カサブランカ その5
白鯨に所属してから10日が経過した。その間、歓迎コンパと称して48時間ぶっ続けで映画を観賞したり、桜を見る代わりに部室に籠り、同じ映画を8度連続で観て「Ⅴ8達成だ!」などとわけのわからないことを叫んだりして、不毛な活動で青春を摩耗させる一方、俺は黒沢先輩とお近づきになろうと四苦八苦した。
しかし、俺の行動は中々どうして結果に結びつかなかった。
アプローチ方法に悪いところもあるのだろう。黒沢先輩がひいきにしているレンタルビデオ店の会員証を作ってみたり、選択してもいない同じ授業を受けてみたりするなどして、土台作りと称して彼女の視界に映り込むだけではどうしようもないことはわかっている。それは認める。
しかし、黒沢先輩の唯一にして最大の欠点が、2人の距離が縮まらない大きな要因になっていることも否めない。
黒沢先輩の欠点――それは、彼女が〝好き〟の種類の違いを理解していないという点である。
例えば彼女は、硝煙の匂い渦巻く、銃声バンバン筋肉モリモリ、頭の軽いアクション映画が大好きだ。ゆえに、「アクション映画は好きですか?」と尋ねれば「好きです!」と答えた上にガッツポーズまでしてくれる。
また、もし黒沢先輩に「檜山蘭は好きですか?」と尋ねたとする。そしたら彼女は、これまたきっと「好きです!」と答えてくれるはずである。確認は取ってないけど、多分。
さて、彼女はこの2つの〝好き〟の間に境界線を引かない人だ。よく言えば博愛主義者、悪く言えば鈍感さん。彼女を振り向かせるためにはまず、『愛とはなんぞや』ということを覚えて頂く必要があるのかもしれない。何とも頭の痛い話だ。
結論――幸せ行きの特急券だと思い込んでいたものは、実のところただの青春18きっぷだったというわけだ。黙って乗っていれば目的地に着くわけではないし、どこかで乗り換えを間違えればその時点で「ハイ終了」。現実と違い路線図なんてものも無ければ、俺自身〝旅慣れている〟というわけでもない。
恋路の踏破は確かに困難だが、一歩踏み出しさえすれば後は何とかなるだろうなどと、入部前そう考えていた甘ちゃんの俺を、今となってはぶん殴ってやりたいと思う。
なんでそう簡単に事が運ぶと思ってたんだ! 馬鹿にもほどがある!
天下無双の己がアホっぷりに部室でひとり頭を抱えていると、北野が「おはよーっス」と現れた。人の気も知らずに、相変わらずの能天気だ。
「なんだランちゃん、居たんスか」
「なんだとはなんだ。俺がいて何か都合の悪いことでもあるか?」
「べっつにーっ。ただ、あきらサンが授業中なのに、行かなくってもいいのかなーって」
「百も承知だ。ただ、あの授業は2年からしか受けられんのよ。1年の俺があの教室にいれば、流石に怪しまれるだろ?」
そこまで答えたところで、俺は「まさか」と北野を見た。歯を出さないよう笑う北野は、たまらなく嬉しそうにしているようにみえる。
「いつからだ」と尋ねると、北野は勢いよくソファーに座りながら、「それはもう始めっから」と何の気なしに答えた。
なんでわかる。エスパーか、お前は。視線だけでそう訴えかけると、北野は「フフン」と鼻を鳴らした。
「見りゃーわかるスよ。アタシ一応、女の子っスから。しかしランちゃん、マジな話、あきらサンに惚れるのは大変スよ。ありゃーカタブツってよりボクネンジン。君の瞳に乾杯なんて言ったら、大真面目な顔で『乾杯はコップでするものですよ』て答えるタイプっスからね」
「俺はそんな黒沢先輩に惚れた。大きなお世話だっ」
「そう冷たくあしらわないでくださいよ。コッチは応援してんスから」
「なんでそんなことするんだ。何か裏でもあるのか?」
「裏なんてナイナイ。ただ、アンタみたいにわかりやすいバカって、からかいたくなるモンなんスよ」
