カサブランカ その2
外に出ると太陽が眩しかった。緩やかで甘い風が優しく髪を撫でつけると共に、桜の花びらを頬に貼り付けてきた。
いたずらなヤツめ。しかし許そう! 春だから!
校門の前では、未だ先輩諸氏が新入生の気を惹こうと四苦八苦している。「頑張ってください」と俺は喉の奥で呟き、遠目から微笑みかけてみた。
今朝までの鬱屈した気分が嘘のように、目に映る全てが桃色である。恋色フィルターというものはこうも恐ろしく、またこうも心地よいものなのか。今の気分ならたとえどれだけ嘘くさい宗教の勧誘が来ようと、差し出された手を両手で包んで「信じますヨ!」と言ってしまいそうだ。
専洋大学を出た俺は、干からびたミミズの死体を小気味よいスキップで飛び越えつつ、自宅へと向かった。3限目と4限目にも授業が入っていた気がしたが、最早どうでもよい。「モラトリアムだぞ! 文句あっか!」と空に叫んだ。
歩いて行けば専洋大学から40分のところに、今現在俺が根城としているアパートがある。埼玉の実家を離れ、4月から一人暮らし。巣鴨にある4畳半の安アパートだが、夜は静かだし、風呂とトイレは完備されているので思っていたよりも快適だ。
玄関に上がって靴を脱ぎ捨て、真っ先に部屋の真ん中に敷きっぱなしとなった布団に飛び込んだ俺は、枕で口を塞いで「ウォォッ!」と力一杯叫んだ。この歳で一目惚れなんぞ恥ずかしくってたまらないという気持ちと、よくワカランがとにかく嬉しい気持ちのふたつがマーブル模様を描いた結果、叫びという汚らしい形で飛び出したのである。
一度きりの慟哭では到底収まりそうにもなかったので、俺はもう一度「ウォォッ!」と叫んだ。恋は人を盲目にするどころか、知性の低いスライムめいた単細胞生物にするらしい。
二度の叫びにより冷静になった俺は、布団の上であぐらをかいた。
ようやく落ち着いたな、このマヌケ。恋をしたからどうだっていうんだ。それだけじゃまだスタートラインにすら立っていないだろう。これからどうするべきか、冷静に考えろ。
俺は彼女の名前すら知らん、年齢も知らん、そもそも彼女があの〝白鯨〟とかいうサークルの構成員かどうかも知らん。わかっているのはただ一つ、俺が彼女のことを「運命の人である」などと思いこんでいるということだけだ。
しかし、思いこむということは恐ろしい。今現在の俺にとっては、「彼女が運命の人である」ということは紛れもない事実だ。
ならば彼女を振り向かせて見せよう! それが運命ならば!
4月7日の昼下がり。そう決意した俺は窓枠に足を掛け、両拳を天に掲げた。
例の筋肉と出会う、1ヶ月以上も前のことであった。
○
運命の糸を手繰り寄せるその前に、俺は〝白鯨〟について調べ上げることにした。石橋はいくら叩いても叩き過ぎということはない。まずは焦らず、用意を周到にしておくべきだ。
英語の授業で一緒になった米田という男が、専洋大学のサークルについて事情通だったため、昼飯と引き換えに情報を頂戴することとなった。
昼休み、食堂にて俺は米田と向かい合い、バターチキンカレーをたっぷりつけたナンをつまみながら〝白鯨〟についての話を聞いた。
聞くところによると、〝白鯨〟は比較的歴史の深いサークルだという。創立年から数えて今年で46歳になるとのこと。構成員は現在4名、うち男が2人、女も2人。今の監督は多数のアマチュア映画賞で受賞歴有。1年前は構成員15名を超えていたらしいが、そのほとんどが4年生だったため、今年に入って急速に規模縮小、現在のような少数精鋭になってしまったらしい。
残っているメンバーは全員そろって変人とのこと。彼女が変人とは思えないので、この情報に誤りがあるか、もしくは彼女が白鯨に所属する人間ではないのか、そのどちらかである。
「何お前? ホントにあのサークル入んの?」
小馬鹿にしたように米田がそう尋ねてきたので、「当たり前だ」と答えてやった。すると米田は食堂にいる人間に、「目の前にいるコイツはホンモノのバカモノです」とでも宣伝するように、声を大きくして笑った。失礼な奴だ。
「変人集団の仲間入りか? お前、大学生活終わったぜ」
