カサブランカ その1
以前、投稿していたものを改稿したものです
詳しくは活動報告に書いてあります
20年近く生きていると、出会ってすぐさま「一番好きな映画はなんですか?」なんて聞いてくるアホに出くわすことがある。ある人はそれに、〝風と共に去りぬ〟と答えるだろう。ある人は〝ホステル〟と答えるだろうし、〝スターウォーズ〟と答える人だって、当然いるだろう。答えは人の数だけある。
俺の場合それは〝バックトゥーザフューチャー〟のパート2だ。何年か前に父親がビデオ店からレンタルしてきて、買ったばかりの薄型テレビで一緒に観賞した思い出がある。タイムマシンが出てくることと、空飛ぶスケボーが出てくること以外のことは大して覚えていない。
そうだ、察しの通り、俺は映画を好んで観ない。金曜の夜9時、テレビでやっているのを流し見するか、どうしようもなく暇な平日の昼、ローカルテレビで放送しているB級だかC級だかワカラン映画を昼飯食いつつ眺めるだけである。1000円以上も払って2時間ぽっちの映像を畏まった姿勢で見るためだけに、電車賃使って都内まで行くのはなんとも馬鹿らしい。
そんな俺に天罰を下しにきたのかどうかは定かでないが、俺の住む安アパートに筋肉モリモリマッチョマンのヘンタイが突如現れた。ただ現れただけならまだマシだが、この男ときたらテレビの液晶をバリバリと割って現れた挙句に、「映画の中からやってきた」などとのたまい始めたのだから、まったくもって堪ったものではない。
本来であれば真っ先に警察を呼ぶべき珍案であろうが、しかし俺は、この男の話一切を「なるほど」と受け入れた。
「どういうわけだ」と思う人もいるだろう。「裏があるんだろ」と思う人だっているだろう。
その通り、どういうわけだもへったくれもなく、裏がある。眩いほどに純然たる不純な動機がある。桃色と灰色が入り混じった青春色の感情がある。
全ての事の発端は、筋肉が現れる1ヶ月半ほど前まで遡る。
俺こと、檜山蘭19歳。大学生活などという、脳細胞の死滅を促すモラトリアム期間に突入してから、僅か2日後のことだった。
〇
季節は春。甘い風に誘われるまま、ふらふら舞い散る桜の花びらが絶えず視界に入って煩わしい。冬眠から覚めた蛙が不用意に道路へと飛び出してトラックに轢かれ、悲劇的なアートを創り出している。目に映る全てが灰色である。
本来であれば、溢れる希望と身を焦がすほどの好奇心に誘われるまま、小鳥のさえずりが絶えない並木道へと散歩にでも行こうかという季節だろうが、俺はそんなことをやっていられる心持ちではなかった。
もちろんそれには理由がある。
この春から俺は大学生になった。〝晴れて〟と頭につかないのは、さっぱりめでたくないからだ。大学受験に失敗したのが一昨年の冬。それから1年浪人して、志望校のランクから2つ下の専洋などというC級大学に入学する羽目になったのだから、到底浮かれている場合ではない。これから来る就活戦線のため、虎視眈々と積まねばならぬ。
オリエンテーション、新入生教育、入学式などの洗礼行事を無事終えた翌日。授業を受けようと気合いを入れて大学に向かった俺を待ち受けていたのは、やかましい笑顔を携え、いたいけな新入生をサークル活動などという魔窟に誘おうとする専洋大学生だった。頭の軽そうな先輩方が、「こっちの水は甘いぞ」「いやいやこっちの水の方が甘いぞ」などのような内容のことを喚きつつ、目がチカチカする色合いのチラシを押し付けようとしてくる。
敬意を表するべきお相手ではないことはひと目でわかったので、俺はそれら一切を視界に入れないよう歩いた。
人ごみを押しのけた先にあった大教室にて経済の授業を受けていると、隣に座った男から声をかけられた。守屋とかいう名前の1年生の男だったが、今となっては顔すら思い出せない。しかし気にする必要は無い。どうせ向こうも、廊下ですれ違ったって視線を交わすことすらしないだろう。
「この後、一緒にサークル見て周らね?」
授業後、守屋はそう提案した。断ることも考えたが、再び授業で顔を合わせることもあるだろう相手と大学生活初日からぶつかり、波風立てても面倒だと思った俺は、「行くか」とその提案に乗った。すると守屋は携帯を取り出し電話を掛け、同じ提案をして何人かを呼び出した。ヌーじゃないんだから、群れなきゃ行動出来んのかと、俺は心でため息を吐いた。
6人所帯になった俺達は、ぎこちない会話を交わしながら様々なサークルを見て周った。
