双子の妹が増えました
白いテーブルクロスの上に、ご馳走が並んでいる。甘いと評判のホカホカカボチャの果肉を丹念に練り、漉して魚介ベースのダシに絡ませたスープ。焼きたてのクロワッサン。甘ネギと甘エビのチーズ風味グラタン。
全て、兄に食べてもらおうと作ったものだった。
沙夜香は――。
「にいさま、今日は遅いのね」
食卓で一人、兄を待っている。
帰りが遅いのは何か理由があるのだろう。心配はさほどしていなかった。晶に身の危険があるのならば、胸騒ぎが教えてくれる。科学的な根拠はない。けれどそれは確信だった。
「お料理よし、お風呂の準備よし、洗濯物の仕込みよし。ベッドメイクよし」
とりあえず今日一日の工程を確認し、沙夜香はにまにまと微笑んだ。
毎日家にいて、晶の身の回りのお世話をしている、できている事が誇らしく、うれしい。
異世界の国の生活である。
そこには炊飯器も洗濯機も自動お湯張り機能のついたお風呂もない。もちろんテレビもパソコンもスマホもない。連絡の手段は手紙であるし、交通手段は魔法のほうきか馬である。冷蔵庫のようなものはあるが、買い付けられる魚の鮮度が悪くすぐに腐るのが困りものだ。ついでに言えば電灯もない。
食材は調達した。風呂の準備や煮炊きに必要な薪は昼間のうちにたくさん補充しておいた。洗濯物は全て手洗いだ。シルヴィアという名前の日雇いのメイドさんに手伝ってもらいつつ、三時間ほどかけて汚れを落とした。
料理は得意だが、洗い物は苦手だ。
石けんをつけて洗おうとして、大好きな兄のシャツをとると、うっとりと抱きしめてしまう。
吸い寄せられるように、襟元のあたりに鼻をうずめてしまう。
晶の汗の匂いがする。
沙夜香が世界で一番好きな匂いだ。
「にいさま……」
胸が温かくなり、心臓が鼓動を早めながら甘くうずく。
なぜだろう。そういう時は決まってお腹の下の方がキュンキュンとし、自分で自分を持て余してしまう。具体的に言うと、晶に抱きついて頭を撫でてもらってその後胸を押しつけてどぎまぎする彼の反応を見ながら頬と言わず首筋と言わずところ構わずキスをしたくなってしまう。いちゃいちゃしたい。そう言えば唇にキスをするのはイギリスでは親しい家族同士でも挨拶であるしセーフですよね。ああ、にいさまの匂い大好き。そう思って抱きついているとにいさまの熱い視線が胸元に注がれて。ダメですにいさま。そこは結婚してから。ああでも、恥ずかしいけど胸もたくさん見て欲しいし触ってもいいの、にいさまなら。にいさま好き。大好き……。
「はっ」
視線を感じてそちらの方を見ると、シルヴィアが不思議そうな顔をしていた。
「ごめんなさい何でもありませんから気にしないで下さい」
沙夜香は営業スマイルを浮かべつつ言った。
もったいないと思いつつ、晶の汗を吸い込んだシャツを石けん水につけて、ごしごしと洗濯板でこする。
汗と泥のついたシャツ、ズボン、下着。それぞれを洗う。次にベッドのシーツ。これもがんばって洗う。
全てが手作業なので冷たいやら手があれるやらで大変だが――。
シルヴィアは治癒呪文を使えるのであかぎれや手荒れくらいは簡単に直してくれる。有能である。
洗濯、干して、乾かし、取り込む。食事の準備に部屋の掃除、買出し。お風呂の準備。
一日が過ぎてゆく。
仕事に追われて退屈する暇がない。それは王室の一角で因習としつけにうずもれていた沙夜香にとって、新鮮であった。
誰かに怒られないためや、誰かの見栄を満足させるためではない。誰かがやらなければならない、誰の為でもない自分の為にしなければならないという納得がそこにある。
何より沙夜香にとって、大好きな兄の身の回りの世話をできることが、
「しあわせ……」
なことであった。
それにしても今日の晶は、帰ってくるのが遅い。
「お料理、暖めなおしたほうがいいかな……あ、でもお風呂に先に入ったらまた冷えるかな」
