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カミングアウトは必要ない  作者: 冬通 すばる
16/16

距離

 あの日、家に帰ってからも、俺はしばらくもやもやした感情を抱えていた。コンビニで買った弁当は味がしなかったし、テレビをつけても内容がまるで頭に入ってこなかった。

 自分は怒るべきではなかったのか、そもそも何に対して怒りを覚えていたのか。自分を責めたり、夏南を責めたり、反省したり、開き直ったり、色々な感情が頭の中をぐるぐると周り続けていた。

 しかし、それも一晩寝るとすっかり消えていた。自分の中で混在していたあらゆる感情はただ一つの思いに変わっていた。

 夏南に謝りたい。

 あの時の俺は明らかに冷静さを欠いていたし、夏南にとってのせっかくの休日を最後の最後で台無しにしてしまった事を謝りたかった。


 しかし、あれからすでに五日が経とうとしているのに夏南とは一度も会話できていない。喧嘩した翌朝には電話をかけたが夏南は出なかった。その翌日、翌々日も夏南が電話に出ることはなかった。当然、向こうからの連絡も一度も無い。俺が謝りたくてもそれすら許されない状況だった。


 最初は罪悪感しか無かったのだが、ここまで徹底した態度を取られるとさすがに俺も納得できなくなっていた。

 そんなに怒るようなことだったか? 小さな事にいつまでも腹を立てすぎじゃないか? いつまで意地を張るつもりだ? それでもやはり連絡は取れない。

 いい加減、気が滅入ってきた俺は少し気分転換をしたくなった。初めはほんの出来心だった。


「確かこの辺に入れたはずなんだが」


 部屋の隅に置かれた机の一番下の引き出しを開けると、それを見つけた。それは以前おじさんから貰った封筒だった。


 俺は封筒の口を開いて逆さに持つと、小刻みに揺らして中身を取り出した。

 封筒からは一万円札が数枚と、ジッパーのついたビニール製の小さな袋が出てきた。その小さな袋の中身こそがおじさんの言う「いつもの」だった。

 小さな袋と一万円札を一枚だけ手元に残して、残りは封筒に戻す。ビニールの袋を手に取り中身を確認すると、その中には小豆ほどの大きさをした白い錠剤のような物が一粒入っていた。

 この白い粒の正体を正確には知らないがどんな物なのかは大体聞いていた。


 袋からそれを取りだしてテーブルの上に置く。横にあったペン入れからプラスチック定規をとりだし、錠剤が粉々になるまですり潰す。それは五分もしないうちに、だま一つない綺麗な粉末状になった。


 テーブルの上に散らばった粉を定規を使ってかき集める。初めは右から、次は左から、外側から中央に向かって少しずつ寄せていく。

 かき集められていく白い粉が、次第に一本の直線を描き出した。そして、さっきの一万円札を手に取って筒状に丸める。


 準備は整った。


 今から自分が体験する未知の世界を想像すると、胸が高鳴る。心臓の鼓動が体の内側から聞こえてきた。


 人差し指で片方の小鼻をしっかりと押さえ、空いている方の鼻の穴には筒状にした一万円札を入れる。その先端を白い粉が描く直線の端に合わせると一気にそれを吸い込んでいく。

鼻の粘膜にひやりとした粉末が付着していくのがわかった。若干むずむずしてくしゃみをしたくなったが我慢した。


 それは五分ほどで効いてきたようだった。

 視界がぼんやりして、瞼が重くなる。全身の力が抜け、体がソファーに溶けていくような感覚。そのままどこまでも沈んでいくような気がした。その感覚は俺から思考力を少しずつ奪っていった。

 視線は天井を捉えているが、俺の目は何も見ていない。外を走る車の音や騒々しいセミの声が徐々に遠のいていく。口の端からは生温い液体がこぼれ出た。


 しばらくの間、無音の世界を一人で満喫していると、突然、俺の意識を現実に引き戻す音が鳴った。携帯の着信音だった。体を起こすのがだるい。首だけ動かしてなんとか画面を覗きこむ。

 着信画面にはーー星野 夏南の文字。

 まさかその電話が夏南からのものだとは考えてもみなかった。他の誰かなら確実に無視するところだったが相手が夏南なら話は別だ。どうしてこんな時に、なんて考える余地も無い。コールが鳴りやまない内に出なければ。