排他的なジャズサークルの演奏を遠巻きに眺め、どんな活動をしているのかちっともわかったものじゃないオールラウンドサークルの勧誘を跳ね除け、怪しげな冊子を配る文芸部を冷やかすなどしていると、やがて誰かが言い出した。
「あっちの教室で映画サークルの上映会やるんだな」
俺はその言葉にすかさず、「見てみるか」と反応した。断言しておくが、俺はなにも素人の自主制作映画を観たかったわけではない。目的地も無く校内を歩くのに疲れていたので、とにかくどこかに座りたかっただけである。
初対面なので遠慮していたのか、俺の意見に異を唱える者はいなかったため、俺達は映画を観ることになった。教室内に入ると、既に客が40名ほど座っている。6人で横並びに座れる席が最前列しか残っていなかったため、俺達はそこに並んで腰かけた。
間もなく映画の上映開始時間となった。教室の照明が消され、授業に使われるスクリーンが展開される。白いスクリーンには〝白鯨〟というサークルロゴが流れ、やがて、不健康そうに無精ひげを伸ばした男のアップから映画が始まった。
どうせ素人が作ったツマラン作品だろうが、ものは試しだ。見てやるか。
そう意気込んで約2分、予想と反して俺の目はスクリーンに釘付けになった。
そこに映っていたのは、火の点いた煙草をさも不味そうにくゆらせるひとりの女性である。本当は煙草を吸うことが出来ないのか、それとも演技なのか、それはわからないが、とにかく涙目になり、時折咳き込みながらも煙を吸ったり吐いたりしている。
その姿を見て、浪人生時代の苦い思い出が俺の脳内を瞬時に駆け巡った。ストレス発散しようと、吸えもしない煙草を咥えて豪快に咳き込んだあの日――火の点いた煙草を畳に落としてボヤ騒ぎを引き起こし、親にさんざん叱られた悲しい過去。
猛烈に泣きたくなって、思わず涙をひとつこぼした。浪人生活は人の情緒を大きく不安定にさせる。
がんばれ、負けるな。煙草なんて軟弱で細っちょいヤツなんぞ、吸いきっちまえ。
「……檜山、大丈夫か?」
心の声が漏れていたらしく、今となっては名前も思い出せない、隣に座る男がそう問いかけてきた。ええい、邪魔をするな。俺は今あの人を応援している。
前のめりになって座り直し、ぐっと拳を握る。頑張れ、負けるな。
しかし応援空しく、とうとう彼女は半分ほどで煙草を吸うのを止めてしまった。無念だと、拳で軽く机を叩いた俺は、改めて彼女を見た。
肩の辺りで切った黒髪は、彼女の心根を示すようにぴんと真っ直ぐである。くるりと自然にカールしたまつげは、瞬きする度に穏やかな風を辺りに振りまいているのだろうというほどに長い。大きなどんぐり眼は、世界に映る〝素敵〟を余すことなく見てやるとばかりに、終始輝いている。細い肩は朝の光にすら透けそうで、自己主張の激しくない身体つきは晴れた日のエーゲ海のように穏やかだ。エーゲ海は行ったこともないが、あんな感じだと思う。
彼女の佇む半径15mは、常にいい匂いで満ちているんだろうな、などと惚けたことを思った次の瞬間、身体中がぞわぞわして震えが止まらなくなり、鼻の頭から耳にかけて顔全体が赤に染まっていくのを感じた。訳が分からなくなって慌てて掌で顔を覆ったら、今度はスゥッと身体の温度がつま先から引いていった。
情けないことに俺は、19歳にして初めてひと目惚れをしたのである。ゲリラ的に恋をした瞬間の感覚として、「電流が走ったような」などという表現が使い古されているが、俺の場合は全く違った。致死量2mmの毒を500mlほど一気飲みさせられた気分だ。これは天にも昇る、と同義である。危うく彼女のキュート加減に殺されるところであった。
初体験を意識した俺は、なおのことスクリーンを真剣に見つめた。映画の内容は全く頭に入ってこない。あるのは、彼女の一挙手一投足を脳細胞に焼き付けておいてやろうとする意志だけである。
やがて映画が終わった。理由はわからないが、最後のシーンで彼女は泣いていた。釣られて俺もワンワン泣いた。
エンドロールが終わっても、しばらくの間、俺は両腕を脱力した状態で垂らしたまま、椅子から離れることが出来なかった。動けないならそれはそれでいいかと、もう何も映らないスクリーンに向かって脳内映写機を回し、彼女の愛くるしい姿を映し出してひとり上映会を楽しんでいると、誰かが肩を叩いてきた。
「映画は終わりだ。続きはもうないぞ」
煙草の彼女とは正対に位置するような、背の高く、威圧的な雰囲気を纏う女性だった。ふと周りを見れば、守屋達の姿は既に無い。俺は「すいません」と頭を下げてから、荷物を掴んで教室を後にした。