ろうそくの明かりに照らされながら、彼を待つ。
「……」
突然。
すっと、沙夜香の瞳が薄い三日月のように細められた。
黒瞳に浮かんだ眼光が、剣呑なものを宿している。
しかしそれも一瞬の事。
「来たのね、綾香」
元のおっとりとした顔になり、少女は呟いた。
「ご飯を一人分追加しないと」
呟いて、楽しげに鼻歌を奏でた。
***
沙夜香・フェリシア・アークライト。
それが九条晶の妹である沙夜香のフルネームで、王族にまつわる複雑な血縁関係と家庭環境から、晶とは苗字が違っていた。
そんな沙夜香には妹がいる。
顔のつくりも歳も同じ一卵性の双子で、名前を綾香・ヴァイオレット・アークライトという。
この妹、少しおかしい。
どこがおかしいかというと、モノの考え方が少々おかしい。頭が悪いわけでも空気が読めないわけでもない。むしろ社交能力が高く、素直でからりとした性格でしかも優しく、誰と接しても好感を持たれるタイプである。しかしある状況下において、彼女の言動はおかしくなってしまう。
綾香は兄の晶と一緒にいる時。それまでの利発さや社交能力がどこかへ胡散してしまい、単なる、というか極度の甘えん坊の小娘に成り下がる。
つまり綾香は、重度のブラコンであった。沙夜香以上の。
「ここは……」
日が、暮れようとしている。
赤々とした夕焼けに照らされながら、綾香は立ち尽くした。
彼方には街があり、もう一方の彼方には何もない。草の生えていないだけの一本の道が、ずっと続いていた。地平線が見えるほどに周囲が開け、どこかからか狼らしきうなり声が聞こえてくる。
初めて見る景色。土の匂いも、故郷や日本のものとはどこか違う。
「さやちゃん、ここにいるのね……」
姉の愛称を、綾香は呟いた。
この世界のどこかに双子の姉、沙夜香がいる。それもあまり遠くはない場所に。
直感であった。科学的根拠はない。けれど何故か、血を分けた姉の居場所が綾香には分かる。昔からそうだった。
姉は大丈夫だろうか。
頼りになる兄と一緒ならばきっと楽しく過ごしているのだろうが、そうでなければ悲惨な生活を送っているはずだ。か弱い、十四歳の中学生である。兄がいなくとも誰かパトロンを見つけていればいいが、この世界の治安によっては最悪、娼婦に身を落しかねない危険がある。
「それは私も同じですかね」
わが身の危うさに気づき、綾香は身震いした。
何もない平野が続く風景から察するに、電灯がない。つまり電気がいき渡ってない世界のようだ。ひょっとしたら発電所すらないのかもしれない。
単純に未開の地域なのか、それともそういう時代なのか。
治安がどの程度かは分からないが日本の水準は期待できないであろう。人さらいがいるかもしれない。財布は持っているが、カードや通貨はきっと使えない。日が暮れかけている。夜になればさらに危険度は増す。さてどうするか。
決まっている。
「姉様のところへ行こう」
苦境にいるのなら助けなければならない。逆に、生活を成り立たせているのなら自分も厄介になろう。
願わくばこの世界に兄様がいればいいのだけれど。そうでなければ、先にこの地に来て今まで暮らしてきた姉様が可哀想だ。
歩き出した。
姉は彼方にある街の中にいる。
一時間以上も歩いた頃だろうか。
街をぐるりと覆う壁が近づき、背丈を越える高さにある門を見上げるほどの距離になった時。
むわつく臭気が、鼻についた。
ひどく吐き気を催す汗と垢の臭い。
男が、男たちが近づいてきている。顔つきも悪ければ身なりも悪い、よれよれですり切れた服を着て、いかにも危なそうな集団だった。
明らかに、こちらに向かってきている。
ぞっとした。
きびすを返し、綾香は走った。捕まったら何をされるか分からない。
男たちが下卑た歓声をたてながら、彼女を追いかけた。
***
それから起こった事を、綾香は十年先も忘れはしないだろう。
