変化
あれからどれくらい時間が経ったのだろう。気づけば降車予定のバス停まで残り二、三の所まで来ていた。
あの時の事を思い出したのは久しぶりだった。なるべく思い出さないようにしていたはずなのに、今みたいな状況に置かれただけで、こうもはっきりと思い出してしまった自分が少し嫌になった。
あまり良いとは言えない思い出の余韻に浸っていると、突然夏南が口を開いた。
「ねぇ、一つ言っていい?」
「なんだ起きてたのか」
横を見ると、夏南が薄目でこちらを見上げている。
単に眠たいだけなのか、それともさっきの事をまだ根に持っているのか、どちらなのかはわからない。
「これ似合ってないよ。全然似合ってない」
そう言うと、夏南は俺の右耳にぶら下がるピアスを少々強引に爪で弾いてきた。予想外の攻撃に俺が一瞬首をすくめると夏南がクスクスと笑った。
笑う所を見るともう怒ってはいないようだが、素直に「許した」と言いそうな雰囲気でもない。すねた子供を相手にするようなそんな感覚がした。
「ピアスが似合ってないのは自分でもよく知ってる」
俺は正直に答える。
「なら外せばいいじゃん」
「外せるもんなら俺だって外してーよ。見てみろ」
口で説明するより見てもらったほうが早い。俺はピアスがよく見えるよう耳周りの髪を掻きわけた。
「うーん、高すぎてよく見えない」
夏南が上半身をこちらに向けて言った。確かにそうだ、身長差があるのをすっかり忘れていた。
俺は体を前に傾け、肘が太ももに着くような姿勢をとる。
「これでいいか?」
夏南もそれに合わせて動きながら「それなら見えそう」と言って俺のピアスに手を添えた。
「うっわ、なにこれ! 溶けてんじゃん」
夏南が顔をひきつらせながら言った。
無理もない。普通の生活を送っていたらこんなピアスを見ることもないはずだ。
「正確には溶けてるんじゃなくて、溶接されてるんだけどな」
俺は掻きわけた髪を適当に整えた。
「なんで溶接なんかしちゃったの?」
夏南は眉をひそめ、怪訝な表情をする。
「十弧を出るときに全員右耳にピアスをつけられる。そういう決まりになってる」
「へぇー、そんなのあるんだ」
夏南が目を丸くした。
俺が前屈みになった姿勢を正すと、夏南も座り直した。
「でもなんで右だけなの? ピアスつけられるの」
「右耳のピアスはな、本来守られる人って意味があって、ホモの世界ではある意味共通の目印みたいなもんなんだよ」
夏南がよくわからない、といった表情を見せた。俺はわかるようにもう一度言い直す。
「普通守られるのは女であるべきであって、男なのに守られるって変だと思わないか?」と俺が言うと「確かに」と夏南が頷いた。
「つまり右だけピアスしてる奴は、自分でホモですって周りにアピールしているようなもんだってことだ」
「なるほど、そういうことか」
夏南が手のひらにグーを乗せてポンッと叩いた。
「じゃあ、左耳のピアスは? 守る人ってこと?」
「まあ、そういうことになるな」
厳密には男女で意味が逆転するわけだが、そこらへんはまず俺たちには関係ないだろう。
「僕も今度みかどの真似してみようかなー。右だけピアス」
夏南は視線を上にやって、いたずらっぽく笑った。
「あのなぁ……俺の話聞いてたか?」
「みかどはファッションホモじゃないってことでしょ? ちゃんと聞いてるよ」
宙を見つめる夏南は能天気に話すが、俺はこの言葉が好きではなかった。ホモにファッションもリアルも無い。重要なのは本人の気持ちがどこにあるかだ。
俺はそういう環境で育ったから否応なくそういう生き方をしているだけで、必要がなければ「おじさん」になんか会ったりしない。
俺は自分に言い聞かせるように口を開く。
「俺はホモじゃない」
「じゃあ、女の子が好きなの?」
さっきまで宙をさまよっていた夏南の視線が急にこちらに向けられる。
俺は思わず顔を逸らしてしまった。
「急になんだよ」
「別に」と言って夏南は再び視線を宙にやった。
「ホモじゃないなら女の子はどうなのかなーってちょっと気になっただけ」
