ナポレオン・ダイナマイト その2
翌日。アクションの撮影ということで、向かった場所は埼玉の朝霞という場所にある専洋大学の別キャンパスだった。無駄に金ばかり持つとところ構わずキャンパスを建てるのは私立大学の悪い癖だ。
広い赤土のグラウンドもあるので、そこで撮影をするのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。今日の撮影に参加する園先輩、北野が揃うと、小津監督は付近に流れる黒目川の草木が茂る土手まで俺達を案内した。
6月だというのに梅雨らしくない太陽がぎらぎらと輝き、真夏日を越える日も珍しくないので、川べりでの撮影というのはありがたい。しかし、こんなとこでアクションなんて出来んのか? と、俺は滑りやすそうな砂利を踏んで不安を覚えた。
「そういえば監督、檜山のアクションって誰が相手するんですか?」と尋ねたのは園先輩である。
確かにそれは俺も疑問に思っていた。コンテと台本を見た限りでは、俺は相手を一方的に痛めつけねばならないらしい。おまけに俺が痛めつけた相手は、頭が爆発して血飛沫が噴き出すらしい。もしこれを部内の誰かにやらねばならぬのであれば、今後の人間関係にヒビが入るどころか、警察沙汰になりかねない。
どうするのだろうとヒヤヒヤしていると、小津監督は園先輩の問いに「木人くんだ」と何の気なく答えた。聞いただけで力の抜けるような名前だ。木人くんとはいったい誰だと思っていると、北野が肩にかけていたボストンバックから空気の詰まったビニール製の白い大きな人形を取り出した。
「ではご紹介、彼が木人くんッス」
「つまり、俺はその人形相手に喧嘩する、と」
「そういうことになるッスね」
俺は自分があのビニール人形と格闘する様を想像した。物言わぬ人形を殴り倒し、踏みつけ、首を締め付ける。「参ったかッ!」と息巻き、鼻息を荒げる俺。ぷしゅうと空気の抜ける音が川辺に響き、通行人が冷笑する。
「なんて馬鹿だ」と思わず呟くと、「それが狙いだ」と小津監督が呼応した。それなら仕方がない。監督の言うことが絶対なのは、役者としての運命である。
木人くんの首を糸でくくり、糸の端を持った北野が橋の上で立つ。両腕をだらんと下げた人形が俺の前方5mに浮かんでいる。穏やかに流れる黒目川の水面に反射した太陽の光が、彼の肌をぬらっと反射している。あれを相手に、思いのまま全身全霊で打てばいい。通行人の視線はあるが、恥ずかしくもない。やってやるさ、見たけりゃ見てろと、即時で開き直った俺は口角をつり上げた。
今日は三池先輩が、必修授業の中間テストとやらでいないので、監督自らカメラを構えている。
「檜山、このシーンはミフネの妄想だ。ミフネは、〝ドラゴン怒りの鉄拳〟で暴れまわるブルース・リーの姿と自分を重ねているんだ。ミフネの気持ちがわかるな?」
「わかります。動かない相手を思いのままに殴る妄想に浸って自己満足している、そういうことですね」
「その通り。では、本番だ。お前の思うように打ってみろ」
「ヨーイ」の声が響く。三池先輩の代わりに園先輩が鳴らしたカチンコの乾いた音が響くと同時に、俺はおおげさなくらい歯をむき出しにして人形に直進した。
人形は風で揺らいでいる。「ホワァーッ!」と奇声を上げながら拳を堅く握った俺は、人形の腹に幾度と拳を突き立てた。
当然、ぽふぽふと音が鳴るばかりで、まるで手応えはない。俺は目の前のビニール野郎がまるで親の敵であるように、「アタァッ」と連呼し乱打を続ける。しかし野郎は痛そうな素振りすら見せん。「ならば」と俺はシャツを脱ぎ捨て、野郎の頭に回し蹴りをお見舞いしてやった。すると糸が切れたかのように、とうとう野郎が地に伏した。決めるならここだ、ここしかない。
俺は素早く野郎の背後に回り込んで首に腕を回し、思い切り締め上げてやった。やがて、パンと空気の爆ぜる短い音がしたかと思うと、ストロベリーフレグランスの血飛沫が俺の視界を覆った。木人の野郎、なんてファンシーな血が流れていやがるんだ。
「カット」と声が聞こえてくる。ぺしゃんこになった木人くんを見た俺がようやく我に返ったころ、興奮した様子の園先輩と北野が駆け寄ってきた。
「驚いた! 檜山、本当にアクション出来るんだな!」
「やるじゃないスかランちゃん! スゴかったっスよマジで! マジでブルース・リーみたいでした!」
「そうかな?」と俺はつい照れた。ここまで絶賛されるのなら、黒沢先輩もいればよかったのに。なんと間の悪いことだろう。
