ひね鶏と月野さんの悩み
「いらっしゃい」
いつもの椎名の声。何やらパソコンとにらめっこしている。
「ビールくれ」
椎名はすぐさまリーチインからキンキンに冷えたビールとグラスを持ってきて俺の前に置いた。
「調べ物?」
「いえ、今壁に貼っているメニューがそろそろくたびれてきたので、新しいものに貼り替えようかと思っているんですよ。尾田さん、そう言うところ全然頓着されませんから……」
言われてみれば、結構黄ばんでいる。まあ、ここに来る常連は俺も含めて基本メニューなんて見たことがないから気にならなかったけど、言われてみたら気になる程度にくたびれている……。
「本当だな……。大将、今貼っているのはいつからですか?」
「いや、俺は一度も貼り替えた覚えがないからわからないな……」
おいおい……。全く頓着しない人だな……。
「私がここでバイトを始めたときからですから、もう五年以上経っていますよ」
「ああ、そうか。椎名が貼り替えてくれたんだな……」
大将は笑った。
「ええっ! 忘れていたんですか? 私が貼り替えたときには、『おお! 随分綺麗になったな!』って喜んでくれたじゃないですか!」
椎名はぷう、とふくれた。
「でも、これを機会にメニューを整理する必要があるかもな……」
大将は言った。
「ええ、私が知っている限りで一度も注文されなかったメニューがいくつかありますよ……」
「あれ? そうかい? 例えば?」
大将が不思議そうな顔で聞いた。
「えっと、『アスパラベーコン』、『イカの丸焼き』、『スペアリブ』は、注文を受けた覚えがありませんよ」
大将はそれを聞いて、腕を組み顎に手を当ててしばらく考えている。
「確かにそのメニューを食べている人を見たことがないな……」
俺は言った。
「本当だな……。椎名に言われるまで気が付かなかった。スペアリブに関してはここ数年、仕入れすらしてないよ」
大将はそう言って笑った。
「後、『キノコ炒め』は、数年前に女性のお客さんが一度注文しただけだと思います」
「よくそんなに覚えているなぁ……」
大将は驚いた表情で言った。
「尾田さんが、頓着しなさ過ぎかと思いますが……」
椎名はそう言って笑った。
「そもそもこの店に食べ物のメニューが必要かどうかが怪しいですよね?」
椎名は言った。
「どうして? 一応飲食店だし……」
大将が返す。
「だって、ここに来られる常連のお客さんは、基本飲み物が決まっていますよね? 食べ物に関しては、メニューなんて誰も見ないで『何がある?』って直接尾田さんに聞くじゃないですか?」
「俺の場合、それすらないけどね……」
俺は笑った。椎名は笑って頷く。
「常連のお客さん以外は、ホワイトボードに書いている『本日のおすすめ』からの注文が殆どですし、誰かが食べているものを指さして『あれ、下さい』ってパターンも多いです。でも、それも結局『本日のおすすめ』だったりするんですよ」
「たしかにそうだな。じゃ、メニューを貼るのはやめようかな……。でも、それも変な感じだよな……」
大将は店の壁に貼られたメニューを見渡しながら言った。
「私もメニューを貼らないのは変な感じになると思います。大体ずらりと並んだメニューを眺めるときは、何を食べようかなとも考えていますけど、同時にその店の価格帯をリサーチしている部分もあるように思うんです。この店の場合、折角良心的な価格で提供しているのですから、アピールしないと勿体ないですよ」
確かにメニュー見渡して、その店の相場みたいなものを確認しているよな……。椎名、鋭いな……。
「じゃ、椎名の記憶を参考に、誰も注文しなかったメニューだけ外しておいてくれよ。あとで、何を外したかだけメモを残しておいてくれよ」
大将は言った。
「わかりました。でも、そろそろお客さんが来そうな気配がしますので、また明日にでも作ります」
椎名はそう言って、パソコンから離れた。ちょっと待て、俺は客にはカウントされていないのか……?
