出会い
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公演に向けての練習を重ねる毎日。
緊張感を高めて行く日々で、今日は今までにない手ごたえを感じていた。
この手ごたえを手放さず積み重ねていけば、今回の公演は今まで以上の最高の出来になるに違いない――そんな予感が彼の気分を向上させる。
自然、口もとがほころび、口笛を吹きそうになり我に返った。
道で口笛を吹きながら歩くなど紳士のすることではない。
しかし、あまりの気分の昂揚に、口笛を吹かずにいられる自信が少しばかりない。
気持ちを落ち着けるために、いつものバーで軽く一杯飲んで帰ろう――そう思った彼の目に、見慣れない店のプレートが入った。
重たげな木製の扉かけられた小さなプレートには、BERGERAC――ベルジュラックと彫られている。
隠れ家のような扉は、落ち着いた佇まいを感じさせる。
彼は慣れた店にのみ通いつづけるタイプで、自ら新しい店を開拓することはほとんどない。
いつもなら「新しい店ができたのか」程度でそのまま通りすぎてしまうのだが、今日はなんだかいつもと違うことがしたい気持ちになっていた。
扉を開けると、小さなドアベルが店内に来訪者を告げる。
半地下仕様になっているのか、3段ほどの階段を降りるようになっている。
階段を降りると同時に彼は、タイムスリップしたかのような錯覚に陥った。
入口脇には蓄音機、型の古い大きなラジオ、セピア色がかった白球の混じるビリヤード台が置かれ、壁にはダーツがかかっている。
骨董趣味のある彼の目が見開かれる。
興味のない者にはただの古びた物にしか見えないかもしれないが、実に素晴らしい品々なのだ。しかも手入れが行き届いている。
持ち主に許可なく触るつもりはないが、たぶん蓄音機もラジオもちゃんと動くに違いない。
いい店を見つけた――彼はそう思った。
さらに上機嫌になり、店の中へと歩みを進める。
客は彼のほかにはまだいないようだった。
店の内装も骨董備品にふさわしい年代物で、心地よい重厚さを感じさせた。
天井にはアンティークの3灯シャンデリアが等間隔で備えられ、客を席へ導くようにやわらかい光を落とす。
テーブルとテーブルの間には四面ガラスのキャビネットが置かれ、はアンティークガラスのグラスが飾られている。キャビネットが置かれているおかげでテーブル席が密接することなく、優雅でほどよい空間をキープすることができ、席ごとの会話、酒を楽しむことができるようになっているようだ。
一本の木から削りだしたカウンターは磨きあげられ、使い込まれた渋い色は温白色の照明をやわらかく吸い込んでいるように見えた。細いシルエットのドームランプがこれまた等間隔に置かれ、カウンターに座る客の手元とグラスをおさえめの光で照らし、幻想的な空間を作り出していた。
彼はコートを脱ぎ、ほのかな灯りが落ちる床を音もなく歩くと、カウンターへ歩み寄った。
カウンターの中でグラスを磨いていたマスターが、彼が席についた気配に振り返る。
「へい、らっしゃい!」
彼は口端が下がり、「へ」の字に口が歪みそうになるのをかろうじて堪えた。
眉間に皺がよるのも、当然堪えた。
彼はジェントルメンなのである。
不快であることを表情で伝えるのは、紳士としてやってよいことではない。彼はそう思っている。
世間で定義されるところの「紳士」と彼が思うところの「紳士」には違いが大きくあったが、とにかく彼は自身に課したルールに反するのを何よりも嫌った――紳士として。
うさん臭いほどに白い歯、朗らかな笑顔を見せ、マスターは彼の反応を待っている。
黒い髪、黒い目。黄色い肌。
2メートルある自分が見下ろさなくてもすむ目線から考えると背が高いが、容貌は間違いなく東の大陸をルーツにしている。
マスターは振り返ったとき、ポーズを決めたまま動かない。むろん、うさん臭い朗らかな笑顔も崩れず、うさんくさい白い歯もかげることはない。