苺の香りが漂う血のりをタオルで身体を拭き、脱ぎ捨てたシャツを着直すなどした後、撮影した映像を確認している小津監督の元へ戻れば、困ったような笑顔を浮かべている。
「どうしました?」と尋ねると、表情はそのまま監督は俺の胸を人差し指で小突いてきた。
「いい画が撮れたぞ、檜山。しかしこれじゃ出来が良すぎて、どこにハサミを入れればいいのかわからないな。困ったものだ」
○
アクションシーンの撮影は順調に進んでいる。ついひと月前までは、俺がNGを出すたびにその細い二の腕を力ませ、痩せこけた金剛力士像のような表情で怒りを露わにしていた三池先輩も、最近ではすっかり上機嫌の恵比寿顔だ。却って小津監督なんかは俺を叱る回数が増えたが、これまではなんとなく〝お客さん〟扱いだったのが、ようやく仲間に入れて貰えたようで、むしろ喜ばしく思う。
園先輩と北野とは、なんだかずいぶん仲良くなれた。きっかけは、たまたま園先輩と2人、部室で昼食を取っていたある日、「檜山は黒沢さんのことが好きなんだよな?」と言われたことからだった。ちょうどスタミナ弁当を食べていた俺は、豪快にせき込み生姜焼きの欠片を机に開いていた台本にまき散らした。
「ご、ごめん。大丈夫かい?」
「ええ、なんとか。それにしても、なんで知ってるんですか? 北野から聞きましたか?」
「ひょっとして、隠せてると思ってた? わかってないのは黒沢さん本人と、あとは三池さんくらいだと思うけど」
いったいどれだけ俺はわかりやすい人間なのか。そして、黒沢先輩の博愛主義はいったいどこまで突き抜けているのか。ついでにどれだけ三池先輩は人の心の動きに鈍感なのか。
なんだかジンジンしてきた頭を押さえつつ、汚れた台本を拭いていると、北野が部室にやってきた。
「ありゃりゃ、台本ダメにしちゃって。なにやったんスか?」
その問いに園先輩が「檜山は黒沢さんが好きだってことをバレてないと思ってたらしいよ」と正直に答えてしまったため、北野は手を叩いて大いに笑った。
そんなことがあってから、2人は恋のアドバイスを積極的にしてくれるようになった。北野はいつも通りからかい半分だが、園先輩はどうやら本気だ。聞くに、「いい演技をするには恋をするのが一番」らしい。
しかし2人の助言虚しく、黒沢先輩との距離はあまり縮まっていない。いや確かに、新文芸座での一件をきっかけに、共に昼食に行ったり、映画に出かけたりなどの機会は増えたものの、それだけの話だ。彼女にとって俺という存在が、恋とか愛とかとは似ているようでかけ離れている、〝友情〟という名のカテゴライズに放り込まれたような気さえもする。仮に告白でもしようものなら、「一緒にいて楽しいけど、そういう風には見れないんです」なんて言われる様が、まぶたの裏に鮮明に浮かぶ。
そんな弱腰の俺をスライはあまり良く思っていない。「まだ行動に移してないのか?」と、毎日3度は尋ねてくる。そして「まだだ」と答えると、「鍛え方が足りないようだな」と俺の首根っこを掴んで、現世と地獄の間に存在する筋肉界へと引きずり込むのだ。頭が痛いが、僧坊筋はもっと痛い。
6月の中盤に入って、白鯨で会議が開かれた。そこで、今月の最終週の土日に、撮影のために千葉県の海へ行くのだと聞かされた。
「撮影のためといっても、撮るのはせいぜい30カットだ。まあ、半分リフレッシュだと思ってくれて構わない。それと檜山、スライさんにも是非にと伝えておいてくれ」
海といえば水着、そして水着といえば黒沢先輩である。先輩の水着が見れる! それだけで俺の心は情熱的なタンゴを踊った。
いっぱいの太陽を受ける柔肌に、乾いた潮がうっすら輝く黒沢先輩の桃色の水着姿を妄想していると、ふいに響いた机を叩く音によって現実に引き戻された。
「やっぱり、爆発は不可欠だと思うんですっ!」
手のひらで机を叩きみんなの気を惹いた後、なにやら物騒なことを言い出したのは、他でもない黒沢先輩だった。なんでそんなことを言い出したのか、妄想に耽っていたせいでそこまでに至る話を聞き逃したのかと思ったが、どうやらそうでもないようで、文字通りの爆弾発言は突然のことだったらしい。黒沢先輩以外のメンバーがそろってポカンと口を開けているのが、それを教えてくれる。
平日昼の田舎にある映画館のように静まりかえった部室で、恐る恐るといった様子で先に口を開いたのが北野だった。
「……あきらサン、どうしたんスか、急に」
「爆発ですよ武緒ちゃん! せっかくのアクション映画なんですから、爆発はあるべきなんです!」
