑いながら尋ねてみたが、スライの顔は険しいままだ。
「なんで頭を下げたんだと聞いている。答えろ、ラン」
「なんでって……そりゃ、ナイフを向けられたからだ。誰だって命は惜しいだろ」
「プライドは無いのか? 頭を下げることを屈辱だと考えなかったか?」
「プライドで命が拾えるかっ。俺なんかがナイフ持った奴に立ち向かったって返り討ちに遭うだけだ。俺はお前みたいな筋肉のカタマリと話が違うんだぞ」
「それなら鍛えればいい、違うか?」
スライはしたり顔になったかと思うと、「これで解決さ」と言わんばかりに親指をぐっと突き立てた。
脳筋という表現はよく聞くが、この男がまさにそれである。コイツの脳味噌は純度100%筋肉、混じり気無しの1人筋肉祭。二の腕の太さが一般人代表である俺の話が通じるわけがない。だいたい、何で俺がここまで言われなくちゃいけないんだ。俺が欲しいのは男臭溢れる筋肉による説得ではなく、黒沢先輩からの関心だ、そして最終的には愛だ。
「クロサワセンパイ? 愛?」とスライが首を傾げる。こと黒沢先輩に限っては、心の声がだだ漏れになってしょうがない。
「惚れた女の話だろ。せっかくだ、話してみろ」
どこから聞いていたのかは知らないが、既に俺の本懐はスライの知るところにあるらしい。ここまできて隠しても仕方がないので、俺は「任せろ」とむしろ胸を張って答えた。
それから俺は、黒沢先輩がいかにスバラシくかわいい人であるかを、舌の回る限り語り尽くしてやった。
常に駄菓子を鞄に忍ばせているところがかわいい、炭酸が苦手なところがかわいい、自分が好きな映画の説明をするとき、登場人物のモノマネにやたら熱が入ることがかわいい。熱が入り過ぎた挙句、自分でもわけがわからなくなって話が迷子になるのがかわいい。物憂げに空を見上げたかと思いきや、「やっぱり映画っていいものですね」と心底深刻そうに言うのがかわいい。立てばかわいい、座ってもかわいい、歩く姿もとにかくかわいい、などなど。
あまりの熱弁を振るったので、何を話したのか全ては覚えていない。
喉の使い過ぎですっかり喉が乾いて、一旦水分補給でもと腰を浮かせたときに時計を見ると、午後の9時を回っていた。話を始めたのが7時くらいだったから、2時間は話していたことになる。ここまで話してもなお話そうという気にさせてくれるというのだから、黒沢先輩という人は本当に魅力に溢れている。
台所から2人分の麦茶を持って戻ると、スライは皮肉めいた微笑みで俺を出迎えた。
「そのクロサワとやらに、ずいぶんとみっともなく惚れてるな」
「悪いか、一目惚れだ」
「悪くない、熱い恋は大歓迎。ただ、言いにくいんだが……お前には少し、男らしさが足りないように見える」
「お前から見りゃ誰でも男らしくないだろうよ」
俺の正論に構わずスライは続ける。
「いいか、ラン。人生の先輩として忠告だ。身体を鍛えろ、心を鍛えろ。そうすればきっと、お前が惚れたクロサワも、お前を見る目が変わってくるはずだ」
ちゃぶ台に置いてやった麦茶のグラスをぐっと仰いだスライは、ズボンのポケットから螺旋状になった大きめのビーフジャーキーのようなものを取り出し、俺に押しつけてきた。
「なんだよこりゃ」と尋ねると、スライは意気揚々と「ささみガムだ」と答えた。
「食え。これを食って俺も育ったようなもんだ」
「おいおい、ささみガムって犬のおやつだろ。そんなもの食えるかっ」
「心配するな。ちゃんと人間用に調整されたものだ」
「だからってな」と言ったものの、ひと欠片の悪意もない瞳を向けられては、その好意を無視するのは些か難しい。諦めた俺は「わかったよ」と唸り、ささみガムを口にした。
初めて食べてささみガムについてわかったことは、全く味がしないということである。鳥肉のような匂いはうっすらある気がしたが、2時間以上も前に食べた牛丼の匂いですぐにかき消されるほどだ。それに、いくら噛んでもちっとも噛み切れそうにない。タイヤの方がまだ噛み切れる可能性がありそうだ。
「よーし。頑張れ、ラン。それも恋の試練だと思え」
スライが言うところの恋の試練。一目惚れをした時にはささみガムを食べよ。なんだその無茶苦茶な試練、勝手にそんなもん作られてたまるか。
言うに言えず、俺は涙をこぼしそうになりながら、必死こいてささみガムを噛んだ。