インデペンデンス・デイ その5
翌朝、起きるとスライの布団は既にもぬけの殻である。ちらと時計を見れば、時刻はまだ7時半を過ぎたところだ。いつもであればまだ寝ている時間だろうに、どうしたのかと思いながらもとりあえず洗面所へ向かうと、玄関で靴を履く途中のヤツの背中が目についた。どうやら、朝のランニングに出るつもりらしい。
俺は寝ぼけ眼を擦りながら、「待てよ」と声をかけた。
「ランニングなら俺も行く。外で準備体操でもしててくれ」
「そろそろ起きるころだと思ってた」
スライは肩越しに振り返りつつ答える。「だが、俺はランニングに出るわけじゃないぞ」
「だったらコンビニか? それならアイスでも買ってきてくれ。コーン付きのバニラ味な」
「コンビニでもない」
「じゃあどこ行くんだよ」
「自分でもまだわからん。が、とにかくここを出る。見送りを頼むぞ、ラン」
何を言ってるんだ、あの筋肉バカ。どうやらまだ酒が抜けきっていないらしい。
「そうかよ」と呆れつつ、のんびり顔なんて洗って洗面所から戻ると、玄関からスライの姿が消えている。何だか不穏な空気を感じて慌てて外に出ると、扉の前にはスライが待ち構えていた。その肩には、どこから持ってきたのか丈夫そうな麻袋が掛けられており、いよいよ「先ほどの言葉は冗談ではなさそうだぞ」と心がざわつき始める。
嫌な焦燥感に襲われるまま、俺はスライの両肩を掴んだ。
「何だよ。何で急に出る何て言い始めんだよ」
「お前が主役になったのを見て、今度は俺の番だと、そう思った。意地を張って、見栄を張って、立ち止まっているだけの男は卒業だと、お前を見てそう思えたんだよ」
「な、何言ってんだお前。いまさら――」
「そう、いまさらだ。ラン、俺は主役になりたい。なりそこなったあの日の自分を、もう一度目指したいんだ」
「バカかよ。主役なんて、なりたいってだけでなれるようなもんじゃないだろ。どうやってなるんだよ。当てがあるのかよ」
「当てはない。だが、こういうことは走り出せば何とかなるんだ。幸運の女神は、いつだって積極的な男が大好きなのさ」
「カッコつけてる場合か。映画じゃないんだぞ、この世界は」
「その通り。だが、そんなことは関係無い。どんな世界にいたってやることは同じ、〝やるかやらないか〟。それだけの話だ」
「バカ言うな」と言いかけた言葉を飲み込む。頑固な決意が滲み出るスライの表情を見て、これ以上はいくら言葉を重ねても無駄だと悟ってしまったのだ。
俺はスライを親の仇のように睨み付けた。そして、込められるだけの力を込めて肩を突き飛ばしてやった。そうでもしないと、突然の別れを受け入れられそうになかった。
「ああそうか、勝手にしろよ、バカ野郎。その代わり、何も掴まずノコノコ戻ってきたらただじゃおかないぞ。この前みたいに演技じゃなくて、本気でぶっ飛ばしてやる。泣いて許してくれって言っても止めないからな」
「お前こそ、後で吠え面かくなよ。俺を超えたお前を、俺がまた超えてやる」
それから無言で睨み合った俺達は、互いの背中を一発ずつ叩き合った。「頑張れよ」だとか「期待してるぜ」などの文明的な会話ではなく、わざわざ肉体言語を選んだのは、俺達の間に築かれた関係性を考えれば必然だったのかもしれない。
そうしてスライは俺の元を去っていった。
背中に広がるじんじんとした熱さが、「またな」の代わりであった。
○
スライが居なくなってから1週間が経った。白鯨のメンバーはそのことを惜しみ、そして残念がったが、特に落ち込む様子などは見られなかった。
「永遠の別れじゃないんだ。別に、そこまで別れを惜しむ必要は無いだろう」
小津監督は何の気なしにそう言った。
さて、その日は白鯨の活動が休みだったので、俺は自室でぼんやりすることに徹していた。独りになった安アパートの4畳半をふと見回してみると、狭い空間のはずなのになんだかやけに広く感じる。1人居なくなったおかげか、暑苦しさが軽減されて過ごしやすい。
勝手に筋トレを始めて汗の香りを部屋に充満させる迷惑者はもういない。別れの時はなんとなくしんみりしたが、こうなってみれば楽なものだ。無茶な筋トレに付き合わされることも、ささみガムを食わされることももう無いし、却ってせいせいするくらいである。
「せっかく1人になれたんだ、部屋を無暗に広々と使ってやる」と、両手両足を遠慮なく広げて大の字になってみる。そのまま「自由だ」と呟いてみたが、何となく虚しい。ぼんやりと宙に浮いた気分を落ち着かせるため、適当なビデオをデッキに突っ込んで再生ボタンを押してみると、〝バックドラフト〟が流れ始めた。
消防の世界を題材にしている映画で、炎の表現は若干荒く、画面の古臭さは否めないものの、今でも十分に通用する名作である。サメ映画とくれば〝ジョーズ〟、恐竜映画とくれば〝ジュラシック・パーク〟が真っ先に思い浮かぶのと同じように、消防士の映画といえばコレだろう。
主人公である頼りなさそうな男が、火事の現場からマネキンを助けるシーンに差し掛かった辺りで、部屋に呼び鈴の音が響いた。
さてはあの野郎、もう帰ってきやがったな。根性の無いヤツだ。それとも、忘れ物か? いずれにせよ、収穫も無く戻ったら覚悟しておけと宣言しておいたんだ。とりあえずぶん殴ってやるからな。
そんなことを思いながらほくそ笑みつつ扉を開けると、待っていたのはあきら先輩であった。興奮を抑えきれないというように頬を染めて、1枚のDVDを後生大事そうに胸の前に両手で構えている。
「蘭くん蘭くんっ! 見てくださいこれっ! 〝ゼイリブ〟のブルーレイですよっ! 普通だったら3000円以上もするのに、近所のブックオフでは500円で売ってたんですっ!」
一瞬、呆気にとられた俺であったが、なんとか笑みを取り繕って「そうですか」と返す。「あそこって、意外と掘り出し物がありますよね」
「そうなんですっ! わたし、嬉しくなっちゃって、蘭くんに見せなきゃって!」
いつもと寸分変わらない先輩の笑顔を前にしたその時、俺はようやく理解した。
スライはもう2度と、ここに帰ってくることはないということを。
自然発生的に喉から出てきた「バカ野郎」という呟きを噛みしめる。こみ上げてきた青い感情を呑み込めば、代わりに浮かんだのは笑みであった。
自己防衛の薄い笑いではない。歯茎をむき出しにした、豪快という表現をそのまま現したような、あの筋肉漢とよく似たそれだ。
表情筋をフル活用して暑苦しい笑顔を維持したまま、俺は言った。
「俺、今日は外に出たい気分なんです。映画でも観に池袋まで出ませんか?」
「はい、喜んでっ!」
元気よく返事をした先輩は、俺の腕を握って外へと連れ出した。
息詰まるようなムワッとした空気が肌に纏わりつく。汗臭い季節はまだ続くらしいが、そういうのも、たまにだったら悪くない。
まだもうちょっとだけ続くんじゃ