 緩んだ思考と気だるい体にムチを打ち、なんとか携帯を手に取る。


「……久しぶり」


 夏南が気まずそうに言った。


「ひさしぶり」

「ずっと連絡しなくてごめん」

「……ごめん?」


 なぜ謝るんだ? 俺はもやのかかったように不明瞭な思考をなんとか働かせる。

……ああ。そういえば喧嘩してたんだっけ。そんな事はもうどうでもいい。今俺はすごく気分がいいんだ。


「……もしかして、まだ怒ってたりする?」


 控えめで後ろめたさを感じているような声色。上目遣いでこちらの様子を伺う夏南の表情が容易に想像できる。早く夏南と会いたい。


「おこってるわけないじゃないか」

「それならよかった……。あれから僕も色々考えたんだけどね、元を辿ればユーキ"さん"の話ちゃんと説明してなかった僕も悪かったなぁって。最初聞かれた時に『内緒』なんて調子乗ってないで、ちゃんと答えてればこんな事にはなってないだろうしーー」


 そんなにいっぺんに喋らないでくれ。よくわからない。


「だからもうそんなのいいんだって。それよりもっとたのしい話しようぜ。楽しいはなし」

「そ、そうだね。いつまでも引っ張ってごめんね」


 素直でいいやつだ。


「おれはなぁ、いままで生きてきたなかで今がいちばん気分がいいんだ。理由はまぁいろいろあるんだが、とにかく今だったら空も飛べるはずなんだ」


「なにそれ。スピッツ?」


 夏南がクスクスと笑っている。かわいい顔して笑ってるんだろうな。電話越しなのがもったいないくらいだ。


「とにかくさいこうの気分なんだよ。わかるか?」

「全然わかんないよ。何かあったの?」

「いちばんは夏南がでんわしてくれたこと。ほかにもまぁ理由はいろいろあってだな」


 本当に気分がいい。この気持ちを夏南にも教えてやりたい。


「そうだ、今からうちこいよ。いいもの見せてやる」

「今から? もう夜遅いのに……」

「せっかく仲なおりできたんだから少しくらいいいだろ?」

「もう……。わかったよ。すぐ行くからちょっと待ってて」


 夏南はそう言って電話を切った。

 心なしか夏南も嬉しそうだった気がする。いや、少しめんどくさそうだったかも。でもどっちでもいいか。あと少しで夏南がうちに来てくれるのだから。



 思考を放棄してぼーっとしていると玄関のチャイムが鳴った。


「あいてるぞ」


 ソファーから一歩も動かず俺は叫ぶ。

 その声に応じるように夏南が入ってきた。


「お邪魔しまーす」


 久しぶりに見る夏南の格好は簡単なTシャツに下はジャージという、いかにも部屋着といった服装だった。


「よう」

「よう、じゃないよ全く……。急に呼び出されるこっちの身にもなって欲しいよ」

「まあいいからすわれって」


 俺が席をあけるためにソファーの片側に寄ると夏南は隣に座った。隣に座る夏南からはシャンプーの香りがした。


「お前いい匂いするな」

「お風呂入ったばっかだったんだもん。いきなり呼び出されるなんて思ってなかったし。それで、良いものって何?」

「ああ、そうだったな。ちょっと待ってろ」


 俺は重い腰を上げて引き出しを漁った。

 そこから封筒を一つ取り出して再びソファーに座る。さっきの封筒と中身は同じだ。俺はそれをテーブルの上に置いた。


「なにこれ?」

「それお前にやるよ」


 夏南が封筒の中をちらっ覗いた後、こちらに顔を向けて苦笑いを浮かべた。


「お金?」

「ああ、それもやる」


 元々、お金を渡したかったわけではないが面倒なので適当に答えた。


「いや、お金なんて貰えないって」


 夏南が封筒を突き返してくる。余計めんどくさくなってきた。今はお金なんてどうでもいいのに。


「いいから。そんなことより中もちゃんと見てくれ」

「中?」


 夏南が封筒を逆さにすると「いつもの」が中から滑り落ちてきた。


「なにこれ」


 夏南が怪しい物でも見るかのような目つきをした。


「ラムネ」


 冗談っぽく答えたつもりが、自分で可笑しくなって笑ってしまった。それを見て夏南が顔をひきつらせる。それが余計に俺は可笑しかった。


「みかど……変だよ。大丈夫?」

「ラムネなわけねーじゃん。あっはっは」


 気分が良すぎて笑いが止まらない。しかし夏南は怪訝な表情をさらに強めた。

 俺は目に浮かんだ涙を拭きながら、なんとか笑うのを堪えて真面目に答えた。


