ナポレオン・ダイナマイト その5
時刻は6時を回ったころ。太陽が海面に乱反射し、すでに見飽きた浜辺を橙色に塗りつぶしていく。たいして澄んだ海でもないのに、日の入りが近くなるに連れ綺麗に映るのは、出勤前に化粧をすると露骨に顔が変わるキャバ嬢みたいだなと、なんの情緒もない感想が頭によぎる。
足だけを塩水につけそんなことを考えていた折、俺の両隣に2人の人物が並び立った。園先輩と北野である。両者とも、水着を脱いで気の抜けた部屋着に着替えている。
「決心は固まったみたいだね」と神妙な面もちで海を見る園先輩が呟くのと対照的に、北野は「ホントにやるんスか」と気だるげなのを隠そうともしない。
「やるに決まってるだろ。このままじゃ、スライに惚れた黒沢先輩は、俺に一生振り向きもしない」
「男女関係としての惚れと、スライさんへ対するあきらサンの惚れって、また種類が違うモンだと思うんスけど」
「種類もなにもあるかっ。惚れは惚れだ、そこに大きな違いは無い」
「違うと思うんスけど……まあ、なんでもいいや」
投げやりになった北野はさておき、俺は園先輩に「今日はお願いします」と頭を下げる。
「わかってる。僕は北野さんと一緒に役作りをしてくるから、檜山は良いタイミングで黒沢さんを誘ってくるといい。場所は……そうだね、ここがちょうどいいと思う。海が見える場所はそれだけでロマンティックだ」
「アタシには一抜けたを宣言する暇すら無いんスね」
それから園先輩は、さんざんぼやく北野を連れて宿に戻っていった。機を見て俺も宿に戻れば、キッチンではスライが、先ほど採ってきた様々な貝類をどう調理すべきかと睨みつけている。
この料理男子め! などと嫉妬に溺れる心でよくわからない罵りを送りながら、黒沢先輩の後ろ姿を求めて宿の一階を探したところ、縁側から脚を投げ出し、眠たげな猫のようにぼうっと空を見上げる先輩を見つけた。
すでに部屋着へ着替えたらしい先輩は、白いシャツの上にゆったりとした灰色のパーカーを羽織り、少し短めの黒いズボンを穿いている。濡れた髪が涼しい風にさらさら撫でられて、あどけなさの影に艶っぽさが見え隠れしている。
いつも見せる表情のどれとも違う、アダルティックな面が垣間見え、俺は声をかけるのをためらうほど彼女に見惚れて固まってしまった。だから、「檜山くん、どうしました?」と彼女の方から声をかけてくれたのは幸運であった。そうでなくては、今日の作戦は決行されなかったかもしれない。
「ええ、いや、どうってわけでもないんですけど、ほら、散歩でもどうかなって、ハハ。夕焼けが反射して、海も綺麗ですし、ねえ? 見とかないと、損かなって」
何も考えないで喋り出したものだから、しどろもどろになって仕方がなかったが、「いいですねっ」と先輩の表情に笑顔が咲いたところを見るに意図は伝わったらしい。安堵した俺は先輩と共に宿を出て、海の方へと歩き出した。
「わたし、夕焼けが沈んでく海って映画の中でしか見たことないんですっ」
「じゃあ、海に行くこと自体が珍しいってことですか?」
「はい、10年ぶりで。でも、一番の原因は泳ぎ疲れてすぐに寝ちゃうってことだと思いますっ」
「それなのに、今日はよく大丈夫でしたね」
「檜山くんっ! わたし、もう20歳ですからっ!」と先輩は自慢げに胸を張る。そんな彼女の姿に、俺は思い切り鼻の下を伸ばした。
他愛もない会話に幸せを感じつつ、防波堤沿いの道路をのんびり歩き、やがて見えてきた砂浜へと続く道へ折れる。すると、波打ち際でぱしゃぱしゃやってる2人組の姿が見えた。一歩近づいて目を凝らせば、アロハシャツを素肌の上に着ている絵に描いたようなチンピラと、その連れらしきホットパンツを穿いたギャル全開の女である。西日が強くて顔の造形まではよくわからないが、園先輩と北野が変装したものと考えて間違いないだろう。
となれば後は決行あるのみ。俺は黒沢先輩に、「ちょっと波打ち際まで行ってみませんか?」と提案した。
「いいですけど、すぐ戻らないとみんなが心配しますよ?」
「もちろんわかってます。ただ、何か思い出になればなって、貝殻でも持って帰りたくて」
「それなら」と先輩が了承してくれたので、俺は先輩を連れて、白鯨チンピラ組の方へと歩みを進める。近づいたおかげでわかったが、園先輩はカツラを被っているのか、剃り込みが目立つ短い髪型になっている上、くわえ煙草までしており、〝いかにも〟という感じである。「さすがですね」と、俺は心の内で先輩の役作りに賞賛を送った。北野はつばの広い帽子で顔が隠れていること以外はいつも通りだが、チンピラのツレという役に馴染んでいるのでまず良しとした。
チンピラ組から10mも無い距離で、なんでもない風を装って貝殻を探すフリをしていると、事前の打ち合わせ通り、園先輩の演じるチンピラ男の方が「ねえ」と声をかけてきた。
