↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

はじけて、消える

作者: 十衡一
掲載日:2014/01/21

 青いアルミ缶を伝った水滴はぽとりと落ちて、僕の服を濡らす。その冷たさにはっとしてみると、驚くほどに沢山の感覚が懐かしくも僕に入り込んできた。まるで、停滞を許しはしまいと言うかのように。

 缶の中で弾ける泡の音が静寂を拒み、舌に残る甘味と少しの苦味。衣擦れの感触。一人の部屋。待つことがこんなにも苦しいのは、とても久しぶりのような気がした。

 僕は彼女との出会いを思い出す。

 たった今……一日だけの上京をしている、僕の恋人との出会いを。





 中三、正月。

 年が明けた朝、初日の出を拝むなんて贅沢は受験生には許されていなかった。当時通っていた塾では「正月特訓」なんていう恒例行事があって、渋々ながらも僕はそれに参加していた。

 正直に言って、僕はあまり熱心な生徒ではなかった。勉強は出来る方だったけど、それは学校の授業でやるような基礎だけ。それ以上の能力を僕は求めていないし、両親もそれをこちらに期待してはいなかった。それでもこうして講習に参加しているのは、単に三年間積み重ねてきた惰性の結果だったように記憶している。

 普段CランクとBランクのクラスの狭間をうろうろしてる僕は、その日ギリギリでBランクに居た。彼女はAランクだったから、出会ったのは偶然、昼食の時間の出来事だった。


「……弁当忘れた」


 鞄を開いて僕は今更ながら気づく。

 そこには有るべきもの、つまりは弁当の姿がなかった。午前の三時間、鞄を確認することは三たびあったというのに、これでは笑えもしない。もう少し早ければ親に連絡して届けて貰うこともできたけれど、今からでは間に合わないし午後からは六時間ぶっ続けだから昼食を取る暇もない。


「やっちゃったなあ……」


 自嘲気味に呟いて、僕は財布を持って教室から出た。安物のビルに間借りした塾の校舎に食堂なんて大層なものはないが、飲み物の自販機くらいならばある。飢えを満たすには物足りなくも、ないよりはマシだ。

 階段を降りて自販機を一瞥すると、僕はビルの正面にある横断歩道を渡る。構内には好みのものがなかった。世知辛いものだ。怪我の功名と言うべきか、幸運にも向かいの自販機には一月前にはなかった粒入りコーンポタージュがあった。

 神は僕を見捨てていなかった、なんていうのは少し大袈裟だろうか。普通の飲み物よりは腹が膨れるだろうそれを迷わず購入し、僕は振り返る。

 振り返って──気づいた。

 塾の屋上に誰かが居た。講師……ではない。大人にしては小さいし、何より長い黒髪の女の子だ、塾には男性の講師しか居ない。

 とにもかくにも、立ち入り禁止の筈の屋上に、少女は居た。一月の寒空の下、暖かい室内の上に。手すりに寄りかかり、ぼうっと空を見上げていた。

 誰だろう、そう思ったと同時、彼女の姿は手すりの向こうへと消える。

 どうしてだろうか。普段中途半端に真面目な僕は、その瞬間には規律を破ることを決意していた。いや、決意というには些か意思が足りていなかった。ほとんどが無意識のうちに、僕の足は迷いすらなく屋上へと歩を進めていた。昼の休憩が始まったばかりだから、廊下に人はいない。なんの障害もなく、僕は立ち入り禁止と書かれた扉に着き、それを押し開ける。

 果たして。冷えきったコンクリートの上に、彼女は座り込んでいた。縮こまるように、名前も知らない何かの装置を囲む柵にもたれて、厚着をして手袋越しに青いサイダーを持って。寒そうに震えながら口元に持っていき、くぴ、と飲み下す。そして、その行為以外に口を開こうともせずに、ただ来訪者である僕を見据えていた。

 僕には何故だか、それがとても腹立たしいことに思えた。無視されているわけではない。単に彼女は自ら言葉を発しようとはしなかっただけの話。でも腹が立つのは確かで、それは仕方のないことだった。

