予感
空は青く澄み渡っている。雲一つ見当たらない。空高く昇る太陽の日射しが容赦なく降り注ぐ。
強くて眩しい光が風に揺れる葉っぱを緑に彩り、生徒達のシャツを白く輝かせ、地面を熱く照らす。
聞き慣れた学校の鐘が鳴る。
いつもと同じ音なのに、今回のそれはいつもよりも綺麗な音として耳に届く。
おそらく他の生徒達には、今日という一日がそういう風に映っているのだろう。
皆、明日から始まる夏休みに心を踊らせ、普段よりも舞い上がっているように見えた。
人並みの交友関係があれば友人や恋人と街に繰り出し、時には羽目をはずす。そんな夢と希望に溢れた毎日を送るのだろう。
しかし、俺にそんな華やかな未来が用意されているわけもなく、俺自身もそれを期待しなくなっていた。
ただ授業が無くなる。俺にとって夏休みはその程度の物でしかない。
周りの生徒達と同じ物を見て同じ音を聞いても、見えている景色は全く違う。
俺は昨日と同じように鞄を担ぎ、バスに乗って家に帰る。今日も退屈で代わり映えしない、下らない一日を送るはずだった。
「離せよ!」
「なぁ? ちょっとくらいいいじゃねぇか」
「嫌だって言ってんだろ!」
靴を履き替え、ちょうど校舎から出ようとした所でそれは目に入った。
ーーまたかよ。
思わずため息がもれた。
俺が校内で遭遇するイベントの大半は屑みたいな人間が関わっている。今回も例に漏れず、そこの屑達が主役らしい。
どうやら二人組の不良が野球部の少年にたかっているようだった。
野球少年の身長はぱっと見で160くらいか。少年とは言っても、うちの高校のユニフォームを着ているのでおそらく一年生だろう。
対する不良は大きいのと小さいのが一人ずつで、大きい方は大体俺と同じ、180前後はありそうだ。
もう一人はそれよりもだいぶ小さいが、それでも野球少年よりかは大きい。
野球少年も小柄な割には一歩も引いていなかったが、体格差を考えるとどう見ても分が悪そうだった。
普通ならいざこざが起きても、自分から首を突っ込む事はないし、出来ることなら無視をする。昨日と同じように。そうする事が最も自分のためになる事を俺は知っているからだ。
しかし、今回の二人組は校舎の出入口をちょうど塞ぐように立っていた。
わざわざ不良が道を空けるのを待っているのも馬鹿らしい。かといって「ちょっと通して下さい」なんていうお利口さんな話し方も俺は知らない。
俺の取る手段は一つしか無かった。
「邪魔」
こちらに背中を見せて立っている小さい方の不良を、俺は力一杯蹴飛ばした。
身構える間も無く蹴り飛ばされた不良は、操者を失った操り人形のように体をしならせた。そのまま勢い良く前方に飛ぶと頭から地面に突っ込んだ。
「いてぇ!!」
不良は地面にぶつけた頭部を両手で押さえ、ただただのたうちまわった。すでに戦意喪失してるも同然だ。
それを横で見ていた大きい方の不良が鬼のような形相でこちらへ迫ってくる。
「俺の連れに何してくれんだ、てめぇ」
大きい方の不良が顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。唾の飛沫がこちらへ飛んでくる。
「邪魔だったからどいてもらったわ」
「てめぇなめてんのかこら!」
不良は威嚇するように、更に声を張り上げた。俺と不良の顔がじりじりと近づく。お互い目線を一切逸らさない。相手の目は血走っている。鼻息が猛獣のように荒々しい。
無言のにらみ合いがしばらく続く。しかし、相手もなかなか手を出してこなかった。
このまま黙って居ても拉致があかないので俺の方から口火を切った。
「お前の連れ病院に連れて行ってやった方がいいんじゃないか? 苦しそうだぞ」
どうせ大した怪我でない事はわかっているが、相手を煽るにはそれで十分だった。
「あ? てめぇのせいだろ! ぶっ殺してやる!!」
そう言うや否や、不良が殴りかかってきた。
激昂した人間の攻撃ほど見切りやすい物はない。振りは大振り、かつ、狙いは決まって相手の顔。
来る。
俺が素早く身を屈めると、見事に不良の拳が空を切った。
予測通り攻撃を避けた俺は、無防備になった相手の顔めがけて渾身の一撃を打ち込む。
そして響く鈍い音。拳に伝わる硬い感触。
俺の拳は相手の顎を完璧に捉えていた。
不良が正面からぶっ倒れる。地面に突っ伏して、そのままピクリともしなくなった。
完全に意識が飛んでいるようだ。もしかしたら相手の骨に軽いヒビくらいは入ったかもしれない。
一応相手の怪我の具合を想像してみるが、助けるつもりは全くない。不良がこのままどうなろうと俺にとってはどうでもいい。死んでなければいつか目を覚ますだろう。
俺が倒れた不良から視線を外すと、事の成り行きを横で見守っていた少年が目に入った。
その少年は目の前で起きた事に特別動揺する様子もなく、倒れた不良を見ながら「あらら」なんて間抜けた事を口にした。絡まれていた割にずいぶんと呑気なもんだな、と俺は思った。
少年はすぐにこちらに体を向けた。少年は綺麗な顔をしていた。
「助かったよ! ありがと」
俺に向かってペコリと頭を下げて礼を言った。それは見方によっては、ぞんざいとも洗練されているとも取れるような運動部特有のお辞儀だった。
「別にこれくらいーー」と俺は応えようとしたが、少年はすでに背中を見せて走り出していた。
初めからたいそうな礼を期待していたわけではなかったが、こうもあっさりしていると少々物足りなさも感じた。
しかし、少年も相当急いでいたらしく去り際にバックの隙間から何か落としたが、それにも気づいていないようだった。
それはころころと転がって俺の靴にぶつかる。野球のボールだった。
ボールなんてしばらく触って無い。二度と手にする事も無いと思っていた。
それを拾い上げ、感触を確かめるように手の中で転がす。ボールを握る指に自然と力がこもる。力の赴くままどこか遠くに投げたら気持ちいいだろうな、と思った。指が無意識に縫い目を探し始める。
その時、ボールの表面に赤い刺繍が施されているのが目に入った。普通は消耗品であるボールに刺繍なんか施さない。刺繍の文字は筆記体で書かれていて、よくわからなかった。
表面を覆う革も少し黄ばんでいて、全体に擦れたような傷がいくつも刻み込まれてはいるものの、目立った汚れは無かった。
よく手入れをしているのだろう。年季の割には綺麗な状態が保たれていた。
どう考えてもこれは普通のボールではないと感じた。ついさっきこれを落としていった少年は、このボールに対して何か特別な思い入れがあるに違いないと思った。
俺は厄介な物を拾ってしまった気がした。見た目はただの黄ばんだボールなのに、このボールにはそれ以上の存在感があった。ただのボールなら俺も適当に投げ捨てていただろう。
しかし、俺は触れてしまった。
この黄ばんだボールへ向けられた持ち主の特別な思いに。そして、いつのまにか忘れ去られようとしていた自分の思いに。
放っておく事はできなかった。
次の瞬間には、俺はそのボールを鞄に突っ込んでいた。渡すだけだ。渡したらきっぱりこの事は忘れよう。
俺は再び会えるともわからない少年のためにボールを家まで持ち帰ることにした。