ナポレオン・ダイナマイト その7
気づけば、生ぬるい感触が視界を覆っている。いったいどうしたと、鉛を縫いつけられたように重いまぶたをこじ開けると、大きな花がプリントされたライムグリーンのタオルハンカチが眼前にあるのがわかった。触れば少し濡れている。
まさかとは思うが、たまたま部室にやってきた黒沢先輩が、ノックダウン状態の俺を見て看病なんてしてくれたのだろうか?
可能性は無いこともないだろう。何せ彼女は、現代に産まれたナイチンゲールといっても言い過ぎではない存在だ。目の前に倒れている人がいれば、きっと助けずにはいられないはずである。
嬉しくなってタオルを剥がすが、俺の目に映ったのは先輩ではなく、珍しいものを覗き込むように立つ北野の姿であった。明るい橙のショートパンツにずいぶんダボついたTシャツなんか着合わせており、何も履いてないように見えなくもない。
なんだよ畜生、お前かよ。相変わらず慎ましやかさの欠片もない格好しやがって。
詰まった期待で風船のように膨らんでいた心は、瞬く間にしゅうしゅうと音を立ててしぼんでいく。
ふてくされる俺を余所に、北野は「生きてたんスね」などと洒落にならない冗談を平然と飛ばしてくる。「生きてちゃ悪いか」と売り言葉に買い言葉で答えると、「べっつにーっ」と相手にならない北野は、俺が頭を置いてある隣に腰を下ろした。ショートパンツからスラっと伸びた白い脚が、否応なしに映って目の毒である。「これはダイコン、練馬ダイコン」と自分に何度も言い聞かせた俺は、ハンカチで視界を覆って平静を保つことにした。
「で、ランちゃんはなんでこんなとこでグロッキーだったんスか?」
「昨日の夕方からスライと一緒にずっと飲んでな。二日酔いだよ、二日酔い」
「なんスかそれ。そんな飲む方でしたっけ?」
「そんな飲まない方なのに、ウイスキーなんて飲んだのが間違いだった」
「呆れた。もう子どもじゃないんスから、ちょっとは加減して飲んでくださいよ」
「今度からそうするよ、酒臭くって悪いな」
二日酔いだというのにやけに舌が回るのには訳があった。というのも俺は、このハンカチについて礼を言う機会を伺っていたのである。しかし、北野に礼を言うのがどうにも気恥ずかしくて、俺は「梅雨だってのに雨が降らないもんだな」と調子の外れたことを言ってみた。
「そっスね。雨のシーンも撮らなきゃなんスけど。てか、ランちゃん。梅雨とかの前にアンタは体調どうにかした方がいいッスよ。一応、主演俳優なんスからね」
「そうだな。今日はもう家に帰ってウコンでも飲む」
「それ、二日酔いになる前に飲むもんスからね」と呆れたように言う北野は、俺の額に何かを乗せてきた。何かと思ってハンカチの隙間から顔を覗かせれば、それは水入りのペットボトルであった。
「酔った時はとにかく水分をとること。コレ、常識っスから」
ハンカチだけではなく水まで用意してくれていたとは、怖いくらいの至れり尽くせりだ。もしかして、高い壷でも買わされるんじゃなかろうか。
そんなくだらないことを考えながら、「悪いな」とペットボトルを受け取ってみると、それは既に半分ほど空いており、明らかに北野の飲みかけであった。
「これ、お前の飲みかけだろ」
「ゼータク言うな。飲みかけでも水は水」
「そりゃそうだけど、それでも飲みかけは飲みかけだ。それに、男と女で飲み回すってのはアレだろ、よくないだろ」
「ヘンに意識しすぎなんスよ。アタシら、もう高校生じゃないんスから」
羞恥の意識を著しく欠いたヤツだ。こんな女と間接キッスなんてロマンスを踊るつもりは毛頭無い。断固拒否の固い意志を示すため、俺はのそのそ身体を起こし、「飲まないものは飲まないぞ」とペットボトルを机に置いた。ついでにハンカチも机に置いた。
「いいから飲めっ。飲めば少しは楽になるんスから」
「飲まない。俺に黒沢先輩を裏切れってのか?」
「なーにをワケわかんないこと言ってるんスか、アンタは。コッチは親切で言ってるんスよ」
それから「飲め」「飲まない」の押し問答が始まった。はじめのうちは携帯をいじりながらさも面倒くさそうに応対していた北野も、俺の「大和撫子という文字を手のひらに百回書いて飲み込め」という煽りにカチンときたのか、徐々に語勢が荒くなっていった。
それから問答を10分ほど続けた辺りで、とうとう痺れを切らしたらしい北野は、「ああ、もうっ!」と俺の身体をソファーに押し倒し、額を押さえつけてきた。
「こうなりゃ意地でも飲ませる! 口開けこの頑固者っ!」