 だから僕は、


「君、馬鹿なの?」


 と正直に彼女に話しかけた。

 僕は苛々していた。その時の怒りの理由は今も分からないままだけど、きっとくだらない理由だったとは思う。


「こんな寒いところでさ。震えてるくせにサイダー飲んでるなんて、馬鹿としか思えない」


「そうだね」


 彼女の第一声はそれだった。

 淡々と告げた声色は、だからどうしたと僕に告げていた。僕にはその反応が予想外で、言葉に詰まってしまう。なんとか必死に言葉を探した時には、何秒かが経過した後だった。

「なんで?」


「……なにが?」


 理由……そう。僕は理由が知りたかった。僕が考えもしなかった場所で、僕が考えもしないような行動を取り、予想外の返答をした彼女に、今や僕はびっくりする程に強い興味を抱いていた。


「こんなとこで、どうしてサイダーなんか飲んでるのさ。中は暖かいのに」


「……知りたいの?」


 彼女はじっ、とこちらを見つめて僕に問いかける。ここで僕はようやく彼女がとても魅力的な女の子であることを知った。単純に外見の意味でなのだけれど、その時はそれだけで充分だった。

 僕は頬を熱くさせながら、そうだよ、と言った。目も逸らしていたかもしれない。


「あなた、変わってるね」


 君にだけは言われたくない。


「サイダーの味をね、忘れたくないの」


 何の前置きもなく、彼女はそう言った。

 当然僕はわけが分からないから、質問をする。どういうこと、と。


「正確には、出来事かな。あまり気にしないで。それと、この場所で飲んでるのは、別に意味なんてないよ。強いて言うなら寒いから……かな? 屋上の方が風もくるからね」


「……君、マゾなの?」


「それを聞いて、どうするの?」


「別にどうもしないけどさ……変だよ、それ」


「そうかも、ね……。でも、わたしはそれでいい。誰かの迷惑にも、ならない。あなたの中で、それは放ってはおけない問題なの? そうじゃないなら、気にしないでほしい」


 そう言って彼女はサイダーを床面に置き、恐らく自分のものだろう黒い鞄から一冊の本を取り出した。そして、そのまま読み始める。

 彼女の言い分はもっともだ。そう納得してしまった僕に、言い返せるわけはなく。でも、僕も変なやつだった。それに気がつけば後は楽だった。


「あのさ!」


「……なに」


 ほんの少しだけ声量を上げた僕に、彼女は律義に反応する。


「その本、なんていうやつ?」


「……これ?」


 文脈も脈絡もあったもんじゃない問いに、彼女は一切動じることもなく聞き返してきた。


「それ、今日の帰りに買って読んでくるから」


 続けて、僕はそう言った。

 漠然と、知りたかった。

 知識欲が僕を支配した。

 彼女の見ているものを、僕も見たくなったのだ。それは直接的な意味でもあり、抽象的な意味でもある。彼女の瞳に映る世界を、或いは彼女自身を、僕は欲した。


「……知りたいの?」


「うん」


 再度の質問。僕は肯定する。


「いいよ。教えてあげる。この本の名前はね──」


 彼女はほんの少し笑みを浮かべ、唇を動かした。

 僕はその日の帰り、彼女の読んでいた本を買った。特に面白いとも思えなかったのに一晩で読み終えることが出来た。そして翌日、僕はまた彼女の元へ行く。

 僕は彼女に質問をして、彼女は拒むことなく答えを返してくれた。正月の講習が終わるまで……毎日。

 久しぶりの……もしかすると、生まれて初めて経験したこの情熱の名前が恋であるのだと、そう知るのはもう少し後になる。





 僕は高校生になった。

 初め予定していた公立高校ではなく、ワンランク上の私立高校へ入学した。自分の力試し、なんていう名目で志願していたその高校には、彼女の姿があった。

 入学から一ヶ月が経ったけれど僕と彼女の間に会話はなかった。僕のことは彼女も覚えているだろうけど、彼女は自分から誰かに話しかけてくる性格じゃなかったし、僕も彼女に対する感情の意味を知らなくて気恥ずかしかったのだ。

 いつの間にか時間は過ぎていた。僕はなぜ焦ってるのかも判然としないまま、周囲のグループ形成に乗り遅れないように努力していた。どんな気の合う友人も、最初は上辺だけでもいい顔をしなければ、なかなか作れないものだから。

 しかしそんな風に僕らが人間関係の構築に奮戦する一方で、彼女は休み時間になる度に一人で何処かへ抜け出していた。まるで何かに没頭する人間が、どんな騒乱の中にあってもそれ以外を気にすることがないのと同じように。

 人間関係を気にしないというのは、つまりそういうことだった。何かに集中、或いは執着する人間は、それ以外になかなか興味を向けない。彼女もそういう類いの人に僕には見えた。

