本物のプロ
「いらっしゃい」
いつもの元気で透き通った声。椎名は今日も花束の様な笑顔で店に来た人を出迎える。
「椎名、ビール頼む」
「は~い」
すぐさまキンキンに冷えたビールとグラスを俺の前に置いた。
「この間は本当にご迷惑をおかけしました……」
ペコリとお辞儀をして謝る椎名。律儀な子だ。
この前は無理が祟って、店に着くなり倒れてしまった椎名。井上医院の先生の注射が効いたのか、ピッタリ三十分後に目を覚ました。大将が半ば強引に俺に押しつけて帰さなかったら、あのまま閉店まで店に出る勢いだった。
「もう大丈夫?」
「ええ、でもやはり次の日は夕方からまた熱が出てきたので早めに寝ました。もうすっかり治りましたよ。寝たら治るあたりが若さですよ!」
両手でガッツポーズをとる椎名。その細くて白い腕は、ガッツポーズを取ったところで力こぶのようなものは見当たらず、単なる可愛いポーズになっている。
「この間はありがとうね。助かったよ」
大将が言った。
「いえ、どうせ同じ方向だったし、全然問題ありませんでしたよ。椎名もしっかりした足取りだったし。タクシーの運転手も丁寧に運転してくれましたから」
「それはよかった、ところでさ、原田さん達に紹介してもらった井上医院だっけ? 俺も今度調子悪くなったら行こうかと思っててさ……。椎名の治り方、劇的だったし……」
大将は言った。
「本当ですね。原田さん達のお墨付きですからね……。俺も具合が悪くなったら行くつもりです」
「……え? 尾田さん? 私お医者さんにかかったんですか?」
椎名は倒れてからの記憶が全く無いようだった。
「そうだよ。やっぱり覚えてないのか。原田さんと横田さんが商店街にある病院に連絡してくれて、そこのお医者さんが直ぐにかけつけてきてくれたんだよ」
大将は言った。
「ええっ! 本当ですか? 本当に本当にご迷惑をおかけしました! よく考えたら私、診察代もお支払いしていません! お幾らだったんですか?」
椎名は顔色を変えて、謝った。
「月野さんが椎名の財布から保険証を見つけてくれてね。大した額じゃ無かったし、椎名は気にしないで良いよ」
「そんな! ご面倒をおかけした上に、そんなことまで甘えるのは私の気持ちがおさまりません! 後で構いませんから、ちゃんと診察代を教えて下さいね!」
椎名は必死だ。大将は仕方なく頷いていたけど、きっとウヤムヤにする気だろうな……。
「こんばんは~。チャオ! 椎名! あ、すっかり元気そうね。良かったわ!」
月野さんはニッコリ笑って言った。
「あ、この間は沢山ご迷惑をおかけしてしまって……」
「やめてよ! 何言ってんのよ。今更そんな水くさいこと言わないでよ。折角近くなった椎名との距離が、広がっちゃうじゃない」
「ええ、でも……」
椎名は性格上気が済まないようだ。月野さんの気持ちも分かるけど……。
「あ、月野さん、こんばんは。お陰様ですっかり良くなったらしいよ」
大将は言った。
「あ、それは良かった。それから、私も謝らなくっちゃ……。保険証を探すのに、椎名の鞄と財布を勝手に開けちゃった。ごめんね」
「あ、それは……。全然平気です。寧ろお礼を言いたいくらいで……」
「一応念の為に言っておくけど、純粋に保険証しか見てないからね!」
月野さんは言った。
「大丈夫です。大したものは入っていませんから……。え? 入っていませんでしたよね? 入っていないはずなんですが……」
急に慌てふためいて自分の財布をチェックする椎名。
「だから、入っているかどうかなんて見てないってば……」
月野さんにそう言われて、ようやく笑顔になる椎名。うん、これが一番!
