策略
今日は朝からずっと用事に縛られていた。用事を終えた俺は夕食を取るために馴染みの喫茶店に来ていたわけだが、いつもと違った時間に訪れせいか、店内は普段よりいくらか騒がしかった。
俺は席に着くとテーブルの隅に置かれたちり紙を手にとった。それを口に当てて味の無くなったガムを吐き出す。
そしてメニューを眺め、いつもの鼻唄を聞き、いつも通り揺れるフリルを横目に注文を伝える。
予定ではそうなるはずだったのだが、今日は鼻唄も聞こえてこないし、メニュー越しに見えるフリルも揺れていない。
あるはずのものが無いことに違和感を覚えた俺はゆっくりと顔をあげた。
「ご注文はいかがいたしましょう」
そこには弾けんばかりの笑顔で、愛想良く注文を尋ねてくる人物がいた。こんがりと焼けた小麦色の肌に、中性的で整った顔つき。はつらつとした雰囲気に短めの髪型がよく似合っている。この店で初めて見る店員だった。
胸元のネームプレートには「星野 夏南」と書かれている。そういえば明音が言ってたな、新しくバイトが入ったとかなんとか。
しかし、ここで一つの疑問が浮かび上がる。
明音の話では確か新人は男だったはず。なのに目の前の人物はなぜか女性用の制服を着ているし、どう見ても女にしか見えない。
改めて確認しようとじっくり店員の顔を見ていると、相手と目が合った。
その瞬間、微かに心臓の鼓動が早くなるのを感じた。理由は自分でもよくわからなかったが、初対面の相手とあまりにも目が合いすぎたせいだろう、と俺は思った。
「これとこれで」
明音に言うように「いつもの」は使えない。メニューを指差して丁寧に注文する。
「かしこまりました!」
元気良くそう答えた店員は、急ぎ足で厨房の方へと消えた。客が多くて忙しいのだろう。
数分後、注文した料理が運ばれてきた。今度はさっきの店員ではなかった。
「お待ちどう~……って、みかどくんじゃん! 来てたんなら教えてよ~」と言って明音がゆっくりと料理をテーブルに置いていく。
相変わらずマイペースなやつだ。と俺は思った。その一方でいつもの雰囲気に落ち着く自分が居るのも事実だった。
俺は今一つの謎を抱えていた。それを解消するべく明音を呼び止めた。
「ちょっといいか?」
「なになに?」
食いぎみに返ってくる返事。珍しく俺から声をかけられて嬉しかったのか、明音がこれでもかというほど迫ってくる。
「まあ落ち着けって」
正面に座るよう促し、明音が席に着く。いつも以上にフリルが弾んでいた。
「それで、どうしたの?」
「この前言ってた新人ってあいつか?」
フロアを指差しながら尋ねる。その方向には、ついさっき俺の所まで注文を取りにきた店員が居た。あわただしくフロアを駆け回っている。
「そうそう! それがどうかした?」
「俺の記憶が正しければ、たしか新人は男だったはずだが」
「そうだけど?」
明音はまだ話の要点がつかめないのか、きょとんとした顔を見せる。
ここまで言ってもまだわからないのか。いや、むしろわかった上でそう答えているのか。
どちらにせよ、俺はもう一度問う必要があると感じた。今度ははっきりとわかるように質問する。
「なんで男なのに女用の制服を着てるんだ?」
その瞬間、明音がニヤリとした。どうやら俺は地雷を踏んでしまったらしい。
「それはね~……」
「いちいち溜めるな」
「私の提案でちょっと着せてみたの! そしたら予想以上に似合っちゃって、もうこのままでいいかな~って」
明音は楽しそうに話したが、相変わらず無茶苦茶な事を言うやつだ。と俺は思った。
「全然よくないだろ。だいたい本人は嫌がらなかったのか?」
「嫌がったよ? 嫌がったと思う。でも今は着てくれてるもん」