「どっから来たの?」
無教養を思わせるしゃがれた声。直前にウイスキーでうがいでもしたのだろうか。
黒沢先輩はチンピラに声をかけられるなんてこと想定していなかったようで、すっかり怯えて固まってしまっている。そんな先輩をそっと背に隠した俺は、「東京の方からですよ」とまず友好的に答えた。
「へー、東京。ウラヤマシーね。俺、ジモトのヒト。なんも無いっしょ、ココ」
そう言うと、チンピラはくわえていた煙草を海に投げ捨てた。なるほど、ここか。これを俺が注意すればいいわけだ。理解と共に、〝頼れる男〟に変身した俺は、「ちょっと」とあくまで友好的な姿勢を崩さず声をかける。
「よくないでしょ、そういうのは」
「ナニ、そういうのって。もしかしてお前、海を守れって感じのヒト? それとも、彼女の前でイキってんの?」
「そういうわけじゃない。ただ、やっていいことと悪いことがあって、アンタがやってるのは悪いことだって言いたいだけだ」
「やっぱイキってんな、オイ」
チンピラは俺の胸ぐらを掴みにかかった。ちらと黒沢先輩に振り向けば、小動物的におどおどした様子で俺のことを心配そうに見つめている。吊り橋効果万歳! という思いを、腹の中に押しとどめる。
「イキってるとか、そういうわけじゃありませんよ。だいたい、ポイ捨てした貴方が悪いんでしょう」
「ボコってもいいんだぞ、コラ」とチンピラは拳を振りかざす。絵に描いたような小悪党、迫真の演技だと感動していたのも束の間、女の方が「ちょっとー、タクー。止めなよー」などと言い出したのを聞いて、俺は不穏な空気が首元に纏わりついてくるのを感じた。
というのも、女の声が北野のハスキーボイスと全然違って、知能指数の低そうな甲高いものだったからである。もしかして、別人? 本物のチンピラさんでしたか? などと、胃の内側から汗が噴き出てくる。
「ヤメねーよ。ナメられたまま下がれるかっての」
「でもさー、この前ケーサツに世話になったばっかジャン? 今度はホントーに捕まっちゃうよ?」
「捕まんねーよ。ケーサツには昔っからの知り合いも多いしな。ちょっと注意されるだけなんヨ」
「なら、いっか」
ならいっか、じゃない。止めろよ。という心の声が届くわけもなく、大儀は得たとばかりに男は俺の身体を突き飛ばす。無様にも砂浜に尻餅を突いた俺は、無抵抗を示すために、抱き抱えられた子猫のように両手を挙げた。
「いやいや、暴力はいけませんよ、ねえ」
「いまさらっしょ、ソレ」
もうダメだ、ぶん殴られる。締まる喉を何とか広げて「逃げてください」という言葉を捻りだしたが、肩越しに振り返れば、彼女は恐怖で脚が竦んだのか、首を小さく横に振るばかりでその場から動かない。
最早、打つ手無し。先輩、目をつぶっていてください。これ以上みっともない姿は見られたくない。
せめて歯だけは折られませんようにと、いつの間にかすっかり暗くなった空に願った、その時である。「オイッ!」と鋭い声が砂浜全体に響きわたった。
「ランから離れろっ!」
声の方を見れば、鬼のような形相をしたスライが駆け寄ってきている。助かったと確信した身体はみるみるうちに力を取り戻し、驚くことに立ち上がれるまで回復したので、俺は脚を引きずって黒沢先輩を護れる位置に立った。
「な、なんだよお前?! カンケーねーだろーが!」
「関係ないわけがあるかっ! そこを退けっ!」
ほんの一瞬だけスライとにらみ合ったチンピラであったが、筋肉大王の如き迫力に当然勝てるわけもなく、ツレと共に尻尾を巻いて逃げ出した。残念だったな、次はしっかり鍛えて来るといい。
脚をガクガクと震わせながらも静かに勝ち誇っていると、スライが「大丈夫か?」と肩を貸してくれた。
「平気だ。それよりも、何でここに?」
「夕飯の材料が少し足りなくてな。追加で調達しようと思って海に来てみたら、何やら襲われてる奴がいる。それがランだったというわけだ」
そう言われて手元を見れば、確かにスライの手にはシュノーケルが握られている。どうやら運が良かったらしい。
「助かった、お前がいなかったらどうなってたか」
「礼には及ばん。それより――」
「スライさんっ!」
涙に打ち震えた声が俺達の会話を引き裂く。今まで黙りきりであった先輩の声である。
「檜山くんが怪我したらどうしようって……。でも、わたし、なんにもできなくて……」
「何も出来ないのは当たり前だ。よく逃げなかった。大したもんだ、クロサワ」
「でも……でもっ!」
その時ほど俺は自分を殺してやりたいと思ったことはない。なんでといえば、先輩がスライの腰に腕を回し、ワンワン泣いているのを見て、自分がいかに矮小な人間であるかを思い知らされたからに他ならない。