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高校野球

「いらっしゃい!」

 いつもの椎名の明るい笑顔と爽やかな声。

 さっきまでどうでもいいことを色々考えていた俺にとって、椎名の声は気持ちをリセットしてくれる。

「お、兄ちゃん!」

 カウンターの隅っこから原田さんが明るく挨拶してくれた。隣の横田さんと月野さんもグラスをひょいと持ち上げて会釈。今日は他にも知らないお客さんが数名いたので、原田さんたちと一緒に並んだ。

「椎名、ビール」

 すぐさま椎名がビールとグラスを運んできた。大将は忙しそうに何かを作っている。


「はい、お待ち!」

 そう言って、大将が原田さんたちに小鉢を一つずつ出した。

「おお! 美味そうだ!」

 横田さんが嬉しそうに一口。続いて月野さんと原田さんもパクリ。三人ともしばらく目を閉じて感動している。よほど美味いものに違いない。ちらりと椎名を見た。

「アン肝の皮和えですよ。評判いいみたいですね」

 椎名が三人の方に視線を移すと、三人全員が箸を持ち上げて絶賛している。美味さを噛みしめているようで、口を開かない。これは間違いなさそうだ……。

「じゃ、俺も」

 それを聞いた椎名が大将を方を見ると、大将は笑顔で頷いた。これで注文が通ったようだ。


「はい、お待ち!」

 間もなく大将が小鉢を俺の前に置いた。早速一口……。あ、美味すぎる……。


 原田さんたちは、高校野球の話に花を咲かせていた。

「いやね、高校生のすることだからいろいろあるのが面白いんだよ。まだ子どもだしな……。たださぁ、ネットとかでやたらひねくれた解釈でテレビとかで取り沙汰された選手とかマネージャーとかを批判するやつがいるよな? 何だ? 『叩く』って言うのか? あの話題が出ると、本当に気分が悪くなるんだよな……」

 原田さんは言った。確かに同じことを感じる。


「それは、私も同感! でも、会社にもいるわよ。何でもかんでもひねくれた解釈する人って。何なんでしょうね。私には意味がわからないんだけど……」

「結局『人とは違う視点』を打ち出して、自分をアピールしたいだけの気がするなぁ」

 横田さんはそう言った。


「兄ちゃんはどう思う?」

 いきなり原田さんが俺に振ってきた。

「俺ですか? 高校野球はあまり見ませんから詳しいことはわかりませんが、攻撃する人って世論や人数や相手の立場で『勝てそう』って思ったら、無差別に攻撃を仕掛けてきますよね?」

「そうなんだよ! 調子に乗りすぎだと思うんだよ!」

 原田さんは憤慨している。


「そんな人、相手にしても仕方がないでしょ……。俺は病気を煩っている人だと思って諦めています。治るまでは仕方がない、って感じですかね……」

「兄ちゃん、随分達観したモノの考え方をするんだな!」

「全然達観してませんよ。でも、こういう話って正直キリが無いので、自分でどこか落とし所を決めているだけです。俺だって、クるものはありますよ。当人はこたえるだろうなぁって……」

「そこなんだよ。犯罪者を叩くんならまだ少しは理解できるけど、相手は一生懸命頑張っている高校生だろ? 子どもだろ? なぜわざわざ叩かないといけないのかって話だよ! まあ、ここで俺が怒ったところで何も変わらないけどな……」

 原田さんの気持ちはよくわかる……。

「いや、たーくんの気持ちはよくわかるよ。俺も同感だからなぁ……。そのひねくれた意見だけど、本気でそう思っている人が世の中にいるってのが、嘆かわしいなぁって……」


「何も変わらないわけでもないですよ。私は原田さんたちが正義感に溢れた正しい人だって再確認ができたんだから」

 月野さんがニッコリ笑った。

「さすがべっぴんさん! 上手い具合に俺の気持ちの落とし所を作ってくれたな? 救われたよ。ぺっぴんさんからの株が上がったんなら、この話はもういいか? 明るい話でもないし……」

「あはは、たーくんを扱わせたら、月野さんが一番かもね」

「すみません。何か偉そうなこと言って……」

「いや、兄ちゃんはそれで良いんだよ。俺と一緒になって怒ってたら、この話は収集付かなくなっちまっていたわな」

 原田さんはそう言って笑った。


 しばらくすると、あれだけ賑やかだったお客さんが一気に勘定を始めた。椎名はレジで対応している。大将も食器を下げるのに忙しそうだ……。


「でも、さっきの考え方は面白いですね。『重い病気』って解釈」

 月野さんは言った。

「小学生くらいのとき、父親に言われたんですよ。小学生の時に、クラスの子に暴言を吐かれたことがありましてね……。それを父親に伝えたんです」

 

「すると父親が言ったんです。『お前は足を怪我した人が、ヨタヨタとコーヒーを運んでいて、お前にそのコーヒーをぶちまけてしまった時、腹が立つか?』と」

 一同頷く。

「まあ、怪我が治るまでは仕方がないですよね。で、父親にそう答えたんですよ。そうしたら、父親がニッコリ笑って、『その子はちょっと言葉の怪我をしているのかもしれないね』と言ったんです。まあ、その時はうまく理解はできなかったですが……」


「なるほどなぁ……。親父さんもなかなか凄い人だな……」

 原田さんは腕組みして言った。

「むしろ『気の毒な人』ってことか」

 横田さんは言った。

「小学生がその理論で怒りを抑えるのはちょっと難しいかもしれないわね……」

 月野さんは言った。他も頷く。

「ええ、俺もその時は怒りを抑えきれなかったんですが、次の日にその子が謝ってきたんですよ」

「怪我が治ったのね?」

「ええ、前の日に父親からさっきの話を聞いていたので、まさにそんな感じでした。だから、謝ってきたときに許す、許さないの話ではなく、『良かったね!』って気分になりましてね……」