 彼女はある種当然のごとく、孤立するようになった。それだけじゃない。僕の中学に少なからず居たように、他人に興味を(それも悪意を持って)示さなければいられない人間は、必ず数人は存在するものだ。例に漏れず、僕らのクラスにはそういう人たちは居た。

 僕は不安だった。このままでは、孤立している彼女はきっと彼らに狙われてしまうだろう。幸い、新入生である彼らもまだ学校に慣れていないために目は向けられていないけど……。いつかは、そういう対象になってしまうだろう。

 意を決して、僕は放課後彼女に話しかけることにした。


「ねえ」


 彼女が昇降口に現れたのは、校舎が閉め切られる直前だった。非常口の緑色ランプが目立つくらいに暗くなった半円形のホールで、彼女は静かに歩いてきていた。注意してなければ見逃してしまいそうなほど。

 人が居たのが意外だったのか、彼女は少しびっくりしたように肩を震わせた。


「ちょっと、いいかな」


 彼女は視線を戻し、下駄箱から靴を取り出して履き替える。その音がいやに大きく空間に響いた。

 無視されたかな、なんて思っていると、


「……別に」


 不意にそう耳に飛び込んできた。

 その呟きの先にどんな言葉があるのかは分からないけど、僕は図々しく彼女を追うことにした。靴を履き替え、早々と出ていった彼女の小さな背中に追い縋る。

 そして、肩を並べた。

 最初に会ってから四ヶ月。環境が変われば人も変わる。僕も高校に入ってから変わった。背も伸びたし、新しい友人ができ、新しい趣味を見つけた。

 でも彼女は変わっていなかった。何処か遠くを見ているような目も、多くを語らないその唇も……どうにも、考えが読めないところも。


「……なに」


「え……」


「話、あるんでしょ。わたしに……」


 気がつけば、無言のままだいぶ歩いていたようだ。辺りは駐輪場に景観を移していた。


「あー、えっと」


「あ、ちょっと待って」


 僕が言いかけた時、彼女に制止された。

 彼女は重そうに小脇に提げたバッグを揺らして、自販機に向かう。丁度良かった。心の準備が出来てなかった僕は、飲み物を購入する彼女を見つめながら覚悟を決める。突然、ぽた、と雫が頬を濡らした。

 雨だ。十秒くらいは穏やかだったそれは、彼女がこちらに戻ってくるや急激に勢いが増し、土砂降りとなってアスファルトを叩き始めた。


「うわっ」


「こっち」


 いきなり強くなった雨に驚く僕の手を掴み、彼女は駐輪場の簡素な屋根の下へと引き込んだ。

 街灯が、水に染まるアスファルトを照らしていく……。


「……本」


「え?」


「濡れてないと、いいけど」


 見ると、彼女は自分のバッグに手を置いている。あまり知らない彼女のことで、唯一分かっていたのは読書が好きだということだった。


「そう、だね」


「うん」


 会話が途切れる。

 お互い、話す気分じゃなかった。ただ黙って雨粒がはじけて、消える様子を見守り続けていた。雨はさらに勢いを増す。適度に降れば快い雨音も、ここまで強ければ少々不安を煽られる。

 僕らは帰れるのだろうか。

 いや、帰りたくなかった。

 止んで欲しいけれど、止んで欲しくない。雨が止まってしまえば、お互い帰ることになる。時間が止まればと本気で思った。彼女の側に居るのがどうしようもなく心地よく、くすぐったく、幸福だった。

 彼女は──どう思っているのだろう。


「それで、話って」


「え、と。ああ、ごめん、そうだったね」


 余韻に浸っている場合じゃなかった。

 僕は恥ずかしさをどうにか押し込めながら、ゆっくり話し始めた。僕が思っていることを。彼女に伝えたいことを。あの講習の時みたいに、彼女は黙って僕の言葉を聞いていた。どう話せばいいか、僕が言葉に詰まってしまっても、次の言葉を待っていた。