こっちが二日酔いでろくに動けないことを知っていて、とんだ実力行使だ。とっさにもがいた俺だったが、人間、寝ているうちに額を押し込まれると簡単には身動きが取れなくなるものらしく、ちょっと手足を動かしたところで起きあがれそうにもない。
「話せばわかる」と今更になって平和的解決方法を模索したが、北野は「モンドームヨウっ!」と似つかわしくない四文字熟語まで使ってくる始末だ。
しかしここで諦めるわけにもいかない。俺は黒沢先輩に操をたてたのだ。魂に鞭を振るった俺は、両手両足、さらには鍛え上げた背筋まで使ってソファーから跳ね起きた。
「ひぃっ」と柄にも無く女の子らしい悲鳴を上げた北野は、ちょうど先ほどまでの俺のように、ソファーに仰向けでひっくり返る。それを見てすかさず諸悪の根元であるペットボトルを奪取した俺は、反対側のソファーへそれを投げ捨てた。
これにて勝負は着いた。膝を突いた状態でソファーに立った俺は、奇妙な試合を演じた対戦相手の北野を見下ろし勝ち名乗りをあげる。
「お前の気遣いはありがたいし、ハンカチまで用意してくれたことにも感謝してる。だけどな、俺は断固飲まん」
「もーなんでもいいっス。……で、ハンカチってなんスか」
「しらばっくれるな。俺の額に被せてくれたアレだ」
「なんスかそれ。ランちゃんが自分でやったんじゃないんスか?」
「何を言ってるんだ」と言い掛けた、その時であった。身体を急に動かしたせいで、つい忘れていた気分の悪さが再びこみ上げてきた。
頭がぐるぐるして、上下左右の感覚がふっと立ち消える。竿を無くしたのぼりのように、俺の身体は重力に抗うことすら出来ずくしゃりと倒れ込む。しかも、倒れた向きが悪く北野のいる方向であったからタチが悪い。結果として俺は北野の腹の辺りに顔を埋める羽目になり、勝者から一転、まごうことなき変態へと早変わりした。
しばしの沈黙。やがて慌てふためいたように北野が喚き始める。
「な、なにやってんスかアンタ?!」
俺は慌てて「二日酔いで」なんて釈明を始めようとしたが、「わかってるから離れろっ!」なんて北野には取り合ってくれる気配がない。こうなればまず離れるしかないのだが、身体に力が入らない。
仕方がないので「突き飛ばしてくれ」と要請を出したところ、北野は容赦なく俺の身体を床へと押し出した。幸い背中から着地して、思っていたよりも痛みはなかった。
今日は厄日だ。そう思いつつ身体を起こすと、俺の視界にとんでもないものが映り込んだ。いや、とんでもない何て言えば語弊があるが、この時ばかりに限ってはゴジラ級にとんでもないものであることは確かだ。
出入り口のところに、中途半端に扉を開けてこちらを覗く黒沢先輩がいたのである。その手には俺の額に乗せられていたものと色違いのタオルハンカチが握られており、そこで俺はようやく、俺の看病をしてくれていた人が黒沢先輩であることを悟った。
「ひ、檜山くん……武緒ちゃん……わたし、お邪魔でしたかっ……?」
涙目になった先輩はおでこから首の辺りまで真っ赤に染めて、辛うじて喉を振るわせている。どうやら、あらぬ誤解を受けているようだ。机を支えにしても立ち上がれそうにもなく、這いつくばる形で先輩に近づいた俺は回らない頭で必死に弁明を計る。
「ち、違うんです黒沢先輩。これはですね、あの、誤解なんです。とんだ誤解ですよ。俺は北野に何の感情も抱いてないんですから」
「す、好きとか嫌いじゃないのに、あんなことしたってことですかっ……?」
「そういうことじゃないんです。ただ調子が悪くって、それでバランスを崩してですね、ああなっただけなんです」
「で、でも――」
「と、とにかく違うんです。だって俺、先輩のことが好きなんですから。あんなことをしたくってやるわけありません」
「……好き、ですか?」
「そうです好きです。ライクじゃなくってラブなんです。愛してるんです。先輩のこととなるとどうかしてるんですよ、俺は。そんな俺が、北野に抱きつくだなんて――」
そこまで言葉を並べ立て、俺は「しまった」と息を呑んだ。何てことを口走ったんだ。こんなタイミングで告白だなんて正気ではない。まずいという温度を失った感情のみが、血液に乗って全身を巡る。
顔から血の気が引いていくのを感じる。相対する黒沢先輩は先ほどよりも強い朱に顔を染め、熟れた苺のようである。
瞬間、くるりと逆方向を向いた黒沢先輩は、「失礼しますっ」と駆け足で行ってしまった。すっかり力の抜けた足腰で何とか立ち上がり、先輩を追って部室を出たころには、彼女の背中はおろか、ツツジのような淡い残り香すら消えていた。