「なるほどなぁ。で? スムースに仲直りできたんだな?」

「ええ、その後は高校を卒業するまで仲良しでしたよ。あの時言い返さなくて良かったなぁって思いました」

「いい話だな……。なあ? たーくん。俺たちなんて、いつまで経っても同じことの繰り返しだもんな」

 横田さんは笑った。一緒になって原田さんも笑う。

「原田さんと横田さんはもうこのままでいいんじゃないですか?」

 月野さんが笑った。


「あ、こっち空いたよ。広々使ってよ」

 大将が声をかけてくれた。今日は常連以外の人が沢山いたので、常連は隅っこに固まって飲んでいた。この店の暗黙の了解って言うか、いつも何となくそうなる。このモードに入ると、基本酒瓶がカウンターに一本置かれる。酒は勝手に自分たちで注いで、飲んだ量は自己申告になる。


 俺たちは自分のグラスとアン肝の皿をズルズル滑らせながら、いつもの場所に移動。

「それにしても、このアン肝、本当に美味しいですね」

「ええ、最高! このぷりぷりした皮の触感もたまんない!」


「そりゃぁ良かった。また今度作るよ」

 大将はにっこり笑った。

「ふぅ、洗い物終わりました~」

 椎名の神業食器洗浄を見逃してしまった……。


「椎名! よく頑張っていたからご褒美だ。一緒にビール飲も! 一本持ってこい」

 横田さんが鼻の下を伸ばして椎名に言った。

「やった! すぐにお持ちしますね!」

 そう言って、すぐさまキンキンに冷えたビールとペアグラスを持ってきた。

「あ、これ、前に俺が持ってきた……」

「ええ、お客さんに『一緒に飲もう』って誘って頂いた時用です。と言っても常連さんとだけですけど」

「ということは、俺以外の誰かと……」

 横田さんがそう言うと、椎名はちらりと俺を見た。

「なあんだ。兄ちゃんか。ならいい。これからも遠慮なくどうぞ」

 そう言って横田さんは笑った。


「誰だったらダメだったんですか?」

 月野さんが聞いた。

「いや、誰でもいいんだけどね……」

「なんだ? そりゃ」

 横田さんの言葉に原田さんが笑った。やはりこの店は笑い声が響くのがよく似合う。

「大将も一杯どうだい?」

 原田さんが言った。

「嬉しいけど……」

 大将はそう言いながらまだタップリ残っている『酒ロック』のグラスを持ち上げた。そう言えば、メリーさんも来ていたような気がする……。


「ああ、美味しい~~っ!」

 ずっとバタバタしていたから、椎名にとって格別な一杯だろう。見ているこっちまで何だか嬉しくなってくる。


「私、お腹すいちゃった。何かお腹に溜まるもの下さい」

「あいよ!」

 月野さんの言葉に大将は返事をし、冷蔵庫の中を覗いて一考……。こう言うとき、注文した方は結構期待が高まるんだよな……。

 しばらくして、大将が調理を始めた。月野さんは椎名にアン肝を『あ~ん』ってやっている。隣で見ている横田さんがつられて口を開けているのが可笑しいと原田さんは大笑い。本当に平和な店だ……。


「で? 兄ちゃん。何を悩んでいたんだい?」

 唐突に原田さんが俺に聞いた。正直自分でも忘れかけていただけに本当に驚いた。

「何の話ですか?」

「いや、何ともないんならそれで良いんだが、店に入ってきた時は、何だか神妙な顔して考え込んでいる風だったからさ」

 相変わらずの洞察力。この人は本当にこう言うところが繊細なんだよな……。


「あ、ご心配なく。ありがとうございます。本当につまらないことをあれこれ考えていただけですから……」


「何、悩んでいたんですか?」

 今度は椎名がニッコリ笑って聞いてきた。

「いや、本当につまらないことなんだって……」

「何だか隠されると余計気になってくるわよね? 椎名?」

 これはもう、絶対に白状しなければならない状況……。


「伝わるかどうか……」

 俺は呟いた。

「差し支えなければ言ってくれよ」

 原田さんは少し心配した表情だ。余計に言いにくいが、このままでは収集がつかない。


「実は、スマホを機種変更したんです。先週。前に使っていた端末のバッテリーが怪しくなってきたので……」

 一同フンフン頷く。大将は何か調理しているけど……。

「で、今回はアンドロイドではない端末にしたんですよ……。それがどうも感覚が違うんですよね。アンドロイドは比較的パソコンに近い構造なので、理解しやすいのですが……。何て言うのかアプリを一つ追加してインストールするにも気を使うって言うか……」

 一同フンフン頷く。


「お待ち!」

 大将が月野さんの前に置いたものは小鉢に入ったグラタン風のものだった。

「わあ! 美味しそう!」

「一応、簡単ドリア。熱いから気を付けてね」

「大将、ありがとう。でも、話の続きが気になるから……」

「じゃ、丁度冷めていい具合になるかもね」


「で、その後は?」

 原田さんは俺に聞いた。

「え? それで終わりですよ」

「何だ? そりゃ? 新しい携帯電話の使い勝手が馴染まないのをどうしてだろう? ってか?」

「ええ、そうですが……」

「なあんだ。何か心配事があるのかと……」

 横田さんは言った。

「私、ドリア食べよっと……」

 月野さんがドリアを食べ始めた。椎名は洗った食器を棚に戻し始めた。


「何ですか! だから言ったじゃないですか! どうでも良いことだから話すほどではないって!」


 こうして、今日も和やかな時間は過ぎていく……。

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