「雨……弱くなってきたね」


 一段落した後、不意に彼女がそう言った。


「ありがとね。わたし、こういう性格だから、誰も気にかけてくれないと思ってた……から。結構、嬉しかったかも」


「お父さんとか、お母さんは?」


「心配はしてくれるよ。でも学校でのことを知らない人に話しても、ややこしくなるだけだから」


「……つらくない?」


「たまに、つらい……かも」


「そう……」


 その後は、しばらく他愛のない話をした。

 そして、話してく中で知ってしまった。


「でもね、嬉しかったことだってあるの」


 言って、彼女はサイダーの缶を開ける。


「わたしを……わたしの場所を、探してくれるって、そう言ってくれた人がいるの。わたしを、本の……文字の世界じゃなく……」


 ──そう、知ってしまった。

 きっと彼女が見ていたのは、僕じゃない誰かだ。彼女が何処を見てるのか分からないのは、僕が知らない人の面影を見ているからなんだ。

 嫉妬とは、炎に抱かれるようなものだった。妬くことで自らが焼かれることになると知りながら、その抱擁から逃れることは出来ない。火傷しそうな温もりを離したくなくなってしまう。

 胸が苦しい。顔が熱い。

 それは、火に包まれるのと似た苦しみで。


「あ……」


 雨の中、そんな苦しみに抱かれることで、僕はようやく──


「雨…………止んだね」


 ──そう微笑む彼女に、恋をしているのだと、気づいた。





 あの日から、僕は努力を重ねた。

 彼女は孤独に苦しんでいた。そう決めつけて、考えないようにした。それが彼女のためになると信じて疑わないで、彼女を色んな人と触れ合えるようにして、彼女が一人本に沈まない世界を作れるようにした。 僕のやり方は間違ってなかったのだろう。きっと人を変える才能も、運もあったに違いない。彼女は明るくなった。笑顔も見せるようになって、人と積極的に関わるようになった。

 同じ大学に入り、環境が変わっても、彼女はそれを維持していた。僕が彼女を幸せに出来たと、そう思った。

 そして、僕が告白しようと決めたのは、大学も卒業間近の秋だった。





「あのさ、お前いつ告白すんの?」


「え?」


 騒がしい居酒屋の中で、その言葉は雑多な笑い声の中に埋もれていった。

 僕の居たサークルのメンバー全員の内定が決まったことを受け開催された飲み会の席で、僕に語りかけてきたのは高校時代からの親友だった。


「他の奴らは知らないけどさ、俺らって高校からの付き合いだろ? お前が誰を好きかってのは分かる」


 ビールを呷り、親友は視線を違う場所に向ける。その先には友達の女の子と談笑する彼女の姿があった。

 どうやら誤魔化しは効かないらしい。僕は両手を小さく挙げて降参する。


「いつから、とは聞かないよ。でも、どうしてこんなタイミングで?」


「こんなタイミングだからだ。もう卒業だろうが、お前一体いつまでそうしてるつもりだよ。大学までは一緒だったみたいだけどな、卒業したら皆バラバラになっちまうだろ」


「大袈裟だよ。別に今生の別れでもあるまいし。会おうと思えば──」


「会える、とか言うんだろ?」


 ……人の台詞に被せないで欲しい。


「そういうテンプレな回答はいらねえよ。確かに職場も離れてないし、会おうと思えば会えるだろうけどな。今までとは違って会おうと思わなきゃ会えなくなる。サークルみてえに自然発生的に集まったり、会ったりなんてことは絶対にない、違うか」


「それは……」


 …………考えてもみなかった。

 確かに、考えてみれば容易に分かることだった。会おうと思えば会えるけど、僕は本当にそれでいいのだろうか。

 でも、僕にだって告白を躊躇する理由はある。


「確かにお前が今まで告白しなかったってことは、なんかあるんだろ。でも知ってっか? 彼女はな、今まで何回も告白されたが全部断ってるらしい」


「そうなのか?」


 でも、それは……高校時代の彼女の言葉が、脳裏に甦る。

 俯いていると、頭を小突かれた。


「痛っ、何す──」


「一度、自惚れてみたらどうだ」


「なに?」


「彼女がお前を好きだから他の男の告白を断ってるって、そう考えろ。それが出来ないなら酒の勢いでもいい、とにかくコクれ」


「はあ? や、やだよそんなの」


 前者はともかく酒の勢いで告白するっていうのはなんだか気が進まない。


「何か問題あるか?」


「いや、あるでしょ」


 僕が言った途端、語気を強めて説教された。


「何がだよ。あのな、今までお前が覚悟決めるまで待ってたがこれじゃ埒があかん。飲め、で、コクれ。それともお前の気持ちは酒を飲んだ程度で揺らぐようなもんなのか。酔っ払って言ったら確かじゃなくなるようなもんなのか」


