張り合い
「今日は酒をもらおうかな」
俺は言った。
「ヒヤですか?」
椎名が聞いた。
「うん、ロックにしてくれる?」
「わかりました~」
椎名は手早くロックグラスに氷を入れ、酒を注いでくれた。
「お、今日は酒行くんだな! なんかあったのか? いつもはビール一本で早々に帰っちまうのに……」
原田さんが言った
「いや、別に何もないですよ。あ、そう言えばこの間、バスの中でのマナー云々の話をされていましたよね? マナーってわけでは無いのですが、今朝ちょっと嫌なことがありましたよ」
そう呟いた。
「どうしたんだい?」
今度は大将は言った。
「バスって複数人が連続して乗り込むとき、ある程度一定のリズムが存在してくるんですよね。ところが、途中、バスカードの乗客がいると、明らかにそのリズムが狂ってしまうんですよ。何て言うか……、ワンテンポ遅いんですよね。カードが出てくるのが。で、今朝そのリズムチェンジに体が追いつかなくって、前の人にぶつかってしまいましてね……」
俺は続けた。
「勿論、すぐに謝りましたけど、相手が結構年配のおばさんで……。その視線が『何、私の体に触れているのよ!』って感じでキッと睨むんですよ。どちらかと言うと、こっちが被害者だし、失礼だけど、そのおばさんの体には一切興味はないわけで……。でも、一応ぶつかっておいて無視もできないし……。まいりましたよ……何とも言えない気分になっちゃって」
「あっはっは、そりゃあ災難だったな」
大将は笑った。
横から椎名が話し始めた。
「あ、でも、それわかる気がするな。朝の通学ラッシュの時って殆どみんな定期でカードを触れるだけで改札を通過していくけど、たまに切符の人がいたり、カードでエラーが出たりしたら、いきなりそこだけ渋滞になっていたりするもの。急いでいるときは、その人が悪い訳じゃないってわかっていても、ちょっとイライラしちゃいますよね」
「そんなもんなのかねぇ。俺はほとんど電車に乗らないからわからないけど……」
大将は腕組んで言った。
「前はバスの殆どがステップバスだったので、乗降時に基本今より時間がかかったんですが、最近ノンステップバスが多いので、基本、カードかざす人の速度とバスカード入れる人とのリズムの狂いが大きくなるんですよね……」
俺は言った。
「バスに乗る、改札を通るっていうのは、日常生活で毎日のことだから、一連の動作って感じになっていることもあって、そのリズムが急に変わっても対処できないですよね?」
椎名は分かってくれる……。俺は頷いた。
「話は逸れるがね、あのノンステップバスって、座るところやたら少ない気がするのだが……」
今度は横田さんが言った。
「そうそう、しかも、バス後部へ移動するときにはステップ登らないといけないし……、って話がバスの悪口になってきてないか?」
原田さんが笑う。
「あれ、本当だ」
俺は笑った。そしてみんな笑った。平和……。気が付けばおばさんの話は俺の中からも消えている。文字通り笑い飛ばしたようだ。
大将が小鉢を持って俺の前に来た。そして、俺の前に置いた。
「はい」
小鉢の中を覗いてみると、タルタルソースのかかったフライが入っていた。特に何も疑問を持たず食べてみたら白身魚のフライだった。
「美味しいですね」
俺は言った。
「うん、それ、お客さんに材料もらったからサービス。今日釣ってきたんだって。リリースするとダメらしくって。バスの話繋がりで、それ、ブラックバス。白身でさっぱりしていてうまいだろ?」
そう言って、大将はニッコリ笑った。
ありゃ、ブラックバスも今日初めて食べたな。正直魚の味はよくわからんが、タルタルソースが絶妙で、何故か日本酒のロックに合う。
「このタルタルソース……」
言いかけた瞬間、椎名がニッコリ。ああ、そうなのね。腕を上げたな、椎名。
「この間の酢味噌の件から、すっかりハマったようでね……」
大将は笑う。
「だって、あんな風に褒められたら、嬉しいに決まっているじゃないですか!」
椎名は言った。
「でもね、この子案外勘が良くって、何教えても直ぐにできるようになるんだよ。俺の知り合いの居酒屋でも大学生のバイトで、やたら覚えの早いやつがいるって話聞いたことあったけど、こんな感じだったのかなぁって……」
「へぇ……、一度行ってみたいな。その店」
俺は呟いた。
「その学生はもうその店では、働いていないけどね。今じゃ独立して自分で店構えているよ。大したもんだよ。まだ二十代だって話さ」
大将は言った。
「私も尾田さんにもっといろいろ教えてもらって、料理の腕前を磨こうかと思っているんですよ」
椎名が言った。
「良いんじゃないか? 嫁としたって、かあちゃんとしたって、料理が下手だと家族は災難だからな……」
パクッと食べてからオエ~ッってするポーズをしながら原田さんが笑う。そう言えば、原田さんのお母さんは料理下手だったな……。それにしたってオエ~ッって……。どんだけ不味かったんだろうな……。逆にどうやって作るんだ?
