犬の話
外で大きなサイレンの音がした。大将が何事かと外に出たらパトカーが数台走っていった。
「しかしまあ、物騒だよな。最近」
原田さんが言った。
「そうなんですか?」
俺は聞いた。
「そうなんだよ。この間さ、俺ん家の斜め向かいに住んでいる婆ちゃんが、犬の散歩に出かけたら、バイクの二人乗りにひったくりにあってさ……」
原田さんは言った。
「お年寄りを狙うのは卑劣ですね。まあ、ひったくり自体がろくでもないですが……」
俺は言った。
「そうなんだよ、犬の散歩に大金持ち歩かないから、被害は愛犬の糞だったらしいけど……」
原田さんは少し笑った。
「あっはっは、犯人の二人組、後で袋開けてびっくりしたでしょうね! ざまあみろ! ですね」
椎名が笑う。
「その話、俺も聞いたことがあるよ。思わず笑ったな」
大将が言った。
「確かにそれはそうなんだが、笑ってばかりもいられないんだよ。その時、婆ちゃん転んじゃってさ……、それ以来、腰痛が出るようになったって」
原田さんは言った。
「酷い! 犯人に責任を取らせないと!」
椎名が怒っている。
「犯人は?」
大将が聞いた。
「ああ、その後も数件同じような事件があったそうだが、未だ……」
残念そうに原田さんは言った。
「警察も見回ってくれているらしいけど、あの場所ばっかりって訳にもいかないみたいで……」
横田さんが言った。
「今じゃ、みんな警戒して余計に人通りが減って、それが却って逆効果って感じでな……」
原田さんは言った。
「いつも同じ場所に出るんですか? その二人組」
俺は聞いた。
「俺も詳しくは知らないが、数件ともそれほど離れちゃいなかったと思うよ。駅前から川の方へ出るあの道だよ」
その場所は俺も知っている。確かに犬の散歩コースとしては良いとこだけど夕方からパタッと人通りがなくなる。まあ、そこがひったくりの狙い目なんだろうけど。
「時間帯は?」
俺は聞いた。
「お、何だか兄ちゃん、刑事みたいだねぇ。現場で張り込みでもする気かい?」
原田さんは笑った。
「いえ、そうじゃなくって、時間帯によっては予防策があるかもな、と」
俺は返した。
「一体どんな予防策が?」
椎名が聞いた。
「いや、思いつきなんだけど、あの川の向こうに体育大学がありますよね? そこの運動部とかに頼んで、ロードワークのコースにしてもらうとか……、ダメかな?」
俺は言った。
「いや、あの大学の学生はみんなデカいからなぁ。直接犯人を捕らえるのは警察に任せるとして、予防策としては効果あるんじゃないか?」
大将は言った。
「確かにな……。お、あの大学ならうちの店のお得意さんだぜ。あの大学の偉いさんも地域の集まりには顔を出すから、知らない仲じゃねぇ。一度その話、提案してみるか……」
原田さんが言った。あれ、意外と話がどんどん進むな……。単なる思いつきだったんだけど。
「さすがですね。絶対に思いつかないですよ!」
椎名が嬉しそうに俺に言った。
「思いつきですよ」
俺は言った。
「まあ、犬にとっちゃ、信号やら車やらの心配の無いコースの方が、良いだろうしな」
原田さんが言った。ウンウン、と椎名が頷いている。
「実はさ、俺、犬って苦手なんだよな……」
大将が言った。
「小さいときに噛まれたか?」
すぐさま横田さんが突っ込む。ひょっとして横田さんも経験者?
