天秤
「あ、いらっしゃい!」
心に染み渡るような爽やかな声で出迎え。今日も椎名はニコニコ元気。店に客はいない。
そう言えば、椎名が不機嫌なところを見たことがない。
「いつも元気だな。良いことだ」
俺は言った。
「そう言われると救われます。時々周りの人に『悩みがないんじゃないの?』って言われてしまうんです。ちょっとおバカキャラとして扱われている様な気がしているんですよ」
椎名はぷうと膨れた。
「悩みがないやつなんてこの世に存在するのかな」
「果たしてそれが幸せかどうかも怪しいですね」
椎名はビールを俺の前に置いた。
「椎名も飲むか?」
俺は聞いた。
「どうしたんですか? 珍しいですね」
椎名は答えた。
「はい、これ」
大将が皿を一つ俺の前に置いた。赤黒い刺身の様なものだ……。
「これで食ってみてよ」
続いて小皿にはごま油に塩が入っている。
「大将? レバ刺しは……」
俺は聞いた。ちょっと前に事故があってから、レバ刺しを提供するのは禁止になったはず。
「レバ刺しじゃないから大丈夫。それクジラだよ」
大将は言った。
視線を前に戻すと、椎名が二つのグラスを持ってニコニコしている。
「これ、随分前に横田さんから貰ったペアグラスです。横田さん、何かの景品で貰ったらしいんだけど、家では飲まないからってここに持ってきたんですよ。折角なので、今日はこれでビール頂いちゃいます!」
そう言って、片方のグラスを俺の前に置いて、ビールをついでくれた。
「じゃ、ホレ」
そう言って今度は俺が椎名のグラスにビールを注ぐ。
「かんぱーい!」
グイっと飲んでプハーってやってお互い顔を見合わせてニッコリ。ああ、平和だ……。
「この間のカニのお礼ね」
俺はそう言った。
「あら、あれはたまたま頂いたもので、どちらかっていうと原田さんがやや強引に……ねぇ?」
そう言って大将を見た。
「あはは、それはあるかもしれないね。まあ、あの量のカニとなると、商店街の年寄り連中では裁ききれなかっただろうしね。毛ガニだったし……。勿論、半分位残しておいて、次の日の打ち上げにも振る舞ったんだよ」
大将は答えた。
「そうだったんですね。いや、だったら尚のことこの店に持ち込んで正解でしたね」
俺はそう言うと、クジラの刺身を一切れ口に運んだ。どういうんだろ、あっさりしたレバ刺し……。違うな。何かこの方法でしか味わえない旨さだ……。俺が、クジラに舌鼓を打っていると、椎名が話し始めた。
「ところで、さっきの悩みの話ですけどね……、私が中学生くらいの時だったか、いろいろ悩んでいた時期があったんですよ……」
まあ、思春期だし誰もが通る道だろうな……。
「そんな時期に図書室で読んだ本に『人生において悩む時間ほど無駄なものはない。考える時間ほど大切なものはない』って書いていたんですよ」
「なるほど、良い言葉だなぁ……。確かにその通りだ」
「あ、共感してもらえましたか? 嬉しいです。ただ、当時は悩むことと考えることの違いなんてわからなかったんですが、その日からその言葉が頭から離れなくなってしまって……」
椎名は残りのビールを飲み干した。俺は継ぎ足す。
「で、今はその違いが理解できるようになった、と?」
俺は聞いた。
「本当に実行できているかは怪しいですが、頭では理解できるようになりましたよ」
椎名は言った。
その時静かに玄関が開いて、和久井さん登場。俺達に向かってベレー帽をちょいと持ち上げた。これが和久井さん流の挨拶だ。
「いらっしゃい!」
大将と椎名が同時に声をかけた。
和久井さんは、静かにカウンターの奥へ行き、テレビを見ながら煙草を吸い始めた。椎名はいつもの芋焼酎のお湯割りを作っている。余程のことがない限り、和久井さんの一杯目はこれだ。真夏の蒸し暑い夜でもお湯割りを飲む。一度『暑くないですか?』って聞いたら『この方が涼しくなるんじゃよ……』って言ってた。本当かな?