椎名と月野さんのやりとりの間に、大将は既に水割りを作っていた。月野さんの前に置く。
「あ~、美味しい。やっぱり椎名の笑顔を見ながらの一杯は最高ね」
嬉しそうに笑う月野さん。俺もその意見には賛成。
「お待ち」
大将はそう言って今度は俺に小鉢を出してきた。
「今日はなんですか?」
「真アジのなめろうさ。例の十五年モノ梅肉をちょっと和えておいたから、日本酒の方が良いかもね」
「椎名?」
「は~い」
椎名は早速日本酒のロックを作って俺の前に置いた。
「ビール、一旦冷やしておきましょうか?」
「ああ、頼む」
椎名は俺の前からビール瓶を引き、栓をしてからリーチインに戻した。俺はなめろうを一口……、相変わらず美味すぎる……。条件反射の様に酒を一口……、これまた美味すぎる……。
「ところでどうしてロックだってわかったんだ?」
俺は聞いた。
「え? 違いましたか?」
「いや、正解なんだが……」
「さすがね、椎名」
月野さんが笑う。
「以心伝心?」
大将も笑う。
途端に椎名は真っ赤になってしまった。
「違いますよ! いつも日本酒を注文されるときは、料理の温度に揃えることが多いから……」
「ほう、そう言われたらそうだな……」
大将は感心している。
「但し、夏は冷やかロックですけど……。意外と冷酒は好まれないみたいで……」
自分でも意識をしていなかったので、椎名の気付きには正直驚いた。
「じゃあ、私は?」
「月野さんは最初は必ず水割りですよ。その時のノリでジンでも焼酎でも冷酒でもテキーラでも何でも飲まれますけど、この店で飲まれたのはそれぞれ一回ずつ程度です」
椎名はスラスラと言ってのけた。
「凄いわね……。それ、いつかも覚えているの?」
「ええ、ジンは湖仲君が最初に来たときです。湖仲君がタンカレーをカレーだと勘違いして注文したときです。焼酎は、これも湖仲君が和久井さんに教えてもらった芋焼酎を飲んでいた時に一緒にって。冷酒はエドワードが鮎の塩焼きを食べたときに一緒に。テキーラは、月野さんがご自身でお持ちになったときにいろんな方法で飲みましたよね?」
「私、本気で驚いた……」
月野さんは目を見開いて驚いている。大将も、俺も……。
「そう言えば、この間も店に貼ってあるメニューの注文回数が少ないものをスラスラ言ってたよな?」
俺は言った。大将は頷いている。
「ええ? 自然に覚えますよ。尾田さんほどいろいろ複雑な作業をしているわけじゃないですし。来られる方も殆どが常連さんですし……」
椎名はそう言った。
「それにしたって……」
月野さんは驚きすぎて言葉が出ない様子。暫く椎名を見つめていた。
「私、和久井さんがいつもお湯割りだってくらいしか覚えていない……」
月野さんが言った。
「ええ、でも和久井さんの場合は、天候や仕草によってお湯の温度とかお酒の濃度は変えていますよ」
「ええっ! そうなの!?」
驚いて聞き返したのは大将だった。
「ええ、一杯目は気候がポイントです。雨の日はお湯は少し熱め、お酒は薄めです。晴れの日は外の温度と反比例して、温度を決めます。寒い日は熱め。暑い日は温め。お酒は濃いめです。二杯目は、和久井さんの行動によります。テレビをご覧になられているときは、温めの濃さは普通。他の人の話を聞いて笑ってらっしゃるときは熱めの濃いめです」
「和久井さんがそう言ったの?」
大将が聞いた。
「いえ、仰いませんよ。ただ、和久井さんのお好みに合ったときは、一口飲んでからニッコリと微笑んでグラスを眺められるんですよ。私はそれ基準に覚えました」
笑顔で答える椎名。本物のプロだな……。
「ええ~っ。俺、全然気が付かなかったな。だから、いつも椎名に指を立てて合図をするのか……」
大将は言った。
「そんな大袈裟なことではありませんけど……。尾田さんが作るお料理は、絶対にここでしか食べることができませんが、お酒は基本的には同じ銘柄を買えば同じ味なんです。だから、せめて温度や濃さくらいは飲まれる方の好みに少しでも合わせることができたらいいなぁって思ってたら、自然に覚えただけですよ。尾田さんだって、食べる人によって、少しは味付け変えていますよね?」
「まあなぁ。お客さん一人一人に合わせてその人にピッタリの料理っていうのは、俺のモットーというか、『名は体を表す』というか……」
「何だか聞くほどに恐ろしい店主と従業員のお店だわ……。ここ!」
月野さんが言った。俺も頷く。なるほど、そう言う意味だったのかと一人で納得。
「椎名はそう言うけど、俺の料理だって素材だけだったら誰でも手に入るわけだから、椎名の手心入った時点で俺の料理と同じレベルだと言えると思うんだけどなぁ」
「確かにその通りですね」
「いえ、次元が違いすぎて……そんな……私なんて……」
「毎度ぉ~~」
真っ赤な顔をした原田さんと横田さんが入ってきた。二人して肩を組んで千鳥足で入ってきた。
「いらっしゃい!」
明るい笑顔で出迎える椎名。
それにしてもこの二人、随分酔っているな。多分俺や月野さんのことは認識できていないんだろうな……。
「椎名!」
原田さんが言った。
「はい、どうぞ」
椎名は戸棚から胃薬と水を二セット用意し、原田さんと横田さんの前に置いた。
「おぅ……。相変わらず用意が良いな……」
ヨタヨタしながら胃薬を飲む二人……。
「大将!」
「はいよ!」
大将はそう言って、原田さんには鮭茶漬け、横田さんの前には明太子茶漬け。そして小皿に十五年ものではない梅干を出した。
相変わらずヨタヨタしながらもお茶漬けをすすり、間もなく二人は帰って行った。
「随分酔ってましたね。あんな二人初めて見たかも……」
月野さんが言った。
「まあ許してやってよ。お盆が近くなると、毎年一日だけこんな日があるんだよ……」
大将のこの言葉で月野さんは察したようだ……。
「横田さんの……?」
月野さんが言うと、大将と椎名は神妙な表情で静かに頷いた。
「原田さんも毎年最後まで付き合うからなぁ……」
俺は言った。
「私と椎名もあんな風になりたいな」
月野さんはあどけない笑顔を見せた。




