『夢の残滓と午前七時の理不尽』
この二人を主人公にしたシリーズの番外編です。
前半は少し刺激の強い描写から始まりますが、中盤以降はいつもの二人のやり取りへと繋がっていきます。
未読の方も、一つの短編としてお楽しみいただければ幸いです。
【キャラクター紹介】
●御子柴 新輝26歳
整った顔立ちをしているが、口を開けば理不尽な暴言しか飛び出さない元御曹司。悪夢のイライラを親友にぶつけ、全力で「踏み台」にする暴君。
●神谷 朔太郎26歳
新輝の傍若無人ぶりに日々耐えている、苦労人なエンジニア。起きて数秒で「出汁の分際で」と罵られるが、即レスのツッコミだけは世界一。
●四駆郎
二人の共通の趣味であり、心の支え。どれだけ険悪な空気になっても、ミニ四駆の話題さえあれば全て解決する(と思っている)。
〇―――第一層:銀の鎖と衆愚の視線
そこは、音のない闇が支配するあまりに広く、あまりに冷たい広間だった。
ひだまり荘の安っぽい畳の感触も、発泡酒の苦い残り香もない。肌に触れるのは贅を尽くしたビロードのシーツと、首筋に食い込む冷徹な銀の鎖の重みだけだ。
「……あ、……ぁ、……っ」
御子柴新輝は四つん這いの姿勢で喘いでいた。
その整った容姿は、屈辱と情欲によってひどく歪んでいる。かつて御子柴の家名を背負って社交界を闊歩したその肢体は、今はただ一枚の薄絹すら纏わず、冷えた空気の中に晒されていた。
ジャラリ、と鎖が鳴る。
「どうした、新輝。そんなに震えて。観客が待ち兼ねているぞ」
頭上から降り注ぐのは聞き慣れた、しかし決定的に「違う」男の声。
そこにいたのは、神谷朔太郎だった。だが、いつものヨレたTシャツを着て、ジャンク品をいじりながら笑う親友の姿ではない。
仕立ての良い漆黒のスーツに身を包み、冷徹な支配者の瞳で新輝を見下ろす、絶対的な「主」としての朔太郎だ。
その手には、一台のスマートフォンが握られている。レンズは容赦なく新輝の震える指先や、恥辱に染まった頬を克明に捉えていた。
『待ってました!』
『本日のメインディッシュ、御子柴の御曹司サマだ』
『もっと近くで映してくれよ、オーナー!』
画面上に流れる、裏ネットの無数のコメント。不特定多数の「観客」たちが、新輝の気高さが蹂躙される瞬間を今か今かと待ち構えている。
「やめ……ろ……。見せるな、こんな……っ」
「拒む権利がお前にあると思っているのか?」
朔太郎が鎖を短く巻き取る。ぐいっと首を引き上げられ、新輝は無理やりカメラを直視させられた。
「視聴者が、お前の『声』を聞きたがっている。……ほら、挨拶はどうした。お前は俺の何だ?」
「……、……っ」
新輝は唇を噛み締める。言いたくない。こんな虚構のおぞましい言葉。
だが、朔太郎の指が新輝の敏感な耳朶をなぞり、そのまま太ももの内側へと滑り落ちた。ただそれだけの接触で、新輝の体は裏切りの熱を帯び、甘い痺れが脊髄を駆け抜ける。
「……言え。お前の主人は誰だ」
「……さく……、朔……っ」
「様、だろ?」
低い、耳を焼くようなバリトンボイス。
朔太郎の指先が新輝の「弱点」を無慈悲に、しかし絶妙な技巧で弄び始める。新輝の瞳は潤み、視界が白く明滅する。抵抗しようとする精神は、肉体が奏でる「悦び」という名の暴力に無惨にも屈服していく。
「ぁ……朔……さま……。俺は……あなたの……っ」
新輝は自らの喉が恥知らずな「真実」を吐き出すのを感じた。
「あなたの……おもちゃ…です……。……なんでも……好きにして……っ」
『キターーーー!!』
『御曹司の奴隷宣言、最高!』
『もっと汚してくれ! 徹底的に壊せ!』
狂喜乱舞するコメント欄を横目に朔太郎は残酷な、しかし極上の笑みを浮かべた。
「いい子だ、新輝。……それじゃ、その言葉通りに。観客の皆様、ここからは課金エリアだ。この誇り高い『本物』が、どれほど無様に玩具に支配されるか……特等席で見せてやろう」
朔太郎が傍らに置かれた黒い革袋に手を伸ばす。
中から取り出されたのは、鈍い光を放つ冷たい金属製の「玩具」たちだった。
「……ぁ……朔…ひ、どいよ……っ」