俺は改めてこの店のメニューを順番に見ていた。この中の料理を頼んだことが一度もない気がする……。その中には、どんな料理か見当もつかないものもある……。
「大将、『ひねポン』って何ですか?」
「ああ、ひね鶏の湯引きにポン酢をかけたものだよ。時々食べているよ。俺が勝手に出しているだけだけど……」
大将はそう言って笑った。
「全然気が付かなかった……。そもそも『ひね鶏』って何ですか?」
「ん~、鶏の『熟女』かな? 卵産むのに使われていた親鳥だな……。悪い言い方をすれば『廃棄鶏』って言い方もできるな」
「廃棄鶏ですか? 美味しいんですか? って俺、実際に食べたことがあるんですよね?」
「卵を産む量が減ったから廃棄されるだけで、別に肉が悪い訳じゃないんだよ。それどころか普通の鶏肉に比べて歯ごたえがあって、噛めば噛むほど……って食感だから、酒の肴にはこっちの方が人気が高かったりするんだよ。日本酒、それも熱燗に合うんだよな……」
言われてみたら、そうかもしれない……。
「知り合いの養鶏所で分けて貰っているから、新鮮さは保証付きさ。その他にも鶏料理で、歯ごたえが必要な時は、ひね肉を使っているよ。あ、だしもひね肉の方が個人的には好みだな……」
「廃棄鶏ということは、値段も安いんですか?」
椎名が聞いた。
「どうだろ? 国産鶏としては安いかもしれないね。ここは国産しか使わないから……」
大将は言った。その時、玄関が開いた。
「こんばんは~。チャオ! 椎名!」
入ってきたのは月野さんだ。何だかんだでちょっと久しぶり。
「ウイスキーかい?」
大将は言った。
「ええ、普通の水割りで」
どうもクラッシュアイスの水割りのブームは一瞬で終わったようだ。俺が見たのは一回だけだったな……。
「ちょっとお腹が空いているの。何かありますか?」
月野さんは言った。椎名はそれを聞いて、俺たちに『ほらね?』という表情を見せた。確かにメニューを見る気配すらなかったな……。
「ウイスキーに合う感じか……」
大将はそう言って、少し考えた。しばらくして、手をポンと打って調理を始めた。
「お久しぶりですね」
俺は月野さんに言った。
「そうね……。最近ちょっと……ね」
随分意味ありげな言い方をするな……。いつも明るくて裏表がなさそうな月野さんだけに気になるな……。
「何かあったんですか?」
椎名が言った。
「うん……。大したことではないんだけどね……」
月野さんはうつむいたまま言った。その時、玄関が開いた。
「毎度! お! 今日はべっぴんさんも来ているのか! 今日の俺、ツいているな!」
元気よく入ってきたのは原田さんだ。後ろから横田さんと和久井さんが入ってきた。椎名がまた俺たちに向かって『ほらね?』と合図した。椎名の『客が来る気配察知能力』侮れない……。
それにしても、さっきの月野さんのちょっとしんみりした雰囲気は、三人の来店で吹き飛んでしまった。三人といっても、吹き飛ばしたのは原田さん一人なんだけど……。
「椎名、ビールくれ!」
「は~い。横田さんもですか?」
「いや、今日は焼酎ロックで」
「和久井さんはいつものですか?」
椎名が聞いた。和久井さんは静かに頷く。
「はい、お待ち!」
大将が月野さんの前に皿を置いた。中にはアスパラと鶏肉の炒め物が入っている。
「ペッパーを効かせておいたから、ウイスキーには合うと思うよ」
大将の言葉に月野さんはニッコリ笑って、箸を割った。
「何だい? べっぴんさん、何かあったのか?」
原田さんがグラスにビールを注ぎながら言った。この人、エスパーか?