「……それはなぁ、おじさんに貰ったんだよ」

「おじさんって?」

「俺を援助してくれるおじさんだ。おじさんはお金をいっぱい持っててすごいんだぞ?」

「何の話してるのか全然わかんないんだけど……」


 何かを感じとったのか夏南が立ち上がろうとする。俺は夏南の腕を掴んでそれを阻止した。


「ちょっと痛い……離して」

「久しぶりに会えたんだからもう少し居てくれよ」

「帰る! ラリってるなんて聞いてない!」


 夏南は精一杯の力で振りほどこうとするが俺も離す気は無かった。素早く夏南の肩を掴んでその小さな身体をこちらに引き寄せた。


「お前、本当綺麗な顔してるよ」


 夏南の顎を掴んで無理矢理こちらを向かせる。俺は夏南の顔の、特に色鮮やかな部分に目を奪われていた。


「ちょっとま……んんっ!?」


 夏南が言い終える前に俺は唇を奪った。それは驚くほど柔らかかった。

 夏南はすぐに唇を強く結んだが、俺は構わずその行為を続けた。それはキスをするというより貪るといった方が正確かもしれない。

 夏南の小さな身体が俺の腕の中でじたばたする。結構な力でもがいていたが、俺と夏南の体格差を考えると逃げれるわけが無かった。もとより俺も逃がすつもりは無い。

 しかし、じたばたもがくせいで一瞬口が離れた。


「……やめて」


 その隙に夏南ははっきりと拒否の意思を口にしたが、俺にはもう夏南の意思は関係無かった。

 再び夏南の口に蓋をすると、そのままのしかかるようにしてソファーに押し倒した。


 身動きが取れないよう、体全体を押し付けながら夏南のシャツを少しずつまくりあげていく。夏南のお腹に直接指が触れると、ほんのりと熱を帯びていて指でなぞるだけでも気持ち良かった。

 その間も、夏南はどうにかして抜け出そうとしたが、そのたびに俺は腕を使って態勢を立て直した。


「……んんっ!」


 夏南が何か訴えているが、その声は直接俺に吸い込まれる。俺はその隙に夏南の口に無理矢理舌を滑り込ませようとしたがそれは阻まれた。そのせいか余計に抵抗が強くなった。


 体で拒否反応を示すように、全身のバネを使って俺を跳ね除けようとする。ソファーが激しく軋む音を立てる。その音と、俺の下で躍動的に跳ねるその肉体が更に俺の征服欲を駆り立てた。


ーー俺だけの物にしたい。


 夏南の両腕を強引に万歳するような形にさせてそれを押さえつける。左手一本で両手首を握り、自由になった右手でゆっくりと夏南の身体を堪能する。

 夏南の体は薄い布地の上から撫で回してもわかるほど健康的な肉付きをしていた。硬過ぎず柔らか過ぎず。腕、わき、胸、おなか、感触を確かめるように優しく順番に撫でていく。

 途中、若干の違和感を感じたが俺は気にも止めなかった。目の前の体を貪るのに必死だった。

 手を徐々に下へと滑らせていくと、ついに下着に指が触れた。肌よりもずっと物質的なそれも夏南の一部に思えて愛おしかった。俺は高ぶる鼓動を落ち着かせるように下着のふちを何度もしつこくなぞる。


 そして、いよいよ下着の中に指を滑り込ませようとした瞬間、俺の唇に激痛が走った。


「痛っ!」


 予想外の激痛で咄嗟に体を起こす。そのまま下から跳ねのけられるようにして俺はソファーの肘置きの方から地面に落ちた。


 後頭部を地面にぶつけた衝撃で俺は初めて我に帰った。しかし、その時にはもう遅かった。


 力なく上半身を起こした夏南は、肩を震わせながら静かに泣いていた。


 夏南は明らかに嫌がっていた。それをわかっていたはずなのに、それでも自分を抑える事ができなかった。気づいたら俺は夏南を襲っていた。

 再び近づきかけていた心の距離が急速に離れていくのを感じた。同時にその距離が二度と縮まる事はないと確信した。


「夏南……」


 謝ろうと声をかけるもその後に続く言葉が見つからない。夏南が俺の呼びかけに応えるわけも無く、俺と目を合わせようともしない。

 ゆっくりと立ち上がった夏南は乱れた衣服を整えながら、俺の横を静かに通り過ぎてゆく。こちらを振り返る事は一度もない。そのまま扉の前まで行った夏南が最後にポツリと呟いた。


「……最低だよ」


 それだけを言い残して夏南は部屋から出ていった。

 俺は何と声をかければいいのか、わからなかった。

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