その邪気のなさ加減が、どこかカンに触る。
この笑顔を見たままに信じたらエライ目にあう――彼の危険回避本能がそう感じていた。
マスターは客である彼を見て、スキンヘッドに眩しそうに目を細めたが、格別に表情の変化は見せなかった。
背が高く、厳つい顔、黒い肌、それだけで威圧感を与えてしまうところがある彼は、身だしなみには格別に気を遣っている。スキンヘッドにしたのは癖毛で剛毛だからだ。友人からは、余計に威圧感を与えると言われるが、癖毛で剛毛で不潔感を与えるよりはいいと彼は思っている。
彼が気をつけているのは、身だしなみだけではない。立ち居振る舞いも紳士たるべく、日々精進している。
「……」
この男に関わってはいけない――そう思うのだが、彼は無表情以外でマスターにどう反応していいのか困惑した。
マスターは彼に己の声が聞こえなかったと思ったのか、さらに大きい声で言った。
「へい、らっしゃい!」
先ほどまでの気分の良さは、何億光年も彼方へ素っ飛んでいた。
腹が立つ。
なぜ、こんな質のよいショットバーで、八百屋か肉屋のような掛け声を聞かなくてはならないのか。
なまじ彼の好みにあう内装なだけに、このマスターの応対はとてつもなく腹が立った。
無い毛が総毛立つかと思うほどに。
しかし、彼は堪えた。
この男は少しばかり間違えているだけだ。そうに決まっている。
東の大陸から来たばかりで、西の言葉を上手く使えないに違いない。
訂正し、教えてやればいいだけのことだ。
「マスター、こちらの言葉では『いらっしゃいませ』と言うのが正しい」
彼は、センテンスを区切って丁寧に言った。
ヒアリングも苦手かもしれないと考慮してのことだ。
マスターは不思議そうに首を傾げて、彼の顔をマジマジと見る。
聞き取れなかったのかと思い、もう一度、さらにゆっくりと言おうとしたとき、実に滑らかな口でマスターが言った。
「知ってます」
「……」
「……? ダンナ? どうしました?」
「……オレがどうしたって?」
「何日も炎天下で放置した茹でたタコみたいに、黒く光る頭皮にシワが寄ってますよ、ダンナ」
誰のせいだと思っている!――そう言いたかったが、彼は堪えた。
この程度で怒るのは紳士ではない。
「知っているなら、なぜ言わない?」
「何をです?」
「『いらっしゃいませ』だ」
マスターは、後ろから糸か紐で引っ張ってるのかと思えるほど、見事に片眉をつりあげて見せた。
「ダンナ、この店はアタシの店ですよ? いわばアタシが法律ってやつです。アタシがなんといってお客に呼びかけようがアタシの自由だと思うんですがね?」
「くっ」
彼は言葉に詰まった。
客商売・サービス業に従事する人間の言葉としていささか問題があるが、マスターの言い分には一理ある。
いまの自分の発言は、人の言葉のイントネーション(方言)がみっともないと言って蔑んだ行為と大差ない。
かといって、許容するには、なにか納得いかなかった。
このまま店を出るかどうか逡巡しているところに、マスターから声がかかる。
「ダンナ、何をお飲みになります? 初回サービスで一杯目は店からのオゴリです」
その言葉に、店を出ていくことを思いとどまった。
オゴリに釣られたわけではない。マスターの言葉は、彼なりの歩み寄りなのかもしれないと思ったのだ。
内装はとにかく彼の好みなのである。
また練習場からの帰り道にあるこの店が『お気に入り』の店になるのは、彼にとっても喜ばしいことだ。
苛立ちと理不尽を噛み砕いて飲み込んで、彼は友好的な声で注文をした。
「バーボンを」
その言葉をマスターはスッパリと切り落とした。
「ありません」
「……」
また怒りが沸騰しかけたが、彼は堪えた。紳士だからである。
「なぜ、ないんだ?」
銘柄はともかく、ショットバーには定番の酒であるはずだ。
「なに簡単な理由です」
「言ってみろ」
「3つほどあります」
「早く」
せっかちなお人だとつぶやきながら、肩をすくめてみせる。