「いや、辛うじて噛まれはしなかったんだが、小学校の帰りにデカい犬を飼っているお家があってさ、その家の子、同級生だったんだよ」
大将は話し始めた。
「で、その子が休んだ日、担任の先生に頼まれて、その子の家にプリントか何かを持って行くことになったんだけど、その子の家のインターホンを押した瞬間、いつもは大人しいその犬が牙を剥いて俺に吠えまくったんだよ。フェンスの向こうだったから、犬は出てはこれないんだけど、小学生心にめちゃくちゃ怖くってさぁ……」
大将は思い出したくもないといった表情で話した。
「で、プリントはどうしたんだい?」
原田さんが聞いた。
「ああ、その時はびっくりしてそのまま家に帰ったんだけど、家でお袋に事情を話してもう一度一緒に行ってもらったんだよ……。ところが、お袋と一緒の時は、インターホンを押しても全然吠える様子が無くって……。何だか俺だけ狙い撃ちされているみたいな気分になってさぁ……」
大将は言った。
「それ以来ですか?」
椎名が聞いた。
「それ以来、ずっと……」
がっくりとうなだれるポーズで大将は言った。
「横田さんは噛まれたんですか? さっきの話からすると……」
俺は聞いた。
「ああ、でもたーくんが仇を取ってくれたから、全然トラウマになっていないよ」
横田さんは原田さんの肩をポンポンと叩きながらそう言った。
「仇ですか?」
椎名は聞いた。
「ああ、そこの犬は脱走癖があってさ、どうやるんだか、首輪を外してフェンスを乗り越えて……。神出鬼没なやつでさぁ。大将の話じゃないけど、結構でかいのね。で、逃げようとすると追いかけてきて……ガブッと」
横田さんは言った。
「迷惑な犬ですね……」
椎名は言った。
「ああ、飼い主も手を焼いていたな……。噛まれた後、お詫びにお菓子いっぱいもらったよ」
横田さんは笑った。
「どうやって仇を取ったのですか?」
椎名が原田さんに聞いた。すると、代わりに横田さんが話し始めた。
「たーくんは、ジャンバーの左袖の中に、週刊誌を仕込んでさ、腕にクルッと巻く感じで。右手にこれまた週刊誌を丸めた棒を持ってその犬にガンガン近づいて行ってさ。犬は唸って威嚇しているけど、全然お構い無しに距離を詰めて行くんだよ。で、犬が吠えだしたらその口の中に左腕を強引に押し込んでグイグイ押し始めたんだよ。犬は怯んで下がろうとするんだけど、たーくんお構いなしにグイグイと。で、犬が完全に戦意を失いかけた時、右手の週刊誌を丸めた棒で後足をバチーンって」
横田さんは持っていた箸を振りながら説明してくれた。
「で?」
原田さん以外全員注目、興味津々!
「そしたら『キャンッ』って一瞬鳴いて、そのまま家の中に逃げていったんだよ」
横田さんは笑いながら言った。
「完全勝利ですね。原田さん」
俺は原田さんに言った。
「まあな、犬ってのは猫と違って噛んで引っ張るって以外に攻撃方法が無いんだよ。だから、一旦噛ませて犬が引くより強い力で押したら、犬は何にもできないから、自分の攻撃が通用しないってことを教えるんだ。しかも、その引っ張る原動力は後足だから、ここを叩いてやれば降参するしかないってことになるんだ」
原田さんは当たり前のようにそう言った。
「よく、そんなことをご存じでしたね」
椎名が言った。
「まあな、さっき言った婆ちゃんに教えてもらったんだよ。あの婆ちゃん、ずっと犬飼っているからな……。今の犬で何代目だ?」
原田さんはそう言って、横田さんを見た。横田さんは暫く指を折って数えていたが、途中でやめて『知らない』のポーズ。
「とりあえず、その日以来、そこの犬は脱走しなくなったんだよ」
横田さんは言った。
「よほど怖い思いだったんだろうね。犬にとっては……」
大将が言った。
「相手が原田さんじゃねぇ……」
椎名も言った。
「ところが、ある日また脱走してやがったんだよ」
横田さんは言った。