新輝が喉を鳴らして喘ぐ中、朔太郎は取り出した銀色のクリップを弄びながら、冷ややかな視線を新輝の胸元へ落とした。
「ひどい? 心外だな。お前がその『本物を見抜く目』で選んだのは俺という主人だったはずだ。……それとも何か? この画面の向こうにいる連中の前で、かつての御曹司様が実はこんなにも卑猥な玩具に弱い体だと詳しく解説してほしいのか?」
「それ、は……っ、やめ……」
「やめてほしければ、態度で示せ。……ほら、腰を振るな。カメラがブレるだろうが」
朔太郎は無慈悲に新輝の髪を掴み、その美しい顔をレンズに押し付けた。超高画質のカメラが新輝の瞳に浮かぶ涙の一滴までをも残酷に拾い上げ、世界中へと発信していく。
『おお!あの御子柴が顔を真っ赤にしてるぜ』
『もっと鳴かせてくれ! さっきの奴隷宣言、もう一回聞きたいな!』
「……くっ……!……うぅ……っ」
「ほら、コメントでもリクエストが来ているぞ。……お前、自分の立場を忘れているんじゃないか? お前は今、自由な一人の人間じゃない。俺が所有し、俺が管理し、俺が磨き上げる……ただの『玩具』だ」
朔太郎の指が新輝の顎を強く割り、強引に口を開かせた。
「……ぁ……ぁぐ……」
「いいか、新輝。お前のその気高い精神も肉体も、すべて俺のものだ。……返事は?」
「……は、ぃ……っ。……あなたの、もの……です……っ」
新輝は屈辱で胸が張り裂けそうになりながらも、朔太郎に触れられている場所から広がる熱に抗いようもなく反応してしまう。その矛盾こそが新輝にとって最大の毒だった。
「聞こえないな。もっとはっきりと、観客たちに聞こえるように鳴いてみろ。……『私は朔太郎様の奴隷です』と。言えたら、お前の望んでいる『刺激』をさらに追加してやってもいい」
朔太郎はそう言いながらもう片方の手で、新輝の背後にある「禁断の果実」へと冷たい金属製のプラグをゆっくりと押し当てた。
「っ! あ、あぁぁ……っ!!」
「……まだ、先しか入っていないぞ。……さあ、言え。言わなければ、このまま放置して放置プレイに切り替えてもいいんだ。……視聴者諸君、彼が自ら屈服を願い出るまで、じっくりと『お預け』を楽しもうじゃないか」
『うわぁ、オーナー性格悪いww最高ww』
『新輝様、早くおねだりしなよ!』
画面から流れる悪意に満ちた煽りと目の前の絶対的な主。新輝のプライドはもはや塵となって消え去ろうとしていた。
「……お願い……、します……っ。……俺は、……かみや……朔太郎さまの……どれい、です……っ! だから、……放置しないで……、もっと……ぐちゃぐちゃに……壊して……っ!!」
「……よく言えたな。……ご褒美だ、新輝。……お前のそのおぞましい望み、隅々まで叶えてやるよ」
朔太郎の低い笑い声が広間に響き、鈍い電子音と共に新輝の体内へ挿入された玩具が激しく振動を始めた。
「あ、あぁぁぁぁぁぁぁ……っ!!」
弓なりに反る新輝の背中。その首に繋がれた銀の鎖が狂ったように激しく音を立てた。
新輝は自らその羞恥に満ちた言葉を吐き出し、媚びるように腰をくねらせた。その瞬間、朔太郎の瞳に獲物を完全に仕留めた捕食者のような、獰猛な光が宿る。
〇―――虚妄の鎖と、目覚めの蹴り
新輝の視界が火花を散らすように明滅し、もはや自分が誰なのか、ここがどこなのかさえ判然としなくなる。
ただ、目の前にいる「朔太郎」という名の主にすべてを委ねること。
踏みにじられ、汚され、徹底的に「おもちゃ」として扱われることに、抗いようのない安らぎさえ感じ始めていた。
「……いい表情だ、新輝。お前は一生、この鎖から逃げられない。……分かったな?」
「……ぁ……っ、……はい……っ。……すべて、……あなたの……、おもい……どおりに……っ」
新輝は、最後に残っていた自尊心の欠片を自ら踏み潰し、主の足元で崩れ落ちた。
情欲の渦に呑み込まれ、意識の糸がぷつりと切れる。
(ああ、俺は……もう、終わりだ……。この男に、一生飼われるんだ……)
新輝がその深い絶望に身を委ね、朔太郎の足元で意識を失いかけた、その時――。
彼の耳の奥で、現実世界の「ノイズ」が小さく、しかし決定的な違和感を持って響き始めた。
――朔、こんなの……っ!