「…………それは、違うって断言出来る」


「だったら、いいだろ」


 目を瞑って、考える。

 僕は彼女が好きだ。

 間違いない。世界一彼女に優しく出来る自信があるし、世界一彼女を大切に出来る自信がある。彼女を愛してると、そう言い切れる。


「…………分かった」


 僕はビールを瓶ごと掴み、喉に流し込んだ。味なんかどうでもいい。とにかく酔えれば良かった。

 一気に飲み込み、親友の肩を抱く。


「サンキュー、お前が親友で良かった」


「恥ずかしいこと言うんじゃねえよ、俺もだ馬鹿」


 お互い、馬鹿だった。





 飲み会が終わると、僕は彼女を連れ出した。

 若干足元がふらつく僕を、彼女は支えてくれた。


「大丈夫? 君飲みすぎてたからねえ。あたし結構心配してるんだよ?」


「ごめん、迷惑だったかな」


「迷惑だねえ。でもあたしも昔いっぱい迷惑かけちゃったからおあいこだよ」


「そう、かな」


「そうだよ。君が居なければ今のあたしがこうしてることもなかったかもね」


 そう言ってくすくす笑う。

 昔……大人しかった彼女と、今の彼女の口調は大分違う。きっとこれこそが彼女の本音なんだ。本に閉じ籠ってた彼女から引き出した、これこそが彼女の本当。

 僕が、彼女を笑顔にした。

 自負と親友の言葉が、僕を後押ししてくれた。


「聞いて、くれますか」


 そっと、彼女の肩を押す。

 もう充分なくらい時間は重ねた。彼女の視線が僕を射抜く。今、視線の先には、僕が居る。

 二本の足で立ち上がる。

 二つの目で彼女を見据える。

 片方の手を、彼女に差し出す。

 伝えなくちゃいけない。初めて会った時からずっと好きで、愛してた、柏木芽(かしわ このめ)に。


「柏、木芽さん。初めて会った時から、ずっと貴女が好きでした。愛しています。僕と、結婚してください」


 全てを口に出すと、一瞬で酔いは覚めた。

 僕の全ては伝えた。

 後は、彼女が決めること。

 目の前の愛してやまない女性は、


「……ありがとね」


 そっと……僕の、手を取った。





 それから一年。

 今日、僕は木芽を両親に紹介する筈“だった”昨日のことを考えながら、彼女を待ち続けていた。

 あの日から僕と木芽は恋人同士になったけど、この一年間、僕と木芽に進展はなかった。

 性交渉はおろか、キスだってしていない。別に木芽が拒もうとした訳じゃない。僕がしようとしなかっただけだった。

 逆に木芽が僕に求めようとしなかったのは、結婚まで純潔を保とうなんて意識があったのかどうかも、今はまだ分からない。木芽が帰ってくるまでは。

 昨日……正確にはその前から、僕は木芽に嘘を吐いた。


『両親に君を紹介したいから、挨拶に来て欲しい』


 木芽の両親とは挨拶をしたことがあったから、不自然ではなかったと思う。だけどこの話をした時、木芽の瞳にほんの少し陰りが差したのが、僕には分かってしまった。

 そして、僕は……木芽を試すことにした。





 昨日の夜。

 僕は自宅に木芽を呼んで話をしていた。


「明日……だね」


「うん……」


 木芽は目に見えて沈んでいた。

 ……マリッジブルー、という言葉がある。一見、今の木芽はそういう状態にあるように見えるけれど、僕にはそうは思えなかった。あの時……高校の時、一度だけ口にした、木芽の場所を探すと言ったという人物のことが、頭から離れない。