「ひとつは、この店を開店して間もないため、まだ配達されていない物があるからです。まぁ、東の新参者にやる洗礼のようなもんです」
彼は黙って頷いた。
同じ西の人間として恥ずかしいことだが、こういう東の人間への苛めは、どこにでもよく起こる。
しかし、当のマスターはそんなことをこれっぽっちも気にしている様子はなかった。
実際のところ本当にどうでもいいのかもしれない。
「ふたつめは、本日開店直前まで改装していましたから、入荷している酒すら棚に並び切っておらず、アタシも把握できていません」
いい加減な――そう思ったが口には出さなかった。
入荷が遅れていれば、そういうこともあるだろう。完璧な人間などどこにもいないのだ。
彼自身が考えるサービス業の定義からすれば、落第もいいところだが。
「みっつめは」
区切りをつけて、実に屈託なく言った。
「ダンナみたいに格好良いお客さんに、格好いいお酒を飲ませないために、格好いい酒の代表のバーボンは置く気がないんですよ、アタシャ」
マスターは朗らかな笑顔に、白すぎる歯を光らせて見せた。
本当は単純に仕入れるのを忘れただけの話なのだが。
そう素直に言わず、余計なことを言って、余計な方向へ話を膨らませていく――マスターはそういう男だった。
「……」
「ダンナ、どうなさいました?」
「……オレがどうしたって?」
「墨を塗ったタコを火であぶったみたいに、顔中に血管が浮き上がってますよ、ダンナ」
コトリと音をたてて、水の入ったグラスを置く。
「まあ水でも飲んで落ち着いてくださいよ、ダンナ」
彼はグラスをがしっと掴むと、喉の奥に放り込む勢いで飲み込んだ。
それをマスターは、崩れることないうさん臭い笑顔とうさん臭い白い歯で見守っている。
「~~~~~~~~~~~~~~~~っ」
彼のスキンヘッドが天井から注がれる光に鈍く反射する。
マスターは眩しくて軽く目をすがめた。
環境が人を作る。
それは彼も認める。
彼の出身であるスラムには、環境に適応しすぎてしまい、壊れてしまった友が数多くいる。
だが、彼は人を作るのは環境だけではないと知っている。
自身の不屈の努力、プライドが、今の彼と今の彼の地位を作ってきたのだ。
確かに音楽の才能というものが並外れてあったかもしれない。
しかし、才能なんてものは磨き続ける努力によって光るのであり、才能そのものだけが独立して光り続けることなどできはしない。
スラムの生まれで肌が黒いというだけで、蔑まれ踏みつけにされることも多々あった。
それに怯まず潰れず、自身の才能を磨き続け、紳士たる振舞いを身につけたのは、不屈の努力、高いプライドがあったればこそ、だ。
音楽の才能がなければ、スラムの生活から抜けるのは難しかったろう。
サックスという楽器に触る機会があったことも、幸運だった。
だが、自分は音楽の才能がなくても、スラムの生活から抜け出るための努力を惜しまなかったろうと、彼は思っている。
人は彼の才能を褒める。
だが、彼を本当に知る人は、彼が努力する姿こそを褒める。
そのように自分を見てくれ評価してくれる人々がいるからこそ、東の地からこの西に来て生活をし頑張っている東の人間を彼は評価する。
西と東では解しようのない確執の歴史がある。
大きな時の流れ、歴史のうねりから発生する、個人的感情、嫌悪がないとは言わない。
が、それと個人への評価はまったく別の話だ。
スラム出身であるということなど単なる「生まれた場所」としてだけ認識し、彼そのものを評価し、認め育ててくれた師匠の思想を、彼はとても敬愛している。
自分もそうありたいと思い、いままでそうであると信じてやまなかった。
この東洋人に出会うまでは!
「ガッデーム!」
彼は音楽のプロになったのだと意識した瞬間から、使わぬと決めた言葉を初めて口にした。
これが、不本意にも長い付き合いになってしまうマスターとの出会いだった。
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