「はい、どうぞ!」
元気よく椎名は焼酎を和久井さんの前に置いた。
「椎名はいつも元気で気持ちが良いわい……」
和久井さんは言った。
「ありがとうございます。そう言って貰えると嬉しいです」
椎名はペコリとお辞儀した。
「それが取り柄だからな」
大将が笑った。
「それしか無いみたいに言わないでくださいよ!」
椎名が大将に抗議した。
「いや、だから『それが』って言ったろ! 大体何処に従業員を褒めまくる店主がいるんだよ? こういう話は、ちょっと控え目位にしとくもんなんじゃないのか?」
大将は笑う。和久井さんはウンウンと頷いた。
「椎名は悩みごとがあっても必ず『考える』ことができる子だと思っとる」
珍しく和久井さんがはっきりとした話をした。いつもは、人の話を笑いながら聞き、時々ポソッと隣にしか聞こえないような声で呟く程度だ。
「さすが和久井さん。分かって頂けていますね。丁度今、その話題だったんですよ」
和久井さんは椎名の話を聞いて、ホウホウと頷いて笑った。まさか俺達の話が店の外にまで聞こえていたんじゃないかと思うほど、あまりにタイミングが良くって驚いた。
「ワシに言わせりゃ、悩む時間ってのは、逃げ出す方法を考えているだけじゃ。もっとしっかり考えて解決する方法を見つける努力が必要じゃ。ただ、椎名のこれから先には、考えてもどうにもならんことがいくつもあるじゃろうがな……」
和久井さんはそう言った。これほど話をする和久井さんを初めてみたが、和久井さんの口から出てきた言葉は隣にいる俺の心にも強く響いた。やはり年の功ってことなのかなと思った。
「どうにもならないことに出くわした時はどうされてきたのですか?」
椎名が聞いた。彼女なりの素直な疑問だろう。正直俺も気になっていた。
「内容にもよるが、一つは自分のやりたいようにすることじゃな。もう一つは……」
「もう一つは?」
思わす俺も聞いてしまった。
「兄ちゃんならどうする?」
和久井さんは俺に振った。
「俺なら……、飲みますかね……」
何も思いつかなかったので、思わず本音が出てしまった……。ちょっと幼稚だったかもしれない……。
和久井さんは、暫く俺の顔を見て、ゆっくりと口を開いた。
「正解じゃ」
あ、正解だったんだ……。
「酒は楽しく飲むのが基本じゃ。しかし、飲まなきゃおれん時もあるってことじゃな。そして消え去るのを待つ……」
和久井さんはちょっと遠い目でそう言った。この年まできっといろんなことがあったのだろうと思った。
「その話を聞くと、私は学生である気楽さを痛感してしまいます……」
椎名はちょっと申し訳無さそうに言った。
「だから、椎名の元気はみんなに元気を与えるんだよ」
大将が言った。
「その通りじゃ。椎名がしょんぼりする話ではない。寧ろ、椎名には感謝しておるくらいじゃ」
和久井さんは言った。
「もう一杯入れてくれ……」
和久井さんは言った。
「椎名、俺もビール」
椎名はとりあえずビールを出して俺の前に置いた。俺は、椎名のグラスと自分のグラスにビールを注いだ。丁度注ぎ終えたタイミングで、和久井さんの前には焼酎のお湯割りが置かれた。和久井さんは美味そうにクジラを食べている。和久井さんは、一度箸を置き、椎名が置いた焼酎を一口飲んで話し始めた。
「心の中には上皿天秤があるように思うんじゃ……」
今日の和久井さんは珍しく饒舌だ。こんなに自分から話をするのは初めて見た。
大将も含めて俺たち三人、和久井さんの話に釘付けだ……。
「片方は良いこと、もう片方には嫌なことを乗せる。そのバランスが大切じゃ。良いことがたくさんある時は、沢山感謝して、反省をするんじゃ……。良いことと同じくらいな」
なるほど……。うまくいった時はついつい自分だけの手柄だと思ってしまうものな……。それが次の失敗に繋がるってわけか……。
和久井さんは話を続ける。
「嫌なことがたくさんある時は、さっきの話通りまずは考える。大抵のことは解決できるから解決したら、皿から下ろす。でないと天秤の足が折れてしまうからな」
間違いなく、ここにいる三人の頭の中に上皿天秤が存在している……。それを見透かしたように和久井さんは両手を使って皿がバサッと落ちる仕草をした。
「しかし、どうにもならんことに関しては、反省も解決もできんから、ずっと皿に乗ったままじゃ。だから飲んで忘れるのじゃ」
少なくとも俺は心から共感できた。椎名も真剣な目で和久井さんを見つめて頷いている。大将は、何とも言えない神妙な顔つきで思いにふけっている。
「お、年寄りが調子に乗って喋りすぎたようじゃな……。さて、ワシはそろそろ帰るとするか……」
そう言うと、大将に勘定を渡し、さっさと店を出ようとした。
「ありがとうございました。勉強になりました!」
思わず俺はそう言った。椎名もカウンターの中から深くお辞儀をしている。
和久井さんはベレー帽をちょっと持ち上げて店を後にした……。
「凄くいい話を聞けた気がします……」
椎名が言った。
「あんなに和久井さんが話をするのを初めて聞いた気がするな……」
俺は言った。
「実はな……。俺も変だと思ったんだが……、途中で気がついてしまったんだよ。今日、確か和久井さんの奥さんの命日なんだよ……」
大将はため息をついて言った。
「和久井さんの奥さん、詳しくは知らないけど不慮の事故で亡くなったそうなんだ……」
どうにもならない……。飲まなきゃいられない……、和久井さんの一言一言が俺の頭をグルグルまわった。
「知らなかったこととはいえ……」
椎名がしょんぼりしている。
「だからこそ、今日の椎名の元気は和久井さんは嬉しかったんじゃないかな……。だからあんなにいろいろ話をしてくれたと思うがな……」
大将は言った。
「俺もそう思うな……。少なからず俺も椎名の笑顔に助けられたことが……」
思わず本音が出た……。
大将は俺にニヤリと笑った。椎名は……? クジラの刺身と同じくらい、真っ赤になっていた……。