自分の喉が、震えている。
その悲鳴を合図に、漆黒の夢がガラガラと崩れ落ちた。
―――〇第二層:戦慄の起床と、犠牲になった胸板
「……はッ!!!」
爆弾が破裂したような勢いで、新輝は跳ね起きた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた「ひだまり荘」の染みだらけの天井だ。銀の鎖も冷酷なカメラのレンズも、漆黒のスーツを着た支配者もそこにはいない。
「ゆ、夢……? 嘘だろ、あんな、あんな生々しいのが……っ」
新輝は滝のような汗を流しながら、震える手で自分の体を確認し始めた。
まずは首。……鎖の跡はない。次に手首。……縛られていない。
そして、新輝は血相を変えて自分のスウェットの中に両手を突っ込んだ。
「つい、てるか……? 無事か? ……ある。ちゃんとある。……おもちゃ、は……。入ってない。……よかった、入ってない……っ!」
必死の形相で「大事な部分」の無事を確認し、新輝は安堵の溜息を漏らした。……が、まだ安心はできない。あの朔太郎(夢)が、自分の体にどんな「印」を刻んだか分かったものではないのだ。
「鏡……! 鏡を見なきゃ……!」
新輝はベッドから、文字通り弾丸のような勢いで飛び出した。
だが、その進路を塞ぐように、フローリングの上には『昨夜の飲み会で終電を逃し、新輝の厚意で泊めてもらった』親友が、布団にくるまって無防備に眠っていた。
だが、今の新輝の目にはその姿すら映らない。
―――ドガッ!!!
「ぅ、……ぅがはぁっっっ!?」
新輝の鋭い踏み込みが、熟睡していた朔太郎の厚い胸板を直撃した。
水球で鍛えた強靭な肉体をもってしても、寝起きの不意打ち(しかも全力)は防げない。朔太郎は肺の空気をすべて吐き出し、カエルのような声を上げて跳ね上がった。
それを踏み台にして、新輝はバスルームへ猛ダッシュ!!
「げほっ、ごほっ! な、……な、……なんだ!? テロか!? 強盗か!?」
朔太郎は涙目で胸を押さえ、のたうち回りながらようやく上体を起こした。Tシャツをまくりあげると、そこには見事な足跡が赤々と刻まれている。
「……いでぇ……。おい新輝、何の真似だ……っ」
バスルームからは、必死すぎる新輝の声が漏れてくる。
「……背中は? ……っ、首の付け根、赤くなってないか? 大丈夫か、……俺、汚されてないか……?」
「…何やってんだお前。どうしたんだよ、そんなに慌てて……」
首を傾げながら、朔太郎はバスルームの入り口に歩み寄る。踏まれた衝撃でまだ肺が痛むのか、Tシャツの裾をまくり上げて赤くなった胸元をさすりながらの登場だ。
そこには、姿見の前で上半身裸になり、自分の体をくまなく……それこそ脇の下から腰のラインまで、必死にチェックしている新輝の姿があった。
「……ふぅ、……大丈夫だ。……どこにも、跡はない。……よかった……」
安堵し、へなへなと膝をつく新輝。そんな親友の様子を見て、朔太郎は純粋な心配(と、理不尽に踏まれた怒りの半々)で声をかけた。
「おい、マジで何があったんだよ。……寝違えたのか? それとも腰でも捻ったか?」
朔太郎が頭をポリポリと掻き、バスルームの入り口に歩み寄る。
「自分じゃ見えないだろ、背中とか腰のあたりとか。……気になるなら、見てやろうか?」
その瞬間、新輝の中で「悪夢」の記憶が鮮明にフラッシュバックした。
『――俺が管理し、俺が磨き上げる……ただの玩具だ』
「……ッ!!!」
新輝は弾かれたように顔を上げ、救いの手を差し伸べようとした朔太郎を親の仇を見るような目で射抜いた。
「お前……ッ、最低だな!!!」
「はぁ!? えっ、何……え、俺、今なんか……ええっ!?」
朔太郎は突き出された言葉のナイフに、文字通り硬直した。
朝起きて、踏みつけられて、心配したら「最低」呼ばわり。あまりの理不尽なコンボに、天才エンジニアの思考回路がショートする。
「汚らわしい! 寄るな変態! この支配欲の塊! 配信野郎!!」
「はい!? 配信!? なんのことだよ! 俺がいつ配信なんてしたよ! 昨日の夜はずっとここで寝てただけだろ!」
