カサブランカ その6
やっちまった。今の状況を端的に表す言葉がそれである。
「出来ます!」と叫んだあの時、俺は心のどこかで、「俺が主役を張るなんて言ったところで、どうせ誰かが止めるだろう」程度に考えていた。しかし、止めるどころか白鯨の先輩方はむしろ、挑戦しようとする俺の背中を押してくれるばかりで、三池先輩に至っては「期待してるぜ」などと柄にもない激励の言葉までかけてくれる始末。
不安に駆られて、「でも、演技経験なんて無いですし、本当に大丈夫でしょうか」なんて日和ってみたものの時既に遅し。「誰にだって初めてはあるさ」などと白鯨の看板俳優、園先輩まで言うものだから、ますます引き下がれなくなった。どうやらよほど、皆さん揃いも揃ってアクション映画の撮影に飢えていたものと思える。こうなってしまえば腹をくくるのみ。俺は半ばヤケクソになりながら、「最高の一本にしましょう!」と拳を天に掲げた。
それから円陣を組んで、「エイエイオー!」などと若さ溢れるかけ声で心をひとつにした後で、今日は解散という運びになった。小津監督が、「早速脚本を書きたい」と部室の貸し切りを申し出たのである。
「檜山くんっ、困ったことがあればいつでも言ってくださいっ! わたしに出来ることだったらなんだって力になりますからっ!」
黒沢先輩は俺の両肩をはしと掴んで、そんな心強い言葉をかけてくれた。涙が出るほど嬉しかったが、これからのことを思うと幸せも半減した。
「ま、アタシに出来ることはやったんで、後は自分で頑張ってください」
悩む俺を余所に北野は無責任であった。いつか痛い目に遭うぞと、俺は人知れず奴を呪った。
ともあれ、主演である。初演技の初映画で初主演である。自ら望んだことではないので嬉しくも何ともないが、与えられた役目はきっちりとこなさねばなるまい。これも黒沢先輩のため。
主役を演じるに当たって、俺に足りないものは何か。
まず演技力――やっていくうちに身につけるしかない。
次に顔――すでにどうしようもない。
そして身体のキレ――これから毎日筋トレなぞをして、せめて高校生時代の肉体を取り戻すしかない。
しかしそれらもさることながら、俺には圧倒的に知識が足りない。そうだ、ロクに映画を見たことがないのに、主演なんて出来るものかっ!
帰り道、俺は知識という問題をスマートに解決する手だてを必死に考えた。黒沢先輩がひいきにしているレンタルショップに行き、目に付いた映画を片っ端から借りようかとも思ったが、あいにく俺の家にはテレビはあるが再生機器が無い。再生機器を買うような金が無いというわけでないが、たいして欲しくもないものに金を使うのは、日本人の美徳、もったいない精神に反する。
ならいったいどうすればと、頭を抱えながら歩いていると、俺の足は一件の店の前で止まった。〝ミヤタレンタルビデオ〟という名の個人店だが、この際名前はどうだっていい。肝心なことは、店の前に置かれた看板に、「来月閉店予定につき、店内のビデオご自由にどうぞ」などと書かれていたことである。
その時、俺の頭にはひとつの策が駆けめぐった。
実家の押入にだったらビデオデッキが眠っているはず。それをあの安アパートまで送って貰えば、再生機器の問題は解決。今時のレンタルショップではビデオなんて媒体は取り扱っていないが、この店から持っていけば問題ない。おまけに、映画鑑賞中の時間を使って筋トレなんてやれば、あっという間にムキムキボディーの完成である。
これだ! これしかない!
俺は意気揚々とミヤタレンタルビデオの戸を開けた。店内はどこかカビ臭く、荒廃的な雰囲気が漂っている。かつてぎっしりとビデオが詰まっていたのだろうと思わせる棚は、うっすら埃が積もっている。さながら映画の墓場である。
店に客の気配はなく、レジの奥に80くらいのじいさんがいるばかりだ。レンタルビデオ店なんてやるんだ、きっと気難しい人だろう何て考えていると、じいさんは案外陽気に「いらっしゃい」と声を掛けてきた。
店を見回る前に、「なんでビデオをタダで配っているのか」と聞いてみると、この店はじいさんが経営する店のうちのひとつで、採算は全く合わないながらも今まで趣味で続けていたのだが、歳も75になったし、そろそろ店を畳もうかと思ったので、ゴミになるより欲しい人に貰われた方がいいだろうと決めた、などという長話を聞かされた。要は、金持ちの道楽でやっていた店の片づけを手伝わされている、というわけだ。
採算が合わないことを趣味で続けられていいですねと、俺は心の中で恨み節を呟きながらビデオを物色した。
〝ダイ・ハード〟と、〝マイ・フェア・レディ〟、〝雨に唄えば〟に、〝ゴーストバスターズ〟。〝プロジェクトA〟、〝ターミネーター〟、〝インディ・ジョーンズ〟。
この俺でさえどこかで見たことあるようなタイトルのビデオを目についた傍からカゴに詰め、さて次は誰も見向きしないような映画でも探してみるかと、目立たないところの棚を覗いてみると、タイトルのラベルすら貼られていない白いパッケージが目に止まった。
「なんだこりゃ」とパッケージを手に取り、中のビデオを引っ張り出してみたが、随分古いテープらしい。タイトルのシールが黄ばんでしまっており、何と書いてあるかわからないほどである。
まあ、こんなところに置いてあるんだ。どうせ大した映画でもないが、もしかしたら話のタネになるかもしれない。どれ、せっかくタダだし見てみるかなどと上から目線で、パッケージごとそれをカゴに放り込んだ俺は、映画の腐海を再び遊泳し始めた。
時刻は午後の5時20分。
例の筋肉と出会うまで、残り24時間を切っていた。