「……!」
口に料理を運んだ後なので、言葉は発することは無かったが、明らかに驚いた表情で月野さんは原田さんを見た。
「原田さん、わかるのかい?」
大将は言った。
「え? わからないかい? 明らかにいつもと違うじゃねぇか……」
スゴいな、原田さんの観察眼。
「ああ、たーくんはそう言うところめちゃくちゃ鋭いんだよな……。昔から」
横田さんは椎名から焼酎のロックグラスを受け取りながら言った。
「光ちゃんは、誰かとお別れをしたのかな?」
和久井さんもスゴいな……。
「どうしてわかったんですか!?」
月野さんは自分の悩みを吹っ飛ばして驚いている。
「どうして? って言われても……、なあ? 和久井さん?」
原田さんは和久井さんに同意を求めた。和久井さんはまた静かに頷くだけ……。
「私、そんなに顔に出ていましたか?」
大将と椎名は無言で手を横に振った。まあ、俺も……。
「まあ、大した話でもないので、ここで聞いて貰おうかな……」
月野さんはちょっとだけ明るい顔になった。
「あ、その前に……。大将、これ美味しすぎ! 鶏肉なのに、ジャーキーみたいにしがめるのね? しかも噛めば噛むほど……って感じでやめられない……」
「あはは、さっき丁度話題が出たんだよ。それ、『ひね鶏』だよ」
大将は言った。
「ああ、これがそうなの? 名前は知っていたけど、初めて食べたかも。美味しいわねぇ……。」
嬉しそうに笑う月野さん。いつ見ても急に子どもみたいになるな……。
「まあこの料理で、半分以上元気は回復したけど、折角なので聞いてもらおうかな……」
そう言って話し始めた。
「実はね、ちょっと前にエディが日本のお祭りを体験したいって言っていたから、一緒に行ったの。そこに金魚すくいがあって……。エディ的には、信じられないアトラクションだったらしくて、ものすごい勢いで食いついたのね。結局五回もチャレンジして、店のおじさんにも気に入られちゃって、金魚を十匹ももらったの」
一同フンフン頷く。
「もらった金魚をエディが家で飼育するって言うから、お祭りの帰り、ペットショップに行ったのよ。私もそれほど詳しい訳じゃないけど、店員さんに聞けば何とかなるかなぁって。ところが、幸い『金魚の飼育セット』っていうのが売っていて、それを購入して一件落着のはずだったの……」
月野さんは続けた。
「ただ、そのペットショップに売れ残った犬がいたのね。子犬と言うにはちょっと大きくなっちゃった感じの柴犬。子犬のケースに収まらないからか、売場にゲージ立てて、そこに入れられていたんだけど、この子がめちゃくちゃ人懐っこいの……。私、すっかり虜になったんだけど、私のマンションじゃ犬は飼えないから一旦諦めたのよ」
一同頷く
「でも、その日からその子のことが頭から離れなくなってしまって、気が付いたらペットが飼えるマンションを探して、あちこち不動産屋さんをまわっていたのよ。勿論、二日に一回はその犬にも会いに行っていたんだけど……」
もの凄い熱の入れようだな……。月野さん。
「で、今日、やっとペットが飼えるマンションが見つかったって、不動産屋さんから連絡もらって、不動産屋さんへ向かう途中にペットショップに行ったら……」
そこまで話して月野さんは黙ってしまった。
「もしかして、売れちゃっていたんですか?」
椎名が聞いた。月野さんは無言で頷く……。原田さんと横田さんは『ああ……』とため息をもらす……。
「残念じゃったな……」
和久井さんがそう言った瞬間、月野さんはポロリと涙を流した。
「でも、正直なところ、そのマンションは会社からも遠かったし、家賃も……。引っ越し費用もかかるし、私にとって、結構勇気のいる決断だったの……」
「だから、犬の方が引いた……と?」
俺は言った。
「そんなことを考えている訳がないのはわかっているんだけど……」
月野さんは言った。
「いや、何となくわかるよ。犬ってのは何も言わないが、こっちの心は全部お見通しって感じがするものな……」
原田さんが言った。隣で横田さんが頷いている。椎名はもらい泣きしている……。
「店員さんが、『ごめんなさい、さっき飼い主が決まりました』って言ったとき、正直ホッとしている自分に気づいて。それにもなんだか自分自身、腹立たしくって……」
「仕方ないよ。今回は縁がなかったんだよ……」
横田さんが言った。
「椎名、すまんが光ちゃんに……」
和久井さんはそう言って、一本の焼酎を指さした。椎名は事情を察したのか、涙を拭いて和久井さんが指さした焼酎でお湯割りを作り始めた。『諭しの芋焼酎』だな……。
椎名は作った芋焼酎のお湯割りを、月野さんの前に置いた。月野さんはそれに口を付けた……。
「ああ、美味しい……。大将の料理と和久井さんのお酒とみなさんに話を聞いて頂いたことで立ち直れそうです」
月野さんはそう言って笑った。うん、原田さんほどはわからないけど、多分いつもの笑顔だ。
その後、みんなで月野さんが食べていた『ひね鶏とアスパラ』の炒め物を注文したのは、言うまでもない……。あ、和久井さんだけは『固いのは苦手じゃ……』って断ってたな……。