「うるさい! お前の目は節穴か!? あんな、あんな酷いことをしておいて、よくそんな平気な顔で……ッ!!」
新輝はあたふたしている朔太郎を乱暴に押しのけ、部屋の中へと突き進んでいく。
「ちょ、ちょっと待てって! 何言ってんだよ! 俺、昨日からここにいて、お前と酒飲んで寝ただけだろ!? 何かしたか? 俺、寝言で御子柴家の悪口でも言ったか!? それとも寝相が悪くてお前にプロレス技でもかけたか!?」
朔太郎はTシャツを半分まくりあげた情けない姿のまま、必死に新輝を追いかけた。
昨夜の記憶を必死に遡る。仕事の打ち合わせを兼ねた飲み会。終電。新輝の優しさ。……そこまでは完璧だ。ブラックアウトもしていない。
だが、目の前の新輝は今にも泣き出しそうな、それでいて激しい殺意を秘めた目でこちらを睨んでいる。
「信じられない……。お前がそんな、……あんなにドSだったなんて……。俺を鎖で繋ぐなんて……ッ」
「鎖!? どこにあるんだよそんなもん! うちの軽ワゴンにも載せてねぇよ! あるなら今すぐ証拠として見せてくれよ!!」
「うるせぇわ! もう俺はお前のこと、一ミリも信じられなくなった!! 絶交だ! 今すぐ出ていけ!」
「いやいやいや!! マジで待て! 意味がわかんねぇよ!!」
狭いひだまり荘203号室。
朝日が差し込む平和なはずの朝に、全く噛み合わない怒号と悲鳴が虚しく響き渡る。
「……とにかく! お前は昨日の夜、俺に……あんなことや、こんなことをしたんだ!」
「してねぇよ!! 記憶にないぞ! 俺、もしかして睡眠時遊行症かなんかか!? だったら病院に連れてってくれよ!」
「俺の心が、この体の記憶が証拠だッ!!」
「そんなもん裁判で通らねぇだろ!! 第一、俺がお前を鎖で繋ぐメリットがどこにあるんだよ!」
「悦んでただろ、お前! あの冷たい目で俺を見て……ッ」
「見てねぇよ!! 昨日の俺は爆睡してお前のイビキすら聞いてねぇよ!!」
新輝の「目覚めの悪さ」という名の理不尽な嵐に、朔太郎の平穏な日曜日は開始数分で無残に崩れ去っていくのだった。
〇―――第三層:平行線の謝罪会見
「……わかった、もういい! 理由は知らんが、俺が悪かった! 謝るからその枕を置け!」
朔太郎は、新輝が武器として構えた「低反発枕」の圧力に負け、ついに両手を上げた。
ひだまり荘の203号室は、わずか数分で戦場と化していた。散らばった雑誌、ひっくり返った座布団。そして、朝から絶叫しすぎて喉を枯らし、肩で息をする美貌の実業家。
「謝るってことは……認めるんだな!? お前が俺を配信して、鎖で繋いで、あんなことやこんなことを……っ、楽しんでたってことを!」
「認めてねぇよ! 一言も認めてねぇだろ!」
朔太郎は、赤々と残る胸元の足跡をさすりながら叫び返した。
「でもお前がそこまで言うんだ、俺が寝ている間に、無意識のうちに……こう、超能力的な何かで、お前の深層心理にログインしてハッキングした可能性もゼロじゃないかもしれないだろ!」
「……はぁ? 何を言ってんだお前。気持ち悪いな」
「お前に言われたくないわ!!」
新輝の冷ややかな視線に、朔太郎は泣きたくなった。
さっきまで「奴隷扱いした」と怒っていた張本人が、急に正気に戻ったような目でこちらを見てくる。この温度差に振り回されるのが、新輝という男の親友でいるための必須スキルだ。
「……いいか、新輝。落ち着いて考えろ。俺がもし、万が一、お前を鎖で繋いだとしてだ。……そんな鎖、この部屋のどこにある? 四駆郎の牽引フックくらいしかねぇぞ。それに配信ってなんだ。俺はエンジニアだが、親友を晒し者にする趣味はねぇ!」
「……でも、夢の中の……いや、お前はあんなに冷たかったんだ! 『お前は俺の玩具だ』って、あの低音で囁いて……っ」
新輝は言いながら、夢の中の朔太郎の声を思い出し、カッと顔を赤くした。
脳裏をよぎる、自分を支配していたあの「冷酷な神谷朔太郎」。その足元で、無様に悦びに浸っていた自分――。
(……あ、だめだ。また思い出してきた。……あんなに、気持ちよかったなんて……っ!)
