スタンド・バイ・ミー その4
ゴールデンウィークも振り返れば既に遠く、いつの間にかクランクイン当日となった。スライが寝ているうちにこっそり家を出ると、約束していた時間よりも1時間ほど早く大学についてしまったため、中庭のベンチでぼんやり座って過ごしていた。
春の残り香もとうに消え失せ、早くもさんざめいてきた太陽が近いうちの夏の到来を予感させる。ガラス張りになった専洋大学2号館を見上げれば、遠い空に浮かんだチョコマシュマロのようにぼてっと太った雲を映している。雲のように気ままになりたいなどと後ろ向きなことは考えたこともなかったが、今日ばかりはあれが羨ましく思える。
なんたって、産まれて初めての演技なのだ。逃げたくもなる。
どうせ俺には演技なんて出来っこないさ、駄目人間だもの。台本だって最後まで覚えてないし、覚えてたって噛むだろうし、撮影は一向に進まないだろうし、黒沢先輩は俺に幻滅して頬をぺちぺち叩いてくるだろうし、いやそれも悪くないかもしれないけど、などと自虐的思考があらぬ方向を向いたところで、「お」と声がした。見れば、三池先輩だった。台本を渡されて以来会っていなかったので、2週間ぶりになる。
「いいじゃねえの、そのブルース・リーカット。似合ってるぜ」と俺の隣に腰かけた三池先輩は、懐から取り出したわかばをくわえて火を点けた。自分ではこの髪型が似合っているとも思えないので、俺はやや不機嫌になりながら「そっすかね」と答えた。
「ああ。身体つきもかなり変わった。園までとはいかねえけど、きっちり役作りしてきたみたいじゃねえの。感心したぜ、ラン坊よ。まずは合格点ってトコか」
実感は無いが、やはり身体つきは相当変わったようである。なんだか自信がむくむく湧いてきた。俺、やれんじゃんと、三池先輩にわからないよう頬をつり上げる。
それから2人で雑談なんて交わしながら部室まで行くと、ソファーには既に小津監督が居た。「早いな」と言ったきり俺達には目もくれず、なにやら分厚い資料の束をぺらぺらめくって眺めている。
「なんですアレは」とこっそり三池先輩に尋ねると、「コンテだ、コンテ」と答えてくれた。
「簡単に言や、映画の設計図だな。演者に指示したり、カメラマンに指示したり、とにかくあれが無いと話になんねえのよ」
「もしかして、あれも小津監督が?」
「俺も少し手伝ったけどな、ほとんど小津だ」
「凄いですね、よくあれまで出来るもんですよ」
「ま、ガサツだけど映画に関しちゃ繊細な女だからな。腕も気合もプロみてえなもんさ。おかげでコッチはついてくのに必死よ」
すかさず「ガサツか」と小津監督がたしなめるように言ったので、三池先輩は小さく悲鳴をあげたきり何も言わなくなった。
それからほどなくして北野、園先輩、そして黒沢先輩が続々やってきた。たまたま俺の隣が空いていたので、最後にやって来た黒沢先輩はそこに腰かけたのだが、おかげで俺はくしゃみが止まらなくなってしまった。3日以上空けて彼女を見ると、鼻の奥がこそばゆくなってよろしくない。毎日ならなんとも無いぶん、どうやら俺は先輩の笑顔を見ないとダメになる身体になったらしい。
鼻をぐずぐずやっていると、「風邪ですか?」と黒沢先輩はポケットティッシュに5円チョコを添えて俺に手渡してくれた。人は白衣を着なくとも天使になれると知ったのは、その時のことだった。
鼻の奥にティッシュを詰めたところで、「揃ったようだな」と小津監督はソファーから立ち上がる。「静かに」なんて号令をかけられたわけでもないのに、音を立ててはいけない雰囲気であることを肌で感じた俺は、背筋を伸ばしてぎゅっと口をつぐんだ。
「いいか。100人が見て110人が楽しいと思えるものを創る、などという大言壮語を吐くつもりはどこにもないが、だからといって作り手である私達だけが満足する作品を創るつもりもどこにもない。私達が目指すのはエンターテイメントだ、芸術じゃない。ゆえに自己満足は許されない。各々、そこのところをよく肝に銘じておくように。以上だ、さあ、楽しもう」