明音が胸を張って言った。明音には0か1しかないのだろうか。新人も無理矢理変なもの着せられて大変だな、と勝手に心中を察する。
「あんまり新人を苛めてると、またすぐに居なくなるぞ」
「もー。似合ってるんだからいいじゃん」
これで本人には悪気が無いのだから恐ろしい。
料理が冷めてしまうのも嫌なのであとの会話は適当に聞き流そう。俺がそう思った瞬間、明音が大きな声を出した。
「あ、そうだ!」
「なんだ、まだ何かあるのか」
嫌な予感がする。
「せっかくだし、夏南くんともお喋りしなよ。どうせこの店来るならまた会うだろうし」
予感は見事に的中してしまった。
「いや、そういうのいいからマジで……。元々見るだけっていう約束だろ?」
「夏南くーん。ちょっとこっち来てー」
まるで聞いてない。
俺はさっき明音を呼び止めた事を後悔した。
「はーい!」
厨房の中から元気な声が帰ってくる。ほどなくして、新人がハンカチで手を拭きながらこちらに歩いてきた。
正体がわかってもなお、その新人はやはり女にしか見えなかった。
「なんでしょうか先輩」
「なんか忙しそうだねぇ……」
「忙しそうだねぇ……じゃないですよ! 今日は混んでるんですから。先輩もこんなとこで油売ってないで手伝ってください!」
「んもー、怒った顔もかわいいんだから」
かわいいという言葉に触発され新人の顔が一気に顔を赤くなる。何かを思い出したかのように急いでスカートの端を押さえた。
「だからかわいいって言うのやめてくださいって……せっかく忘れかけてたのに」
伏し目がちに話すその言葉にはあまりに覇気がない。新人の急変にさすがの明音も何か感じたのか、申し訳なさそうに言葉を返す。
「ごめんごめん。もう、絶対言わないようにするから」
珍しく本気のトーンで明音が謝った。
明音なりの気づかいを垣間見た気がするが、どうせならもっと別の場所に気を使ってやればいいのに。と俺は思った。
「……お願いしますよ本当に」
「ぜーったい言わない。約束する」
明音の言葉を聞いて安心したのか、まだ顔には若干の赤みが残っているが、新人は落ち着きを取り戻しているようだった。
「まったく……用件はそれだけですか? 先輩と違ってこっちはまだやらなきゃいけないこといっぱいあるんで。それでは」
新人は茶化されて少し機嫌を損ねているように見えた。返事も待たずに去ろうとすると、明音が座席から腰をあげて新人を呼び止める。
「たんま! 夏南くん、ちょっとここ座って」
明音は直前まで自分が座ってた席を指差し、新人にそこに座るよう誘導する。
「だからそんな暇ーー」
「今日はもういいよ。お疲れ様っ」
明音は新人の言葉を遮るように声を出すと、着席する新人の両肩をぽんぽんと軽く叩いた。
「え? もういいってどういうことです?」
「朝からずっと頑張ってくれてたし、私もたまには真面目に働かないとなーって」
明音が両手を上に挙げ、大きく伸びをした。胸の辺りのボタンが一つ、弾け飛んだ。
「でも今日は混んでるし、まだ勤務時間が……」
「いいのいいの、店長にもちゃんと融通効かせておくから。それよりも今日はみかどくんの相手してあげて」
「は、はぁ……」
新人が困ったように息を吐いた。
その溜め息には全面的に同意したい。
「俺がいつ相手して欲しいなんて言った」
俺が加勢しようとすると明音はすかさず、「サービスするから」と小さな声で耳打ちしてきた。
改めてサービスをちらつかされた俺は、適当に時間を潰すだけならと、甘んじて今の状況を受け入れる。背に腹は変えられないのだ。
結局俺たちは明音に丸め込まれてしまい、明音以外誰も求めていない奇妙な時間を二人で共有することになった。