新輝の表情が、怒りから羞恥、そしてなんとも言えない複雑な「混濁」へと変化していく。それを目の前で見ていた現実の朔太郎は、いよいよ戦慄した。
「おい、新輝……? 顔が真っ赤だぞ。熱でもあるのか? それとも、俺が何か……本当に、お前のプライドをズタズタにするような暴言でも吐いたか?」
朔太郎は、新輝の額に手を伸ばそうとした。
「触るなッ!!」
「うわぁっ! びびった……!」
「お前、……お前なんか、大嫌いだ…っ。…最低だ、変態ドS、……出汁のくせに生意気なんだよ…!」
「はぁ!? 意味わかんねぇよ! なんだよ出汁って……。朝っぱらから俺の腹を全力で踏み台にして駆け抜けておいて、挙句の果てに調味料扱いかよ。せめて人間として扱えよ!」
新輝は顔を伏せ、耳まで真っ赤に染めて肩を怒らせている。
その拳は羞恥を通り越した凄まじい憤りゆえに、ワナワナと激しく震えていた。
朔太郎には新輝が「怒っている」のか、それとも「照れている」のか、あるいは「パニックになっている」のか、判別がつかない。ただ一つ確かなのは、新輝の目が時折自分を「別の何か」を見るような熱を帯びた視線で捉えることだ。
「……あー、クソっ。わかった。とにかく俺が、お前の逆鱗に触れる何かを、無意識に、あるいは霊的に、または宇宙規模のバグでしでかしたんだな。認めるよ。俺が悪かった。神谷朔太郎、一生の不覚だ」
朔太郎は床に膝をつき、大仰に頭を下げた。
「……お詫びに何でもする。新輝様の気が済むまで、俺を蹴っても踏んでもいい。……ただし、顔だけはやめてくれ。仕事に差し支える」
「……、……」
新輝は床に頭を擦り付ける「いつもの、お人好しな親友」の姿をじっと見つめた。
夢の中の、鎖を引いていたあの男とは似ても似つかない。
(……だよな。……こいつ、こんな奴だよな……)
喉元まで出かかった怒りの言葉が、スーッと引いていく。代わりに、夢の中の自分に対する、耐え難いほどの自己嫌悪が押し寄せてきた。
「…もう、いい。…お前、……一回、死んでこい」
「理不尽すぎるだろ!!」
「……うるさい。……喉が渇いた。……コーヒー、淹れろ」
「……へいへい。仰せのままに、新輝様」
朔太郎は肩をすくめ、ようやく嵐が過ぎ去ったことを確信して立ち上がった。
だが、その背中に向けて放たれた新輝の呟きは、朔太郎には到底理解できない、呪いのような一言だった。
「……コーヒー、……お前が淹れると、どうせ温度が高すぎるんだよ……」
「……? 何だそれ、初めて聞いたぞ」
〇―――第四層:日常の苦味と、消えない残滓
ひだまり荘の狭いキッチンで、ガリガリと豆を挽く音が響く―――。
新輝が愛用している安価な手挽きミルを、朔太郎は手慣れた様子で回していた。
「……はいよ。激熱、自己流コーヒーだ」
差し出されたマグカップから、もうもうと湯気が立ち昇る。
新輝はそれを無言で受け取ると、まだ赤らんでいる顔を隠すように熱い液体を一口啜った。
「……っ、熱っ。……やっぱり温度が高すぎなんだよ、お前は」
「贅沢言うな。踏み台にされた奴が淹れたコーヒーだぞ。ありがたく飲め」
朔太郎は自分の分を一口飲み、ふぅと息を吐きながら、まだジンジンと痛む胸元をさすった。胸元に赤く残った新輝の踏み跡は、しばらく消えそうにない。
「……で、落ち着いたか? 『最低のドS配信野郎』こと、神谷朔太郎さんの疑いは晴れたんだろうな」
