ナポレオン・ダイナマイト その1
3章開始。
時計の針は休みなくクルクル回り、あっという間に6月となった。梅雨に入ったにもかかわらず、太陽は雨雲を蹴散らし、去年に比べてなおうるさく輝いている。夜になっても頬をなでる風は生暖かく、クーラーに頼らず眠れる夜も後何日になるだろうかといった具合である。1週間が過ぎるたび蒸し暑くなっていくので、「これじゃ8月になったら40度になるな」なんてツマラン洒落が現実味を帯びて聞こえてくるほどだ。
〝世界を救うぼくはヒーロー〟の撮影は現在も進行中である。ある時は町の喫茶店で、ある時は三池先輩の自宅で、ある時は黒沢先輩行きつけのレンタルビデオ店で、ある時は大学の近くにある神社でと、ロケ地は様々であった。俺の演技に対する慣れもあってか、撮影は滞りなく進むようになり、今となっては前半の遅れをしっかりと取り戻している。俺は深く携わっていないが、裏では並行して映像や音のチェックも進んでいるようで、そうなると小津監督はいつ寝ているんだという疑問が湧いてくる。
一番付き合いが長い三池先輩にそれを聞いても、「そういやそうだな」と言うばかりで、まともな答えは期待出来そうになかった。
「アイツ、なんだかんだ授業の単位も落としたことないしな。完璧すぎ。ナポレオンみてぇだよな、専洋のナポレオン」
安い酒みたいなあだ名をつけた三池先輩は満足そうであった。
そういえば最近になって、白鯨は変わり者の集団であると言われている原因がようやくわかった。
白鯨は専洋大学でゲリラ的に撮影を行うことがしばしばある。ゲリラということはつまり、当然許可は取ってないわけで、許可を取っていないということは人払いなんてことはしないわけで、人払いしなければからかい半分の見物人がアホみたいにわらわら現れるわけで、結果として〝爪弾きの変わり者集団〟という不名誉極まりない称号を欲しいままにしているというわけである。
妙なあだ名を付けられて、本来であればはらわた煮えくり返るところであろうが、小津監督は「それもよし」とした。監督は俺達に群がる野次馬達を上手いこと乗せて、エキストラとして無償で出演させることがしばしばある。そういった転んでもただでは起きない精神が一層不気味に映り、変わり者集団の称号をより鋭く、そして怪しげに光らせた。
さて、その日は金曜日であった。小津監督から連絡があり「打ち合わせをしたい」ということなので、昼休みに部室へ行くと、監督がソファーに座って待っていた。
「小津監督だけですか?」
「ああ、お前に渡したいものがあってな」
そう言って監督は、肩掛けの鞄からA4の冊子と何枚かのDVD、それに黒いヌンチャクを取り出し、俺に手渡した。「なんですかこれは?」と尋ねると、「冊子とDVDとヌンチャクだ」と見ればある程度わかることを述べた。
「とうとう、来週からアクションの撮影に入る。檜山には、スライさんと一緒にその冊子にざっと目を通してもらいたい。殺陣の指導はもう彼に頼んであるから、話は通じるはずだ」
「わかりました。で、このヌンチャクとDVDは?」
「ミフネはブルース・リーが好きという設定だからな。それを使ったアクションをクライマックスに持ってくるつもりなんだ。DVDは参考資料。ブルース・リーの主演映画と、ついでにジャッキー・チェンの映画もいくつか揃えておいた」
いきなりヌンチャクなんて、話に聞いていないと思ったが、無茶なことを言われるのは期待の裏返しだと考え直し、「やってみます」と虚勢を張った。
「その意気だ。しかし、ほどほどにな。お前のやる気はどうにも空回りしそうな気がしてならない」
「気をつけますよ。でも、小津監督。ひとつ問題が」
「なんだ?」
「俺の家、DVD再生出来る機械が無いんです」
監督は心底呆れたようにため息を吐いた後、「使ってないPS2をやるからそれで観ろ」と言った。
○
小津監督から頂いたPS2を持って家に帰り、スライに事情を説明すると、「ヌンチャクか」とやや渋い顔をした。事情を聞けば、戯れでヌンチャクを振り回した際、汗で滑ってあらぬ方向へすっぽ抜け、顔をしたたかに打った過去があるとのことである。コイツにも出来ないことがあるのかと、俺はやや陽気になった。
「ラン、いま笑いやがったな? 俺がヌンチャクを使えないと思ってるんだろ?」