「その日は俺一人で歩いていて、たーくんいなかったからもうビビったビビった……」
横田さんはブルブル震える仕草で言った。
「ところが、その犬、俺を見つけるや静かにお座りしてさ……。俺もビックリしてその場に立ち尽くしていたら、後ろからたーくんがやってきたんだよ」
みんなフンフンと頷いている。
「すると、犬はたーくんを見つけた途端、クルンと仰向けになって『降参』のポーズ。たーくんがそれを見て、『よしよし』ってお腹撫でたらおしっこちびっちゃって……。何だか犬が気の毒になってきてさぁ……」
横田さんは言った。周りも頷く。
「何だよ! それじゃ、俺が悪いことしたみたいじゃないかよ!」
原田さんは憤慨していたが、今は横田さんの意見に賛成だ……。みんなは『まあまあ』って原田さんをなだめていたけど、多分同じだろうな……。
その時、玄関が開いた。そして、一人のお年寄りが入ってきた。
「犬は外に縛っておけば良いかい?」
お婆さんは言った。
「ああ、そうして下さい」
大将は答えた。
「あれ? 婆ちゃん?」
原田さんは言った。
「おや、たーくんと横田君じゃないか! ここで飲んでいたのかい?」
お婆ちゃんは、にっこり笑って店内に入ってきて、原田さんと横田さんの頭をちょっとずつ撫でた。
「やめてくれよ! もう子どもじゃないんだからさ!」
原田さんは恥ずかしそうに言った。横田さんはいつものことだと諦めている様子だ。
「どうしたんだい? 腰は大丈夫かい?」
原田さんは言った。
「ああ、知っていたのかい。うん、もう大丈夫だと思うよ。痛みは無いから。それより祝杯にビールをおくれ」
お婆ちゃんは原田さんに返事をしながら、大将に注文した。
「腰が治ったお祝いかい?」
大将は言った。
「まあ、それもあるけど、ひったくりが捕まったのさ」
「……!」「そりゃ、良かったな! さっきその話をしていたところだよ!」
横田さんが言った。
「犯人は、あの子が見つけたんだよ」
お婆ちゃんはそう言って玄関の方を指さした。
「あの子? 犬かい?」
原田さんが言った。
「ああ、今日、散歩していたらいきなりリード振り切って走り出してさ……。帰ってきたと思ったら、お巡りさんを連れてきてるんだよ。何でも交番の前で、えらい勢いで吠えたらしくって……」
「へぇ……」全員頷く。
「お巡りさんも、あの子が日頃は滅多に吠えないのを知っているから、私に何かあったと思ったらしくって駆けつけてくれたらしい」
「そしたら、待っていた私をすり抜けて、反対側に行っちゃってさ、お巡りさんがそれ追いかけていたら、二人乗りの原付バイクの男と出くわしてさ……、二人乗りってんでいろいろ聞いていたら、そいつらひったくりの犯人だって解ってさ……」
お婆ちゃんは得意そうに言った。そりゃ得意にもなるわな。お手柄だな、ワンちゃん。
「で、さっきまで交番行っていろいろ聞かれてさ、今帰りなんだけど、ちょっと疲れたから一杯ってわけさ」
お婆ちゃんは椎名が入れたビールのグラスを一気に傾けた。
「はぁ~、美味い! 生き返ったよ。あ、これ飲んだら帰るから」
そう言って、お婆ちゃんはお金をカウンターに置いた。
「じゃ、飲み終わるまでに……っと」
大将は何か作り始めた。
暫くして、お婆ちゃんはビールを飲み干し、カウンターを離れようとした。
「あ、これ、お土産」
大将は言った。
「頼んでいないけどね……」
お婆ちゃんは不思議そうに言った。
「いや、これは俺からのサービス」
そう言って、大将は包みをお婆ちゃんに渡した。
「まあ、嬉しいねぇ。久しぶりにプレゼントなんてもらったよ」
お婆ちゃんは嬉しそうだ。
「銀紙に入っているのは、自分で食べてよ。ラップに包んでいる方は、お手柄だったワンちゃんにあげてね。ササミで塩入れてないから犬でも大丈夫だよ」
そう言ってにっこり笑った。
「嬉しいねぇ……」
そう言って、お婆ちゃんは店を出ていった。