「俺ぁ賛成だな。出来ないってことに目をつぶればよ」とからかい混じりに三池先輩。さらに、「無理じゃないかな」と園先輩が気まずそうになにも無い方を向く。
止めとばかりに小津監督が、「黒沢、悪いが、予算やその他諸々の概念があってだな」と言ったのを受けて、黒沢先輩は口惜しそうに拳を硬め、唇を噛みしめうつむいた。
「……わかってます。わかっているんです……!」
黒沢先輩の儚げな叫びが、俺の心に幾度とこだました。
○
確かに爆発なんて無茶だ。爆発それ自体にとんでもない金額がかかるし、場所も必要だし、それに仮に金があったとしても命の危険がある。そんなことくらい、俺でさえもわかる。しかし、思い人ひとりのちっぽけな願いも叶えられなくてなにが男か。これも彼女を喜ばせるため。となればまず必要になるのは爆薬だ。しかも、とんでもない量。
会議が終わって、『爆薬 作り方』で検索をかけ、怪しげなサイトを部室のパソコンで見ていると、たまたま戻ってきた園先輩と北野に「何やってんだ」と呆れられた。
「アホなことを思いつくものだね、檜山は。プロジェクトメンヘムでも決行するつもりかい?」
「自分がアホだってことくらい百も承知です。ですが、一度火の点いた恋をどうやって止められましょうか」
心からの言葉にジンときたのか、園先輩は目頭を抑え、鼻をすする。反して北野なんかは、馬鹿にした表情を隠そうともせずあくびなんかしやがる。「この冷血女め」と、俺は小さく罵った。
「ホント男ってバカッスね。いいスか、ランちゃん、園サン。冷静に考えりゃわかるでしょ。もし爆発なんてホントにやろうモンなら、退学だけじゃ済まないッスよ? 良くて警察沙汰、悪けりゃ病院直行コース、そのままサヨナラ天国直行便。幽霊になってあきらサンのストーカーになりたいってなら止めはしないッスけど、ニューヨークの幻みたいにハッピーエンドは待ってないっスからね」
「そこまで言うことはないだろ」
「そりゃー言いたくもなるっスよ。白鯨から犯罪者、もしくは死人が出りゃ、一番泣くのはあきらサンっス。あの人だってそこまで望んでるわけじゃない。そんなことも考えられないほどおバカさんなんスか、ランちゃんは」
なるほど、なんと説得力のある言葉だろうか。俺だって黒沢先輩の悲しむ姿を見たいわけじゃない。〝爆薬調合マニュアル!〟などという怪しげな名前のサイトを閉じた俺は、「ならどうしよう」と助けを求めた。
「どうすれば俺は、黒沢先輩を振り向かせられるかな」
「後ろから呼びかけりゃ振り向いてくれますよ」
「そんな意地悪なこと言うなよ。ノート見せてやったろ?」
「あの件だったら昼飯奢ったんでチャラっスよ。とにかく、今日はバイトあるんで帰りまーっス」
なんて無責任なんだ。だいたい、俺と黒沢先輩の恋路に頼んでもないのに首突っ込んできたのはコイツなのに、肝心な時はこれだ。
俺の憤りをむしろ追い風にして、「じゃ、また明日」と手をピラピラさせて白鯨の部室に手をかけた北野の背中を、園先輩の「待って」という声が止めた。
「僕にいい考えがあるんだ。赤面するほどクラシカルで、迸るほどロマンティックな考えが」
園先輩が言うところの、赤面するほどクラシカルで、迸るほどロマンティックな考え。20分に及ぶ先輩の話を要約すれば、「黒沢先輩が不良に絡まれているところを助けて、いっちょ男気見せようゼ!」といった内容である。
なるほど、90年代、下手をすれば80年代を思わせる、錆びた香りが隠しきれない方法だ。「そんなベタな手でいいんですかね」と、園先輩の古くさいセンスをそれとなく批判すると、「黒沢さんみたいな女の子相手には、却ってこういう方法が利くんだ」と言われた。
これを言ったのが三池先輩だったら120%信じなかったろうが、二枚目代表の園先輩に言われれば「そういうもんか」となってしまうから不思議だ。
「そんなものなんスかね」と胡散臭そうにぼやく北野を巻き込んで、俺達は栄光の日のため画策した。
立てられた計画は単純だ。決行日は、白鯨で海に行く予定となっている再来週の土曜。その日、俺は黒沢先輩を誘って散歩へ向かう。散歩をしているところに不良役が現れ、何か失礼なことをし始める。俺はそれを打倒し、見事黒沢先輩と結ばれる。以上。無駄がないのと同時に計画性も感じられない。しかし、勢いと熱さだけはある。それで十分だ。
「我ながら完璧な作戦だ。そう思わないかい、檜山」
園先輩は満足そうに腕を組み、バチンと音がするほどのウインクをしてみせた。キザったらしい仕草だが、まったく鼻につかないのがなんとも憎らしかった。