「あのさ、木芽……」


「うん……」


 もし、僕の予感が当たっているとしたら。


「気になることがあるなら、自分の目で確かめに行ってきて欲しい」


「え……?」


 断ち切らなきゃならない。木芽が幸せになるためには。僕が幸せになるためには。

 未練に、想いに。木芽自身が、引導を渡さなければならない。


「両親には僕から言っておくからさ。何かあるなら、手遅れになる前に」


「で、でも、あたし……」


「木芽」


「あ……。うん…………」


 諭すように呼びかける。

 木芽は、普段では考えられないくらいあっさり黙り込む。それは僕の予感に対する肯定で、つらい現実だったけど、僕は木芽を送り出すことにした。


「どんな結果になっても待ってる。ただ、納得しないで答えを渡してくるのだけはやめてくれ。もし、僕が身を引くようなことになる答えでも……受け入れるから」


 それだけ告げて背中を向ける。

 しばらく沈黙が続いたが、やがて荷物を纏める音がしたかと思うと、木芽は僕の部屋を出ていった。行き先を、社交辞令のように一言だけ告げて。


「…………っ」


 木芽が告げた行き先はこの辺りの地方で一番の都市だった。

 しん、と静かになった一人だけの部屋の現実感がなくなっていく。知らない世界に来たみたいに、ここが僕の部屋だと理解するには時間がかかった。

 畳の匂い。時計の音。車の通る振動。

 全てが、いつもとはものであるような錯覚を覚えながら、僕はテーブルの上に置かれていた、飲みかけのサイダーを手にとった。

 飲み口の縁にあった小さな気泡が、はじけて、消えた。





 呼び鈴が鳴ったのは、夕方だった。

 半ば放心していた僕は、跳ね起きるようにして玄関に向かった。たった一日だっていうのに、会いたくて仕方なかった。抱き締めたい。おかえりと言って、抱き締めて、キスをしたい。

 逸る気持ちに足がもつれそうになる。

 扉を開けて、僕は……




「……ただいま」




 声色だけで、全てを悟ってしまった。


 高校時代の木芽の口調が、僕を一瞬で勘違いに気づかせてしまった。“本当の”木芽が、目の前で強く、申し訳なさそうに僕を見つめていた。


「……“おかえり”なんて、言えない……みたい、だね」


 こくん、と“彼女”は頷く。

 つまり、そういうことだ。

 僕が思っていた彼女は、本当は高校時代そのままの性格で、僕が今までしてきたのは、彼女が本当に求めてきたのとは違うものだったのだ。

 なんで今さら、こんなことが簡単に分かってしまうんだろう。大学時代、彼女が僕に見せた笑みの中に、高校の時駐輪場で見せた、噛み締めるような、本当に幸せそうな微笑みがなかったことに、どうして今さら気づいてしまうんだろう。


「ごめん、なさい…………」


 彼女は泣いていた。

 僕を傷つけたことに。自分の気持ちを偽り続けて、今頃正直になんてなって、僕を裏切ったことを謝っていた。


「謝らなくて、いいよ」


 だから、僕は彼女を抱き締めて、口づけをした。


「や……っ!」


 彼女が僕を突き飛ばす。

 きっと、ファーストキスだったんだろう。それでいい。そうであって……欲しかった。

 自分でも驚くくらい卑屈で卑怯な感情を、僕は彼女に押しつけた。押しつけて、考えないようにした。これは必要なことなんだと決めつけて。

 そうでないと、納得出来ないんだと何度も頭の中で繰り返す。

 元々、納得なんて出来やしないというのに。


「これでおあいこだよ」


「……っ、その、わたし……!」


 僕は最後まで聞かず扉を閉めた。

 これ以上彼女の姿を見ていたら、気持ちが抑えられそうになかった。

 聡い彼女だから、気づいてしまっただろう。

 僕も彼女を傷つけた。たった今、一生消えない傷跡を残した。報われない恋だと知ってもなお、潔く身を引けるように、最後に僕が彼女の側に居た証を刻み込んだ。


「最低だよ……僕も、君も……」


 たった一日。

 たった一日の、上京だった。

 その一日に、僕が積み重ねてきた時間は脆く崩れ去った。両想いにまで築きあげた片想いは、終わってしまった。


「参ったなあ……本当に」


 僕は彼女に、世界一優しく出来ると知っていた。

 僕は彼女を、世界一大切に出来ると知っていた。


 でも、それでも──


 僕では彼女を幸せには出来ないと、僕は気づいてしまった。

 それを知ってしまえば、僕は彼女の隣に居ることに耐えられなかった。




 何十分か、玄関に立ちすくんでいた。

 不思議と涙は出なかった。改めて、僕は独り暮らしになったアパートの部屋を見渡す。これからは暫く、やることが増えてしまった。

 友人にはどう説明しよう。彼女の両親にも弁明の連絡を入れなければならない。アフターケアを済ませるのは、僕の優しさではなく、単に未練を断ち切るための行為だった。

 僕は手始めに、彼女がたった一つ部屋に残したサイダーの缶を取る。

 飲もうとして……飲まずに、捨てることにした。彼女がこのサイダーを飲んでいた意味は、終に知ることはなかった。

 サイダーの中身を捨てながら、僕は小さく呟く。


「さよなら」


 その瞬間。

 遅れて目から溢れて、頬を伝って落ちた僕の想いは。


 あまりに呆気なく、はじけて、消えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。