人の恋路を邪魔するヤツは、馬に蹴られてナントヤラと言うが、からかわれるだけというのなら問題ない。そう考えて「勝手にしろ」と答えた俺は、北野相手にそう言ったことを後悔することになるのをまだ知らない。
○
その日の白鯨は掛け値なしの戦場であった。いつもであれば無駄に大きなスピーカーから響く、銃声やら悲鳴やら、重厚な音楽やらが充満する八畳半の部室であるが、今日ばかりは無音である。
先輩諸氏が視線だけで互いを斬り合い、血みどろになりながらもなお睨み合いを続けている。空気がぴんと張りつめて、立ち上がっただけでガラガラと音を立てて崩れそうだ。
小津監督は不機嫌そうにマルボロを咥え、絶えず紫煙を天井に吹き上げている。三池先輩はフィルターまで吸い切ったわかばのシケモクを後生大事に指の間で挟んだまま、腕組みをしてソファーにもたれかかっている。園先輩はキシリトールのタブレットを次から次へと口に放り込んでいる。全員の顔はもれなく険しい。
いつもはふわふわホワワンとしている黒沢先輩も例外ではない。ココアシガレットを咥えながら、眉を寄せて凄味のある表情を作ろうとしている。煙草ではなくてココアシガレットというのが、その愛くるしさに拍車を掛けている。
さて、部室内に終戦間際の陸軍会議室めいた緊張感が走っているのには理由がある。白鯨は現在、5月の最終週から撮影開始予定の自主制作映画のジャンルについて、専ら会議中なのである。
会議は揉めに揉めている。
バッドエンド症候群とも呼ぶべき病気を拗らせた小津監督は、「たまには誰も報われない話を書いたってバチは当たらんだろう」とだだをこねる子どものようにぼやき、ナンセンス至上主義の三池先輩は、「血しぶきがスクリーンを染めて、首がぽんぽん飛んで、じゃんじゃん人が死ぬバイオレンス映画を撮りたい」とソファーを跳ね、演技の中で日常を生きる園先輩は「人を笑顔にしたい、コメディーがいい」とうわ言のように呟き、純情可憐の黒沢先輩は「アクションがいいです! こう、ボーンって感じで爆発する!」と柔らかそうな二の腕に力こぶを作っている。
会議開始から1時間以上も経つが、誰もが自分の考えをこれっぽっちも曲げようとしない。平行線の方が宇宙的尺度で見ればまだ交わる可能性があるように思えるほど、互いが互いにてんでバラバラな方向を向いている。映画のことになると、揃いも揃って精神年齢が小学2年生くらいになる人達だ。
話に加わって斬り返されても堪らないので、俺は部室の隅にパイプ椅子を広げて事の成り行きをじっと見守る役に甘んじている。俺の隣に並んで座る北野は、話に加わりたい反面、入部したばかりということで遠慮もあるのか、口をつぐんで頻りに身体を揺らすばかりである。
「お前達はどう思う、北野、檜山」
話を振られた北野は、「待ってました!」とばかりに勢いよく立ち上がり、先輩方が座るソファーに相席して語り始めた。
「アタシはブロマンスものがいいッス! ほら! ブロマンスには総じて名作が多いッスから! 真夜中のカーボーイしかり、英国王のスピーチしかり!」
「ジャンル分けにどうこう言うつもりはないけどさ、真夜中のカーボーイはともかく、英国王のスピーチまでブロマンスに定義するのはどうなんだい?」
「ほっとけよ、園。どーせ腐女子のたわ言だ」
「腐女子じゃねえッ! アンタは自宅で独り死ぬまで、大好きな悪趣味映画でも見ながら涎垂らしてヘラヘラしてりゃいいんスよ!」
「んだとぉ?! 俺の趣味のどこが悪いってんだ?!」
「どー考えても悪趣味スから! 籠の中の乙女、ムカデ人間、食人族にミスタータスク! マトモな神経してりゃ観ない映画のオンパレードじゃないスか!」
「あの世界に漂う壊れそうな背徳感がたまらねぇんだろうがっ!」
「わかったから黙れ。2人ともだ」
小津監督がぴしゃりと撥ねつけると、2人は揃って「ぐう」と閉口した。流石、白鯨の頭領である。小津監督の剛腕に感心していると、不意打ちで「で」と声をかけられた。