「ああ、思ってる」と素直に答えると、スライは「見てろ」と俺の手からヌンチャクを引ったくり、それをブンブン振り回し始めた。言うだけあって中々上手くやっていたが、「いいぞ!」と褒めた瞬間にすっぽ抜けたヌンチャクが、開け放しになった窓から外へ飛び出したので、やはりこの領域に関してだけは期待出来そうにないなと思い直した。
スライと共にアクションの流れを繰り返し確認し、時たまヌンチャクの練習などしていると、貴重な休日はあっという間に塵へと消えた。汗臭く、一見したところ不毛な48時間であったが、不思議な充実感があった。
日曜の夜、久々に梅雨らしくポツポツと雨が降ってきたので、外でのトレーニングを中止し、座学として〝プロジェクトイーグル〟というジャッキー映画を観ながら過ごしていると、黒沢先輩から携帯に連絡があった。
何事かと正座になって電話を取れば、うっとおしい雨雲を吹き飛ばすほどのエネルギーを内包した「こんばんはっ!」の挨拶が聞こえた。あまりに突然なことだったので、俺は「こ」のところで4度どもった後、なんとか「こんばんは」と返した。
「ど、どうしました、黒沢先輩」
「小津さんから、檜山くんが頑張ってるみたいだから調子を聞いてみてくれって頼まれましてっ。どうですかっ?」
「ええ、まあ、いいです、かなり。今もホラ、ジャッキー映画なんか観てまして、ええ、参考になりますです、ハイ」
しどろもどろで何とか返す。不意打ちに弱いことこの上ない自分が嫌になる。
慈愛に満ちた黒沢先輩は、そんな支離滅裂極まりない俺すらも包み込み、「それはよかった!」と声を弾ませた。
「じゃあ、明日からの撮影は問題無いってことですねっ!」
「大丈夫だと思います。カメラの前で出来るかどうかは、やっぱりまだ不安ですけど」
「平気ですよっ! 頑張ったのならその分だけ結果は出ますからっ!」
どこまでもポジティブに突き抜ける黒沢先輩の言葉にジンときていると、「ところで」と話が切り替わる。
「ス、スライさんに代わって貰えないでしょうか?」
瞬間、俺は声を失った。喉の筋肉がきゅっと締まって、「はうはう」と情け無い喘ぎしか出てこない。なんだ、結局黒沢先輩の目当てはこの筋肉ダルマか。これじゃ俺、ただのピエロじゃん、などと、右目の奥には自然と涙が溜まってくる。
頭にくるくらいに何も知らないスライが「どうした?」と声をかけてきたので、どうしようもないくらいに腹が立った俺は、ほとんど殴るようにしてヤツの胸元に携帯を押しつけた。
それからは、ちゃぶ台に顔を突っ伏していたので何が起きたのかは知らないが、不愉快極まりないことが俺の半径3mで起きたことは確かである。最早、現実逃避する気力すら残されていないほど滅多打ちにされた気分で、辛い時間が過ぎるのだけをただじっと待った。
少しすると「ほら」と、肩に手のひらが置かれた。
「電話は終わったぞ。起きろ。どうしたってんだ、急に」
「どうしたもこうしたもあるかっ。わかるか、俺の気持ちが。恋する人と仲睦まじく話してたら、他の男に代われなんて言われた俺の気持ちが、お前にわかるか?」
「そう落ち込むな。クロサワはただ、俺に事務的な用事があっただけだ」
「嘘吐くなっ。お前に代わって欲しいと言った黒沢先輩の声色は……まるで、子猫のようだった」
「……その表現、自分で言って恥ずかしくないのか?」
呆れたようにそう言うと、スライは俺にデコピンを一発放ってきた。ヤツにとってそれは戯れ程度の一撃だったのだろうが、一般人を悶絶させるには十分過ぎる威力を秘めており、俺はフローリングをごろごろと転げ回った挙句、万年床に顔を埋めた。
尻を天井に突き上げ、倒れた〝く〟の字みたいな姿勢のままぐうぐう唸っていると、先輩からの電話について、聞いてもいないのにスライが説明を始めた。
「あの電話は俺への協力要請だった。オヅからの言伝で、すぐにではないが、俺も映画に出て欲しいんだと。別に甘い誘いがあったわけでもないし、もしあったとしても俺はクロサワに興味は無い」
「お前に無くっても、向こうにあるのが問題なんだっ」
「少しは男らしくなったと思ったらすぐソレだ。ラン、友人として忠告しといてやる。嫉妬して、立ち止まってるばかりじゃどうにもならん。現状を打破するのは、いつだって行動だ」
筋肉理論に閉口してしまった俺に、スライはさらに続けた。
「石橋はもう十分叩いたんじゃないのか? 違うか?」