それ以来、米田のアンポンタン野郎とは口もきいていない。
〝白鯨〟の門を叩こうと決意したのは、それから1週間後のことだった。決心するまでだいぶ時間が掛かったのは、入部してからのシミュレーションを脳内で幾度と繰り返したからである。サークル室を前にして怖気づき、逃げの一手を打ち続けることを繰り返したわけではない、断じて。
サークル棟の3階、一番端の太陽光は期待できそうにない位置にある312号室。そこが〝白鯨〟の部室である。扉の前に立つと、派手な音楽に混じってエンジン音が聞こえてきた。たぶん、映画でも見てるんだろう。
胸がやたらと高鳴ってきた。おまけに脚も震えている。だが、ここまで来て引き返すわけにはいかない。扉の前まで行った俺は一度引き換えし、便所で用をたして、また扉まで引き返す中で、ゆっくりと決心を固めていった。
やる、俺はやるんだ。この扉を開けて〝白鯨〟に入部し、煙草の彼女に出会うんだ。で、映画について甘い手ほどきを受けながら互いの心を通わせていき、指と指が軽く触れただけで赤面したりなんかするんだ。で、彼女と親しくなった俺は、彼女の悩みを聞くようになり、一緒に飲み屋に行き、「今日は遅いからウチで泊まっていかない?」なんて誘われ、隣同士ソファーに座ってふとした拍子に手が触れあい、見つめ合ったりなんかして――ロマンスのページをめくる指がどうにも止まりそうにもないので、今日は一旦帰ろうか。そうだ、そうしよう。集中力を欠いていては事を成すのは難しい。失敗は許されないのだから、念には念を入れるべきだ。
「お前、何をしている? ウチに何か用か?」
回れ右をしようとした俺の背中を、鞭のような鋭い声がはねつけた。とっさに振り返ると、不健康そうな目の下のクマと、「切らなかったらここまで伸びました」みたいな腰まで伸びた長い髪が特徴的な女性がいる。服装は、ジーパンに白いシャツ1枚と男性的で、身長も170cm近くまであるだろうか。敵に回したら死ぬほど後悔させられそうだなということがひと目でわかる風貌だった。
「……お前は、あの時の男か。久しぶりだな」
長身の女性は俺の顔をまじまじ眺めたかと思うと、さも嬉しそうにバンバン肩を叩いてきた。あまりに突飛な行動に何が何だかわからなくなった俺は、とりあえず「誰ですか」と尋ねてみた。
「わからんか? この前会ったばかりだろう」
ここまで威圧感満点のお人、一度会えば忘れそうにもないものだが、あいにくと俺の記憶のどこにもこの人の目の下のクマは見当たらない。
「……仕方がないか。互いに自己紹介したわけでもないからな」
後ろ髪を無造作に撫でた女性は、スッと手を伸ばしてきた。
「小津杏≪おづあんず≫、君が涙を流しながら観てくれた映画、〝ライリーに捧ぐ〟の監督だ」
そこでようやく、俺は「ああ」と思い出した。この方は、映画が終わっても席を立たなかった俺に「出て行け」というニュアンスで話しかけてきた女性だ。
監督ということはつまり、小津先輩は〝白鯨〟のボスである。となれば、この人に取り入ることがすなわち煙草の彼女への近道である。ならば今は絶好の機会、逃すわけにはいかない。
戦略的撤退を急きょ取りやめにした俺は、にこやかに小津監督の手を取った。
「檜山蘭といいます。あの映画には感動しました」
「そうか、それは何よりだ。しかし、はっきり言ってあの時は驚いたぞ」
「驚いた、ですか?」
「ああ。最前列で座るお前が、映画の冒頭から『頑張れ、負けるな』などと言い出した時は、私の映画を観て気でも振れたのかと思ったよ」
「……見られてたんですね」
「見るだろうさ、誰だってな。それにしても、何を応援していたというんだ、お前は」
まさか、ヒロインの彼女が煙草を吸い切ることを応援していましたなんて、監督の全く意図していないだろうことは言えなかったので、俺は「まあ、いいじゃないですか」と誤魔化した。
「それはそうと、サークルの見学に来たんです。入っていいですか?」
「構わんぞ。来る者は拒まず。それがウチのモットーだ。まあ、来る者はあまり多くないがな」
小津監督は俺の手を解き、部室の扉に手を掛けた。
「歓迎するぞ、檜山蘭」