「お前はどうなんだ、檜山」
「アクションですかね、アクション」と俺は即答する。黒沢先輩を援護射撃するためにはこう答える他ない。俺如きが彼女の力になれるかは微妙なところであるが、それでも一助になりたいというのは恋心ゆえである。
「……お前もアクションか」
「ええ。多くの人に見せるのなら、わかりやすい方がいいと思います」
「悔しいがそれは私も同感だ。映画を撮るのならそれは、人に見せ、人を魅せるものを目指すべきだ。だとすれば、どんな人にもインパクトを伝えることの出来るアクション映画が手っ取り早い。しかし、しかし、だ……」
いつもと違って嫌に歯切れの悪い小津監督は頭を抱える。
「はっきり言おう、無理だ」
「ああ、無理だな」
「無理ですね」
小津監督に次々同調する三池、園の両先輩。俺と黒沢先輩が「なんでですかっ」と食い下がったのは、ほとんど同時のタイミングであった。無暗に運命を感じて、俺の心はときめいた。
「何でも何も、園の問題があんだろーが。新入りのラン坊はともかく、黒沢にまで『わかんねー』とは言わせねーぞ」
「わかりませんっ! 園くんならできますっ! だってホラ、〝96時間〟とか〝キングスマン〟とか〝ザ・ガンマン〟とか、演技派俳優と呼ばれる方々のアクション映画だって最近はいっぱいあるじゃないですかっ! 役作りのため1週間で13キロ減量した園くんなら、2週間あれば筋肉ムキムキ、ジャッキーさんだって裸足で逃げ出すカンフーを身につけてくることだって不可能じゃないんですからっ!」
黒沢先輩は地団太を踏んで必死に主張するが、諸先輩方はまったく気にも留めていない様子である。三池先輩に至っては、「そういや、ザ・ガンマンって期待値のわりに微妙だったな」などと全く関係ないことを言い出し始めた。
そんな態度は流石に無いだろと思い、「検討の価値はあるんじゃないですか」とそれとなく意見してみれば、「そうですよっ!」と黒沢先輩が続く。
「やってみましょうよっ! なんならわたしがアクションしますからっ!」
「その意気は買うが、そこまでだ黒沢。私達だって本当はアクションを撮りたい。それくらい、1年共に過ごしたお前ならわかっているだろう。だが、手元にあるカードでやりくりするしかないんだ」
アクション映画を撮るのに何をここまで揉める必要があるのか。新入りの俺にとって、先輩方の言い合いは不可解に映る。どうしたものかと困惑していると、北野が何やら物知り顔で話し始めた。
「園サン、ああ見えてめちゃくちゃ運動神経悪いんス。ちょっと走っただけで足首捻ったり、ボール蹴ろうとしたら勢いそのままひっくり返っちゃって病院に運ばれたり」
「意外だな。園先輩、『高校時代はサッカー部でした』、みたいな見た目してるのに」
「ま、天は二物を与えないってことッスかね」
イケメンで物腰も柔らかく、おまけに演技も出来るんじゃ、二物、はたまた三物与えられているような気もするが、一物すら与えられているのか分からない俺との差を考えると悲しくなるので、その点については何も言わないことにした。
「で、その話とアクション映画が無理なこと、どんな関係があるんだ?」
「わかんないんスか? 白鯨が撮る映画で主演を務めるのは、基本的に園サンッス。で、園サンは運動が出来ない、まるっきりダメ。ダメッダメ。そんな人を主役にしてアクションなんて撮れると思います? 無理っスよね、不可能っスよね。つまりはそういうことですんで、ヨロシク」
そこで俺はようやく事を理解する。よりにもよって主演俳優が丸っきりの運動音痴だとは。これでは先輩方の言う通り、アクションなど到底不可能であろう。自分にはどうしようもない問題だということが歯痒い。
やりきれなくなって、俺は思わず拳を振り上げたが、振り下ろす場所が見当たらない。仕方ないのでパイプ椅子のクッションをぼふぼふ殴っていると、北野が「どうどう」と馬をなだめるように両肩を揺すってきた。
