晶と風呂(後編)
異世界であろうが現世界であろうが、人間が人間である限り、小狡い人間は一定の割合で産まれてくる。そういう人間が権力を持ち、金を持ち、社会から制裁を受けないやり方を学習したとき、奴隷と支配者とが出来上がる。
『お前は私 (たち)の命令を、心の底からやりたいと思い、率先して実行する人間でなければならない』
奴隷はそういう風に躾けられる。
サービス残業の時間の長さを誇る会社員や、文明の利器がなかったころの生活の不便さを誇らしげに語る先人たちも、そういう教育を受けた者は数多い。ようは程度の問題で、この物語の主人公である晶が受けた躾は肉体と精神とを切り刻むような拷問だった。
「うぐ……」
吐き気が止まらない。晶は口元を押さえた。
何のへんてつもない風呂場。沸かした湯がゆらゆら揺れる水面を見つめるだけで、胃がぎゅっと締め付けられるような不快感に襲われる。
罰を与えられて育ってきた。理不尽に。何度も。理不尽に。大した意味もなく。
それでも、マシな方だったのだろう。
彼は手をかけ金を使って付加価値を高めた商品だったので、目に見える外傷は与えられなかった。麻薬めいた薬で壊されもしなかった。
躾けは、水責めと電気が主体だった。
粗相をしたら、水が張った風呂に顔を突っ込まされて、力づくで抑えられた。人の尻から出る汚物の浮かんだそれをやられたこともある。
みじめで、苦しくて、死ぬのが怖くて、そして何より、謝っても許してはくれなかった。今なら分かる。アレは謝罪させることが目的なのではなく、彼の心を折って従順な人間を作ることが目的だった。
いつ頃からだろうか。一人で風呂に入れなくなったのは。
世話役のお姉さんが、落札されて傍からいなくなった頃だろうか。
それとも、同様の躾を受けた弟が誤って帰らぬ人となった時だったのだろうか。
晶にはわからなかった。気づいたら彼の身体はそうなっていて、沙夜香や綾香や、その他の姉妹の献身が彼の心の救いだった。
彼女たちの誰か一人とでも一緒にいる時は、不思議に吐き気は起こらなかった。
このままでいいだろう、と、思わないわけでもない。
自分は妹たちの事が好きで、妹たちも自分の事が好きだった。誰に強制されてやっているわけでもない。好きでやっていることだ。元いた世界で傷口を舐めあうように身を寄せるのとは違うと。
このままでいけない、という気持ちが日に日に募っていった。
晶の交友関係はただれている。妹たちには手を出していないが、サフィーリアを、オリヴィエを、ジェシカを抱いている。ローズマリーに手を出すのも時間の問題だろう。そのことに対して何ら後悔はしていないし反省をするつもりもない。人生を十回やり直せるならば十回とも同じことをする。
が――。
その後始末を、女の残り香や身体についた痕跡を、妹たちに処理させるのは心が痛む。
それでもなお、妹たちは彼を信頼し愛してくれている。何があっても、沙夜香と綾香は彼を受け入れるだろう。彼が同じように、何があっても沙夜香と綾香を受け入れるように。
だからこそ、罪悪感が層倍にあった。
(だからこれは、どこまで行っても――)
額ににじんだあぶら汗を、晶は手でぬぐった。
水面に手をやると、湯の温度を確認する。少し熱いが、火傷するほどではない。
(僕の自己満足だ……!)
桶をつかんで湯をすくうと、晶は身体にかけた。
***
同時刻。
とある邸宅の食堂。
「相変わらず少食だな」
目の前に座る、黒髪を前髪で切りそろえた修道女。その取り皿の中身を見て、サフィーリアはつぶやいた。
修道女――ジェシカはわずかに肩をすくめる。
「団長の食べる量が異常なんです」
「運動の後はこの程度は普通だ」
四人前が盛られたパスタの大皿を前に、悪びれることなくサフィーリアは言った。
「私とマリーの魔力は使えば使うほど腹がすくからな。精神を削るジェシカ殿のものとは質が違う」
フォークを優雅に使い、サフィーリアは口にパスタを運んでいく。付け合わせのサラダとハムもかなりの量だ。
「それは分かりますが。マリーさん、団長と同じだけ食べているのになぜ胸につかないのかと嘆いておりました」
たわわに実ったサフィーリアの胸元を見て、ジェシカ。
「ふふ。あの男嫌いが、色気づいたものだ」
「……」
「何だ」
「いえ。急に鏡を見せたくなって」
「ジェシカ殿までいじめてくれないでもらいたいな。その件で昼に姫殿下にからかわれたばかりだ」
「ああ、やっぱり知られていましたか」
「私のことはどうでもいいが、アキラ殿についてご興味がおありのようだった。敵かそうでないか、手駒として御しきれるかを知りたいらしい。私の推測だがな」
「あの姫様の性格ならそう考えるでしょうね」
「アキラ殿の様子はどうだ?」
口には出さぬが、ジェシカが晶へ定期的にカウンセリングを実施していることを、サフィーリアは把握していた。
「彼は、頑張り屋さんですね」
「そうか」
「こうと決めたら、死ぬまで頑張る危うさがあります」
「知っている。戦士としては無能だ」
「団長……」
とがめるような視線をジェシカは送った。
「撤回するつもりはない。前線で自分の限界を超えたことをやろうとする奴は総じて無能だ。英雄的な行為はけっこうだが、それで死ぬような奴を私は評価せん。絶対にな。団長である私がそれを評価するようになってしまったら、無謀な作戦を立てたあげくに部下に死ねと命ずる日が来る。名誉や名声では人は生き返らん」
「そういう風に割り切れるのは、団長と姫様だけでしょう」
「ああ。言い方が悪かったか。すまない」
謝罪の言葉に、ジェシカは少し驚いた。半年も前の、晶と出会う前のサフィーリアならば、自分は何も悪くないという姿勢を崩さなかった。少なくともジェシカの知る彼女はそういう女だった。
「アキラ殿の姿勢は認める。個人的には微笑ましいとも思う。しかし個人的な感想と団長としての評価基準は別なものだ」
「すみません。私も少し感情的になったみたいで」
「ふ。好きな相手には冷静さを失うようだな。私も、ジェシカ殿も」
「……」
変わりましたね、という言葉を、ジェシカは口に出しかけてやめた。
「本題に移ろう。姫殿下がアキラ殿と会いたがっている。アキラ殿があの姫殿下と会ったらどうなると思う?」
「勧めかねます。アキラさんは、初対面の人には本音を見せませんから」
「本音を好む姫殿下の猜疑心を駆り立てる、か」
「ええ」
「さりとて姫殿下相手にノーガードで本心をさらけ出せ、とも言えぬしな」
晶の倫理観や貞操観念は独特のものだ。男性経験がなく、高潔なところがある武闘派のグローリアにいらぬ誤解を抱かせかねない。
「姫様に自白剤を盛られる危険がありますね」
「……嫌な事を思い出させてくれる」
サフィーリアは苦い顔をした。
「アキラさんの、妹さん達を同席させてはいかがでしょうか」
「二人ともか?」
「ええ。サヤカさんの方は毒を盛られても見抜きますし、アヤカさんの方は魔王に近い素質を持っています。あの姫様ほどの実力なら、間近で二人を見ればうかつに手を出すのは危ういと脅威を感じるでしょう」
「……。ジェシカ殿」
「はい?」
「卿も意外に、考え方がエグいのだな」
「現実派と言ってくださいな」