「男も女も同じだ。今さら誰かを好きになれる気なんてしない」
俺は至って真面目に答えたつもりなのに、なぜか夏南がクスクスと笑いだした。
「なにそれ。みかど中二病かよー」
夏南はそう言うと俺の脇腹を指でつついてきた。
「やめろ、こそばゆいだろ」
俺がそう言っても、夏南はやめるどころか「この、この」と言ってその攻勢をさらに強めた。俺はそれをひたすら防ぐ。しばらくその攻防が続いた後、夏南は「あーすっきりした」と言って笑い出した。
さっきからちょっとした事で怒ったり笑ったり。こっちとしてはたまった物じゃなかったが、こんな事で夏南が機嫌を取り戻してくれたのならまあいいか、と自分を納得させた。
夏南は笑ったまま外を眺めていたが、しばらくすると再びこちらを向いた
「さっきのユーキとみかどがどうのっていう話、本当に嘘なんだよね?」
夏南が念を押してくる。
「ああ、保証する」
「じゃあ、十孤出身っていうのは?」
「残念だけどそれはマジだ」
「やっぱそうなんだ……。なんかモチベ落ちてきたなぁ」
夏南ががっくりとうなだれた。
九条ユーキが施設出身という事実がどうしても受け入れ難いらしい。俺が自己紹介した時はこんな反応じゃなかったはずだが。
「俺の時とえらく違うな」
「だってあの九条ユーキだよ? みかどと九条ユーキじゃえらく違うじゃん」
それもそうか。自分の言葉をそっくりそのまま返された俺は妙に納得してしまう。
昔は共に時間を過ごしたと言っても、一方は日本中を虜にする人気のアーティスト。かたや俺は、日々くだを巻いているだけの高校生。
俺がいくら手を伸ばしても届かない所に九条ユーキは居るのだ。以前はあんなに近くに居たはずのに。
「はぁ」
夏南が溜め息をつく。
夏南は単純に九条ユーキが十孤出身という話に凹んでいるだけだと思うが、俺にはこの溜め息がもっと別の意味を持っているように感じられた。
俺と九条ユーキが比べられているようなそんな感覚。あくまで俺の内にある劣等感がそうさせるのだろうが、そう思わずにいられなかった。
俺はその感覚から目を背けるように口を開く。
「そうガッカリするなって。今度チケット貰ってきてやるから」
連絡先くらいなら俺でも知っていた。それをいいことに俺はつい見栄を張ってしまったのだ。こんなことをしても九条ユーキに追い付けるわけではないのに。自分が惨めになるだけだとわかっていたはずのに。
「本当!?」
夏南の表情が一気に明るくなる。
「ああ。今度掛け合ってやる」
その場をしのぐためだけに良い面をする。
あの時、結城の手を笑顔で握り返した達也と自分の姿が重なって見えた。
「みかどもたまにはいい事するじゃん!」
何気ない一言が心に深く突き刺さる。
「ま、まあな。ただ実際に貰えるかはわからんから、過度な期待はするなよ」
「了解!」
夏南が力強く返事をした。夏南はいつになく上機嫌だった。反対に俺は、底の無い沼にどこまでもはまっていくようなそんな気がした。
それからほんの十数秒も経たないうちに、バスは夏南が降りる停留所についた。
「それじゃ、またね!」
夏南は今日一の笑顔を見せると、手を振りながらバスを降りた。バスから降りてもなお、こちらに向かって手を振っているのが窓から見える。俺はそれに乾いた笑顔で応えるのが精一杯だった。手を振り返す事なんて到底できない。
バスが発進するとその姿は徐々に小さくなり、ついには見えなくなった。
バスに一人取り残された俺は自虐的に笑うしかなかった。自分は一体今まで何をしてきたのか。周囲を見下し、ただただ馬鹿にするだけの毎日。
俺がいたずらに時を過ごす間に、俺の憧れた結城はいつのまにかみんなの憧れる九条ユーキに変わっていた。
俺と結城が離れてから、それぞれが過ごした時間はあまりに差があるように感じられた。
達也の頭にボールを投げたあの時から、俺は何一つ変わっていないーー。
俺はいつもの癖でガムを探した。
しかし、手を突っ込んだポケットの中にガムは一枚も無く、代わりに夏南から投げつけられた紙くずが入っているだけだった。