「何してるんだお前ら!」
叱咤する声。男の声だ。少女がよく知っている人の声だ。
「兄様!」
綾香は叫んだ。晶だ。
彼は馬に乗っていた。一人ではない。同じく馬に乗った女の人が四人、彼と一緒にいた。
「斬撃」
「射撃」
胸元の露出した、奇妙な鎧を着けた女達が何か言い。
「ぎゃっ」
「いでっ」
綾香を取り囲んでいた男達がおめき声をあげた。
ある者は腕を切り落され、別のある者はわき腹を射抜かれていた。
「騎士団だ!」
「逃げろ!」
男たちが言った。
「団長、どうします?」
頭に獣の耳のようなものがついた女――獣人クォーターのローズマリーが尋ね。
「全員殺せ。どうせ生きていてもろくな事はせん連中だ」
怜悧な瞳で夜盗を見つめ、サフィーリアは言った。
二十分後――。
「……」
そこには、馬上で兄の背中に抱きつく綾香の姿があった。
身体が震えている。
夜盗の連中はほとんどがサフィーリア達に屠られ、残った者も重傷を負って逃げていった。おそらくは助からないだろう。
綾香は喋らなかった。
晶は剣を振るっていない。けれども夜盗を蹴散らす事を止めようとはしなかった。
そういう事なのだろう。
先ほどの光景、それに何のためらいもなく殺せと命令した女騎士、それを実行した部下たち。そんな中、晶は狼狽せずに綾香の下へ行き、一言、「見るな」と言った。
ここはそういう世界なのだ。
街の中に入り、馬を降り、鎧を脱ぎ捨ててコートを羽織る。
「彼女は、沙夜香殿ではないのか?」
サフィーリアが聞いた。
「沙夜香の双子の妹だ。綾香という」
「そういうことか」
「とりあえず今日はお開きにしてくれませんか?」
晶が言った。
サフィーリアは、心細げに晶の手を握る少女をちらりと見た。
「了解した。明日はダンジョン探索を中止しよう。新たな過客が来られたとなれば能力の検査もせねばならんし、異世界の話も聞かせてもらいたい」
「わかりました。何時にどこへ行けば?」
「昼食後の十三時に私が伺おう」
「了解、団長」
「では」と、サフィーリア。
「さようなら、晶」と、ローズマリー。頭の上の獣耳がぴこぴこと揺れている。
「坊や、また会いましょうね」と、腕を組み、胸元を強調するような格好でオリヴィア。
「晶さん、夜道にお気をつけください」と、人懐っこい笑顔を浮かべながらジェシカ。
敬礼をして騎士の面々と別れ。
「こっちだよ」
馬を馬屋に預け、行灯を借りて歩き始める。
「あの人達は?」
「騎士団の人たち。お兄ちゃんもそこで働かせてもらっている。仕事はダンジョンの探索がメインで、たまに街を巡回して警備もする。今日はダンジョン探索の帰り道だった」
「ダンジョン探索?」
「ああ。迷宮に入って珍しいアイテムを掘り出す仕事だ。わりと給料がいいんだこれが」
「沙夜香もそのお仕事を?」
「いや。沙夜香は家事を任せている」
「家事、料理も?」
「ああ。沙夜香の作るご飯はおいしいぞ」
「え、え? まさかあの姉様が?」
「帰ったら夕食の支度ができて――あ、急いだほうがいいな。待ってるだろうから」
そんな調子で、話しながら二人は帰宅した。
「お帰りなさい、お兄様、あやちゃん」
「さやちゃん!」
ひし、と双子の姉妹は互いの身体を抱きしめあい。
「兄様に手を出した?」
「いいえ。身の回りのお世話と、毎日一緒にお風呂に入っているだけですよ」
「うらやまけしからないわね」
兄に聞こえぬように囁きをかわした。
「お兄様、ご飯にします? お風呂にします?」
沙夜香がたずねた。
食卓から、スープのいい香りがする。
「兄様、わたくしは兄様と一緒にお風呂に入りたいです。沙夜香だけなんてずるいですわ」
毅然とした声音で綾香が言い。
「じゃあ風呂に先に入るか」
何事もないかのように晶が言った。
この夜。
兄と兄が好きすぎる双子の妹は一緒にお風呂に入るのだが。
それは次回の話である。