冷静の中に熱さを宿した小津監督の微笑みが、撮影開始を告げる鐘の音の代わりであった。
○
早速部室を出た俺達は、大学から少し歩いたところにある駐車場に向かった。撮影道具一式を詰めたハイエースがそこに停められている。
「しばらくはアクションシーンを撮るつもりはない。部室や大学を使って、ミフネの日常風景を撮る予定だ」
道中、小津監督はそう説明した。天気に左右されることがないような、屋内のシーンを撮れるところから撮っていくというのが小津監督のやり方らしい。ただし、クライマックスのシーンだけは、演者のことを考えて最後に撮影するのだとか。「だったら最初からストーリーに沿って撮影を進めてくれる方がありがたいですよね」というような旨を、園先輩にそれとなく言ってみると、そんなことすると撮影時間が足りなくなるんだときっぱり言われてしまった。
「順撮りっていう、時間軸通りに撮るやり方もあるんだけどね。そこまでの予算も時間も無いから、抜き撮りって方法に頼るしかないんだ」
「でも、撮るシーンの順番もばらばらで、役に入れるか不安ですよ。演技だって初めてのことなのに」
「大丈夫、やってみれば案外大したことはないさ。この2週間、僕が言ったことを思い出せばいい」
園先輩は、役作りのため中途半端に金に染めた髪を逆なでながらそう言う。
仕方がないので言われたとおり、俺はこの2週間で先輩から言われたことを思い出してみた。「カメラは見ない」、「緊張は受け入れるものである」、「ミフネの魂を檜山の身体に落とし込め」、「役を演じるのではない、人生を演じるのだ」などなど、アドバイスは数多くいただいたが、後半になるにつれ具体性を失っており役に立ちそうにない。自分でどうにかするしかないようだと、俺は冷たい確信を呑み込んだ。
カメラやマイクなどの撮影機材を持って専洋大学まで戻り、そのまま白鯨の部室まで向かった。到着してからは、三池先輩の小慣れた手つきにより撮影準備が着々と進められていった。
存外小さなカメラが一台構えられる。何やらごちゃごちゃした機械から伸びたコードは、背の高いマイクに繋がれている。あと5分もしないうちに本番が始まるという実感が、足元からじわじわ這い上がってくる。
ああ、とうとう知らない世界に足を踏み入れるんだなとそわそわしつつ、俺はこれから撮影するシーンの流れを、頭の中で繰り返し確認した。
主人公ミフネは〝あざらし〟という映研にたった1人で所属する映画オタクである。ミフネは今日とて部室で独りソファーに浅く腰掛け、大好きな映画を鑑賞し、自分が映画の主人公になる妄想に耽っている。妄想と現実の境が曖昧になる中、部室の扉が静かに開けられる。ヒロインであるタカクラの登場である。
「ここって、あざらしの部室でいいんですよね?」とタカクラがぼそぼそと言う。
「……はあ」と答えるミフネ。
「部長の方っています?」
「部長は僕ですけど。部員も、僕だけ」
「そう、ですか」と部室をぐるり見回すタカクラ。そしてやがて決心したように、「入部したいんですけど」と消え入るような声で呟く。
ミフネはどんな顔をすればいいのかわからない。部員が増えたことに喜べばいいのか、1人の時間を邪魔されるようになることに悲しむべきなのか。どういう感情表現をすればいいのかわからず、情けない顔で笑うことしか出来なかったミフネは、「はあ」と答えて入部を了承する。
たったこれだけだ。時間にすれば1分にも満たない。台詞だって30文字に足らない。大丈夫、大丈夫と俺は頭の中で反芻する。
「檜山、用意はいいか?」
小津監督の言葉に、俺は「ええ」とうなずく。黒沢先輩を前にした時とは別種の胸の高鳴りが身体を揺らす。思わずえずきそうになるのを、なんとか我慢する。
「本番、ヨーイっ」と声をあげた三池先輩がカチンコを鳴らした。ミフネになりきれという合図であった。