下校
無限に黒く広がる星空が澄んだ空気を思わせる。夏だというのに夜風はひんやりと感じられた。道を行き交う人々はこの時間に相応しい様相を見せている。酔っ払ったサラリーマンや仕事帰りのOL。おそらくこの辺りを歩く制服姿の高校生は俺と夏南だけだった。
俺は今日もいつもの喫茶店で夕飯を済ませた。この時間帯、つまり夏南が居る時に店に行けば明音は必ずサービスをしてくれる。おかげで夏南ともそこそこに話すようになった。明音の策略にまんまとはまっているわけだが、夏南と話すのは楽しかったし嫌な気はしなかった。
「そろそろあがるし、せっかくだから一緒に帰らない?」 と夏南に提案され今に至る。
CDショップの前を通りかかった所で夏南が急に大声を出した。
「あーっ! これ九条ユーキの新曲じゃん!」
「お前九条ユーキ好きなのか?」
「そりゃ、もう大好きだよ! あの中性的な見た目と歌声が癖になるっていうか……もうアーティストとして完璧だよね? みかどもそう思わない?」
「別になんとも。俺、あの人と昔ーー」施設で一緒だったし、と言おうとした俺の言葉は夏南によって遮られた。
「うそぉ!? みかど絶対ズレてるよ!」
ズレている事に関しては否定しないが九条ユーキは別だ、と頭の中で答える。
テンションのあがった夏南はさらに続けた。
「ユーキの曲ってさ、歌はもちろんだけど、やっぱ歌詞がめちゃくちゃ切なくて。男なのに女の気持ちがわかってるっていうか、なんか乙女心くすぐられちゃうんだよねー」
夏南はそう言って視線を上にやった。
「お前はいつから乙女になったんだ」と俺が突っ込んでも、夏南はご機嫌に歩くだけでまるで聞いていないようだった。
いつのまにか数歩先を歩いていた夏南がこちらへ振り返ると、今度は後ろ向きに歩きながら話す。
「そうそう知ってる? ユーキのライブにまつわる都市伝説」
「都市伝説? なんだそれ」
「アーティストのライブってさ、カップルシートとかよくあるじゃん?」
「ああ、男女が隣同士で座る席のことだろ。それがどうした?」
「ユーキのライブにもそれがあるんだけど、人気すぎてチケットがほとんど取れないんだって」
「へぇ」
「そのせいかカップルシートでライブを観た人達は幸せになれるとかなんとか」
「胡散臭すぎないかその話」
「そう? ぼくは結構信じてるけどなー」
そう言うと夏南は口元を緩ませて再び視線を上にやった。その姿を見ていると、自称乙女の夏南なら本気で信じていてもおかしくないかもしれないと思った。
俺と足並みが揃った所で、夏南は再び前を向いた。俺たちが利用するバス停がちょうど見え始めていた。
「それで、さっき何か言いかけてなかったっけ? 続きどうぞ」
ある程度自分の言いたい事を言い切って満足したらしい。バス停にちょうど着いた辺りで俺にターンが回ってきた。
「ちゃんと聞こえてたなら俺にも最後まで言わせろっての」
「ごめんって!」と夏南はいたずらっぽく笑いながら両手を合わせた。
「それで、何?」
「あの人と昔施設で一緒だったってだけだ」
「ええええ!? そうなの?」
夏南が二、三歩大きく後退りした。
バスを待つ周りの人々の視線が刺さる。
「落ち着けって」
「落ち着いてなんて居られないよ! なんで先に言ってくれなかったの」
「最後まで言わせなかったのはお前だろ」
「それはそうだけど……」
夏南が顔を赤くした。先走った自分の行動を恥じたのか、それとも周りの視線に気づいたのか。もしくはその両方か。
「でも、ウィキペディアには一言もそんな事書いてなかったよ? 名字だって十条時じゃないし……」