「……、……フン。お前のそのマヌケな面を見てたら、どうでもよくなっただけだ」
新輝は窓の外、五月の柔らかな日差しが差し込むボロアパートの景色を見つめた。
夢の中の、あの冷徹で支配的な朔太郎。
そして目の前で、寝癖をつけたまま、昨日飲み忘れた発泡酒を冷蔵庫から引っ張り出して「これ、まだ炭酸生きてるかな」なんて言っている現実の朔太郎。
(……全然、違う。……当たり前だ。あんなの、ただの夢だ)
そう自分に言い聞かせるが、指先に残る鎖の感触や、あの時感じてしまった「服従の熱」を思い出すたびに、心臓の鼓動が不規則に跳ねる。
何より恐ろしいのは、現実の朔太郎がふとした拍子に見せる、ふてぶてしくも自信に満ちた横顔の中に、あの「支配者」の面影を一瞬だけ見出してしまうことだった。
「……何だよ。そんなにじっと見て。また俺、何か不吉なことでもしたか?」
朔太郎が怪訝そうに眉を寄せ、新輝の顔を覗き込んでくる。
その距離が夢の中の記憶と重なり、新輝は反射的にマグカップで顔を半分隠した。
「……なんでもない。……お前の顔があまりに『出汁』っぽかったから見てただけだ」
「どんな顔だよそれ。意味わかんねぇゎw」
朔太郎は「お前、マジで変な夢でも見たんだな」と苦笑いしながら、冷蔵庫の残り物で手際よく朝食を作り始めた。
包丁を動かす背中。逞しい肩のライン。
新輝はそれを見つめながら、コーヒーの苦味を飲み下した。
「……朔。お前、……俺を裏切ったりしないよな」
「はぁ? 突然何だよ。裏切るも何も、お前の四駆郎の魔改造、まだ半分も終わってねぇぞ。あと十年はこき使われる予定なんだよ、俺は」
「……そうか。なら、いい」
新輝の唇に、ようやく微かな笑みが浮かんだ。
いつもの、軽口と毒舌の応酬。ボロアパートに漂うコーヒーの香りと、安っぽい幸福。
これが新輝にとっての「本物」の世界だ。
(……でも……)
新輝はマグカップを持つ自分の指が、ほんの少しだけ震えていることに気づいていた。
いつかまた、あの夢の続きを見てしまうのではないか。
そして、いつか現実の朔太郎に対しても、あの「許し」を請うような目で見てしまうのではないか――。
「……よし、メシできたぞ。食ったら今日はどっか遊びに行くか? スケボーでも何でも付き合ってやるよ。……あ、球技は却下な。お前、またボールが小さいって文句言うだろw」
「……うるさい。お前、俺の板もちゃんとメンテナンスしておけよ」
「へいへい、承知いたしました、御子柴様」
そう言って笑う朔太郎の瞳の奥に一瞬だけ、夢の中の「支配者」と同じ光が宿ったような気がして。
新輝は慌てて目を逸らし、まだ熱すぎるコーヒーを無理やり胃に流し込んだ。
自己流で、本格的ではない、苦いだけの朝。
新輝の首筋に残った「見えない鎖」の感触は、心地よい日常のノイズの中に静かに溶けて消えていった。
【完】
最後までお読みいただきありがとうございました。
実は、夢から目覚めた後の二人の「徹底的に噛み合わない会話」をどうしても書きたくなり、その対比を際立たせるために、前半はあえて普段は書かないようなハードな展開から始めてみました。
悪夢の余韻に振り回される新輝と、理不尽に踏みつけられる朔太郎。
そんな二人の、少し騒がしい日曜日の朝を楽しんでいただけたなら嬉しいです。