「ところで、椎名は誰のためにそんなに張り切っているんだ?」
横田さんがつっこむ。椎名はたちまち真っ赤になる。
「誰って……、別にいませんけど! ただ……、いろんなお客さんに『旨い』って言って頂いたことが、何だかすごくすごく嬉しかったんですよ」
「ふ~ん、確かにこの間の酢味噌は絶品だったが……」
横田さんも納得の様子。
「家では料理しないの?」
俺は聞いた。
「大学に入るまでは実家にいたので、多少時間があるときに母親の手伝いをする程度で……。こっちに来てからは一人暮らしの上に、研究やら何やらで忙しいのと、学食行くと自分で作るよりよほど経済的なんで……」
そうだよなぁ。俺も学生時代は一人暮らししていたけど、基本ワンルームってコンロも一つしかないから、ラーメンか焼きめしくらいしか調理しないんだよな。しかも学食行くと、おかず選び放題だし、安いし……。って今でもそんな感じだけどな……。
「兄ちゃん、料理はできるのかい?」
原田さんは俺に聞いた。
「いや、全然しませんね。学生時代のアルバイトも力仕事ばっかりだったから、調理なんてしたことありませんよ。せいぜいインスタント食品を温めるくらいで……」
「頑張って作っても、一人じゃ味気ないんだよな……」
横田さんが言った。
「それはあると思いますよ。ここなら作った料理……って言ってもソースだけですけど。食べてくれた人から感想を聞けるのがすごく励みになるんですよ」
椎名が言った。
「張り合いがあるってことだな。分かる気がするな……。近所の婆ちゃんに頼まれて、電球一個替えてやっただけでも『ああ、明るくなった……ありがとうね、たーくん』とか言われると嬉しいもんな……」
原田さんが言った。
「そうそう、頑張り甲斐があるんですよ」
椎名が言うと、店にいた人間全員が頷いた。
「不思議なもんだねぇ。誰かに何かもらえると、嬉しいって気持ちになるのは当たり前として、誰かに何かするのも同じように嬉しいものなんだなぁ……」
大将が言った。
「人と人との感謝の交換が楽しいのでしょうね……」
俺は呟いた。
「お! 兄ちゃん、うまいこと言うね! それだ! 間違いない」
原田さんがそう言うと、みんな頷いた。
「その内、椎名の料理も楽しめるようになるのかい?」
横田さんが聞いた。
「あはは、それはかなり先のことになると思います。原田さんに『オエェェッ!』ってされるの怖いですから」
「うわぁ、たーくんのせいで椎名の料理が食べれないのか……」
横田さんが言った。
「そんなことしねぇよ! 何だか俺が悪者になっていないか?」
原田さんが怒っている。
「まあ、それは冗談ですけど……。その位、今の私と尾田さんとの間には差があるって話ですよ」
椎名が言った。
「大丈夫だよ! 大将のレベルは期待していないから」
原田さんが言う。横田さんも頷く。
「あ、何だか火が点いちゃった……。そこまで期待されていないのなら、いっぱい練習して、いつの日か驚くようなのを作ります!」
負けず嫌いの椎名のことだ。きっとあっと言う間に仕上げてくるんだろうな……。
「俺も楽しみにしているよ」
俺がそう言うと、椎名は、力強くコクンと頷いた。
大将は、椎名を見て、ニヤニヤ笑っている……。椎名がそれに気づいてパシパシ……。それを見て、みんなが笑う……。一応この店では、俺はモテキャラの様だ。ま、相対的に見て、一番年も近いしな……。これだけの良い子だし、寧ろ光栄。
今日もこうして和やかな時間は過ぎていった。