「ランちゃん、アタシに策があるんでご安心を。とっておきのヤツっスから」
さっぱり信用置けない言葉だが、今の俺はワラで編んだ猫の手だって喜んで借りたい状況に置かれている。恐る恐る「信用できるんだろうな」と尋ねると、自信満々といった面持ちの北野は、「任せろ」と言いたげに胸を叩いた。その自信はどこから湧いてくるのだ。
「ハーイみなさーんッ! ちゅーもくーっ! ちゅーもーくっ!」
北野の声に言い争いをしていた先輩方が振り向いた。「なんだなんだ」「何でもいいから黒沢の暴走を止めてくれ」とでも言いたげな視線が北野に向く。
「園サンがアクションを出来ないから、アクション映画を撮れない。それで揉めてるって認識でいいんスよね?」
「そうだ。それがどうした?」と答える小津監督は、いつの間にか黒沢先輩を羽交い絞めにしている。
「逆を言えば、アクション出来る人間がいるなら、アクション映画が撮れるってことになるんスね?」
「そうかもしれんな。だが、そんな人間が白鯨のどこにいる?」
「いるんスよ、ここに。思いのほか動ける人間が!」
右手人差し指を天に向けそう宣言した北野は、その指の先端を俺の方へと向け直した。試しに振り返ってみたが、映画の詰まった棚を背にして座っていた俺が後ろを向いたところで、当然誰かがいるわけでもない。〝ロッキーホラーショー〟という映画のブルーレイが目についたばかりである。
北野が口にした〝思いのほか動ける人間〟――ソレがこの俺、檜山蘭であることを理解するのに、俺は10秒以上の時間を有した。
あまりに突然のことだったので、「なんじゃそら!」という叫びも腹の中から出てこない。
何を言ってる、この女。俺は高校まで水泳をやっていた身だから、確かに園先輩よりも動けると言えば動けるだろう。だが、たかがそれまでだ。屋根から屋根へと飛び移ってみたり、拳1つで5人の男を相手取ってみたりなどは、到底出来る気がしない。
「本気か?」と、声を出さないよう唇の動きだけで北野に尋ねると、ヤツは「当然」と唇だけで答えた挙句、ウインクまで飛ばしてきた。もはや正気の沙汰ではない。
北野は一体、何故このような無謀なことをしたのか。いくら考えても理解が追いつきそうにない問の答えを求め、試験勉強以来怠け続けていた脳細胞の働きを活性化させていると、黒沢先輩から視線を向けられていることに気が付いた。ほとばしる期待を隠そうともしない、さながらレーザーのように直線的な熱視線であった。
そこまできて俺はようやく北野の行動の理由を理解した。要らぬお節介をここぞとばかりに働かせたヤツは、俺と黒沢先輩の恋のキューピッドになろうとしているのである。
――わかりやすいバカってからかいたくなるモンなんス。
北野のそんな言葉が俺の脳内にグワングワンと響いた。この、頼んでもないのに余計な世話をしやがって。
「檜山、北野はああ言ってるが、本当に出来るのか?」
小津監督は訝しげな視線を俺に向ける。
君子危うきに近寄らずの精神で、すかさず「出来ません」と答えようとした俺だったが、扁桃腺まで出かかったその言葉を喉仏で引っ張って腹の中に収め直した。
待て。ここで俺が断れば、黒沢先輩が心より願うアクション映画の撮影は間違いなく行われない。変に期待を持たせた挙句、「出来ませんでしたー」が通るか? 否である。彼女の涙は確かに魅力的なので、是非もう一度お目にかかりたいところだが、だからといって思い人を悲しませていいわけがない。
それならやっちまえ! あとは野となれ山となれだ!
「……出来ます!」
先輩方はクエスチョンマークを頭に浮かべて首を捻る。震える喉から何とか声を絞り出したものだから、聞こえなかったようである。俺は腹にぐっと力を溜め、再度力強く宣言した。
「出来ますよ、アクションくらい! やってやろうじゃないですか!」