カサブランカ その4
彼女との再会は運命である。そう言わざるを得ない。そう表現する他にあり得ない。しかし焦るな、大事なのはいつだって第一印象だ。人間、顔が8割というが、顔が心もとないことは百も承知なので、俺の場合は第一印象がより大切になってくる。
顔の良し悪しはともあれ自己紹介である。「どもッス!」などと明るい感じで攻めようか。いや、却下。軽薄な男だと思われたくない。だとすれば、「どうも」などと余裕のあるオトナ路線で微笑みを投げかけようか。いやそれも却下。些か印象に残らないし、何より園先輩と若干被る。この先輩とキャラが被って勝てる自信は、ポメラニアンの毛先ほども無い。
0.98秒に及ぶ長考の末、「変な男と思われても悲しいからとりあえず無難にいこうか」と結論付けて腰を浮かせたその時、俺は煙草の彼女と目があってしまった。瞬時に耳が熱くなるのを感じて迷わず顔を伏せる。しかし視線を伏せた先に、どういうわけだか煙草の彼女が追ってきた。上目づかいをぶつけられて慌てて上を向いたが、彼女はすかさず回り込み、再び俺をじっと見つめた。見るだけで人間性の全てを丸裸にするような、純真な瞳だった。蛇に睨まれた蛙になったかのように、俺は指1つ動かすことが出来なくなった。
小さな口を可愛げある半開きにさせたまま俺を見ていた彼女は、一転たんぽぽのようなそっと愛でたくなる笑顔になり、俺の両手を取った。その時、俺は声も上げずに一度死んだ。
「あなた、映画見に来てた人ですねっ!」
そのひと言で起き上がりこぼしの如く蘇った俺は、寝起きのようにふわふわした頭で「ええ」と頷く。
「檜山蘭です。見に来ました。感動しました」
「ありがとうございますっ! ありがとうございますっ!」
彼女は俺の手を取ったままぶんぶんと腕を上下させる。全身を駆け巡る喜怒哀楽がそのまま表に出る人のようだ。彼女の素顔をひとつ知ることが出来た気がして、それだけで俺は嬉しくなった。恋は人を有頂天にする。
「こら、黒沢。彼が困惑しているぞ」
小津監督が諭すように言うのを聞いた彼女は、「すいませんっ」と頭を下げたが、俺の手は決して離さなかった。加えて、大きな瞳は感動の涙でも溜めているのか余計に潤っている。
これはアリなんじゃないか? ひょっとすればこのまま抱きついてもオッケーなんじゃないか? などと低俗極まりない思考が蔓延してどうしようもなくなってきたところで、北野が彼女を剥がしにかかる。なんたることを、この悪魔。
「ほーら、あきらサン。ありがとうとかすいませんより、まず初めましてからッスよ」
「そうでした!」と彼女は跳ねた髪を手櫛で整えた後、あかべこのように何度も礼をしながら矢継ぎ早に言葉を並べた
「わたし、黒沢あきらです! あの有名監督と同じ名前なんですよ! 凄いですよねっ! 名前をつけてくれたのはおじいちゃんで、おじいちゃんも映画が大好きなんです! でもおじいちゃん、わたしにこんな名前つけてくれたのに日本の映画はあんまり見ないんですよっ! 最近じゃスターウォーズなんて見始めたみたいで……あっ、去年の新作は12回も見に行ったみたいです! 12回ですよ12回っ! 内容を忘れてるんじゃないかなんておばあちゃんは言うんですけど、でも、10回目からはお客さんがどんなタイミングで喜ぶのか後ろを見てる時間の方が多かったなんて言うんですから、もう本当に――」
自己紹介なぞどこへやら。いつの間にか自慢のおじいちゃん紹介になってしまっているが、万事順調問題なし。可愛いという概念の前には全てがひれ伏せざるを得ない。
それにしても黒沢あきら、か。なるほど、なるほどなるほど。あきらと蘭、2つの名前を並べればしりとりになるではないか。加えて、『あ』で始まって『ん』で終わる。生まれながらに阿吽の呼吸というわけだ。この出会いが運命なのは、やはり確定的である。
そう遠くないところで光り輝く幸せの後姿を眺め、しばしうっとりしていると、彼女が「それで」と問いかけてきた。
「檜山くん、あなたにとって最高の一本ってなんですか?」
檜山くんなどと呼ばれて天にも昇る気持ちになったがそれも束の間、「最高の一本は?」などと尋ねられたことにより、俺は桃源郷から地獄へ叩き落とされた気分になった。まさか、こんなくだらない質問をされるとは。
「……その、最高の一本っていうのは?」
「もちろん映画ですっ! 映研に入りたいってことは、好きなんですよね、映画っ!」
本当に好きなのは映画ではなくあなたでして、あの映画を観て泣いたのはあなたが泣いていたからでして、つまるところは〝最高の一本〟なんて大層かつ重苦しいもの持ってないわけです。
そんなことを口に出せば小津監督による打ち首獄門は免れそうにもなかったため、俺は「バックトゥーザフューチャーのパート2です」と答えた。パっと名前を出せる映画がそれくらいしかなかったのである。
「バックトゥーザフューチャー……」と、黒沢先輩のみならず、白鯨の面々はそれぞれ口にする。そこで俺は、映研なんていう捻くれた人種の方々に対し、俺でさえも知っている映画の名前を口にしたことを後悔した。「とっとと帰れ!」なんて水かけられるのではなかろうか。
背中に冷や汗が伝わる。ぎゅっと拳を固めて、頬のひとつくらい叩かれる覚悟を決めているところに、小津監督が「いいじゃないか」と口を開いた。
「気取った映画は嫌いじゃないが、気取った男は大嫌いだ。見ればわかる、お前は映画をさして観ない。そんなお前が格好つけて、『惑星ソラリスです』なんて答えていれば、ボディーで沈めて肘で顎を打ち抜いて、尻蹴っ飛ばして追い返しているところだった」
小津監督の言葉が想像よりも遥かに物騒で、俺は思わず肝を冷やす。しかし、答えが好印象だったらしいということは助かった。ほっとしたところで周りを見れば、白鯨の面々は小津監督と同様に満足げな笑顔である。煙草の彼女――もとい黒沢先輩に至っては、花の香りが弾けて飛んできそうなほど満面の笑みだ。俺は自身が心根から素直な人間であることに感謝した。
ホッと一息吐いた俺の前に、小津監督の手によりA4判のペラ紙が一枚突き出される。「これは?」と尋ねる前に、書いてある内容からそれが入部届であることを理解した。瞬きを1つすると、それが爛々と輝く幸せ行きの特急券へと姿を変えたように思えた。
「どうする。我らが白鯨は現在人手不足。入りたいというのならもちろん歓迎するが」
「感謝します」と俺は即座に特急券を受け取った。「ウォォウッ!」と叫びたい衝動に駆られたが、不倒の心でなんとかそれを抑えつけた。
「さて、檜山。ようこそ白鯨へ。曰く、ここは変人の集まりらしい。注意しろよ」
他人事のように言った監督は、くつくつと笑う。
例の筋肉漢が現れるまではまだしばし掛かる。