「本人が隠したいんだろ。十狐出身なんて言ったら色眼鏡で見られるのはわかりきってるからな」
「なるほど」
そう言って夏南が急に無言になった。何か気になる事でもあったのだろうか。夏南は口に手を当ててずっと下を向いている。
しばらく沈黙が続いた後、夏南が再び口を開いた。
「……あのさ、一つ聞いていい?」
まるで禁忌にでも触れるかのように小声で聞いてくる。
「なんだ?」
「十弧出身ってことは、ユーキもそっちの人……ってことだよね?」
「そうかもな」
「何その曖昧な返事は……」
夏南は回答の歯切れの悪さに納得がいかないようで、怪訝な表情をした。
「なんだお前こういう話好きなのか?」
「好きなわけないじゃん! 別に好きなわけではないけど、一ファンとして知っておく必要があるというか……」
一旦は否定するが、素直に引き下がろうともしない。これでは顔に「興味ある」と書いてあるも同然だった。俺はせっかくなのでその意向に沿ってやることにした。
「俺あの人とエッチしたことあるぞ」
「うえぇ! キモッ!」
夏南が光よりも速く拒否反応を示す。光より速いわけがないのだが、夏南の反応はそれくらいに速かった。
もちろん今の話は嘘なのだが、あまりに期待通りの反応をされて俺も楽しくなってきた。
「上手いのは歌だけじゃなかったんだ。ってな」
「もういい! それ以上聞きたくない!」
夏南は怒るようにそういい放つと、耳を塞いでしまった。相当嫌だったらしい。その後は俺が声をかけても無視を続けた。
仮に俺がよろしくやってた所で夏南には関係ないだろうに。だいたいこの話を持ち出したのはそっちの方だ、と俺は心の中でぼやいた。
しばらく会話の無い状態が続いていると、遠くにバスの姿が見えた。
「おい」
夏南の肩を軽く叩く。
「聞きたくない」
夏南はまだ耳を塞いでいる。
「お前にとって良い話でも、か?」
横目で睨むようにこちらを見る。
「……何」
「さっきのは嘘だ」
「死ね! マジで死ね!」
夏南はそう言うと、ポケットから紙くずのような物を取りだして投げつけてきた。
「ははは。大体あの人そういう事嫌がってたしな」
当然施設長からは何らかの手解きを受けているだろうが、そこは夏南と九条ユーキのために黙っておくことにした。
俺が投げつけられた紙くずを拾っていると目の前にバスが現れた。空気の抜けるような音を立てながらバスの扉が開いた。夏南が足早に乗り込むと、俺もちょっと遅れてその後に続いた。一番奥の席に陣取った夏南は、窓に肘をついて外を眺めている。
「隣いいか?」
「良くないけど、いいよ」
一応俺が確認を取ると、夏南はこちらも見ずに答えた。俺は隣の席に腰を降ろす。
「まだ怒ってるのか?」
「ちょっと寝るから静かにして」
素っ気なくそれだけ言うと夏南は目を瞑った。そこまで怒らなくてもいいだろ。と俺は思った。
最初は俺と会話したくないから寝る振りでもするのかと思っていたが、どうやら夏南は本当に眠ったらしかった。
いつのまにか俺の肩に頭を預けていて、寝息も立てずに静かに目を閉じている。少し窮屈になった俺が態勢を直しても「んー……」とあやふやに言って、もぞもぞしただけだった。
その拍子にほのかにシャンプーの香りが漂ってきた。部活終わりにシャワーでも浴びたのだろう。
考えても見れば部活の後にバイトもして疲れていないはずがない。そんなに毎日頑張るのにも何か理由があるのだろうか。今度機会があれば聞いてみてもいいかもしれないな、と俺は思った。
とにかく今は夏南をできるだけ起こさないように俺はそれだけに努めることにした。夏南の重みを肩に感じながら、何年経っても代わり映えしない外の風景を俺は黙って眺めた。