第六十六話 義弘の餞(はなむけ)
義弘は一時退院で帰宅した
彼は言う「奇跡の十年の仕上げをやらなくてはならん」
龍口義弘の一時帰宅は四月第三週の週末になった。
その日は、よく晴れていた。朝の気温はまだ五度程度で寒かったが、昼の気温は十五度近くなった。
金曜日の正午過ぎ、義人が運転する車が病院の中央玄関の前に停まった。午前中から病院に来て支度をしていた美和子と看護学校の昼休みの時間に入っていた真貴が付き添って義弘が車椅子で玄関に現れた。
玄関を出ようとしたあたりで義弘は車椅子を押していた真貴に言った。
「真貴、ありがとう。ここで降りて車に乗る」
「おじい様、車のドアの前まで押します」
「いや、私は歩いて玄関を出たい。そもそも医者が用意してなければ、ここまでも歩いてくるつもりだったんだから」
美和子がうなずいたので、真貴は車椅子を停めてブレーキをかけた。義弘はゆっくり立ち上がり、美和子とともに車の後部座席に乗り込んだ。
真貴は玄関で三人を見送り、車椅子を置き場に戻し、午後の授業に向かった。
車が病院から出ると、義弘は運転席の義人に尋ねた。
「もう、桜は咲きはじめているかな?」
「ええ、そろそろです。うちの庭の桜も五部咲というところでしょう」
「では、すまんが寄り道をして帰りたい。苗代桜のある公園に行きたい」
「わかりました」
苗代桜は佐間の外れの丘に一本立ちするしだれ桜で、名前は佐間ではこの桜の開花に合わせて水稲の苗代作りを始めたことに由来する。樹齢推定二百五十年、幹回りは三・五メートルもあり、浅間山を背景に立っている。
駐車場に停めた車を降り、義弘は桜の巨木の方に美和子とともに進んだ。義人が車のドアを閉めて降車し、やや離れて続いた。平日の昼間ということもあり、花見客はまばらだった。
義弘と美和子が立ち止まり、義人が背後に追いついた。
美和子が言った。
「今日は良い天気になって、暖かくてよかったですね」
「そうだな。私がここで、お前に結婚を申し込んだ日も桜が美しい良く晴れた日だった」
義人が少し驚いて言った。
「えっ、ここがプロポーズの場所なんですか?」
「そうだよ。だからこそ、今日、ここに来たんだ」
美和子が言った。
「あれから、もう五十年以上も経つんですね」
「いろいろあったが、いい人生だった。そして、真貴を迎えてからの最後の十年は奇跡のような日々だった」
「……お父さん」
義弘が振り返った。
「さあ、家に戻ろう。明日は奇跡の十年の仕上げをやらなくてはならん」
「わかりました。荷物はすでに届いています」
一時帰宅した義弘を迎えての龍口家の夕食は、穏やかで温かいものになった。圭の用意した料理は、鯉こくだった。佐間の鯉こくは鯉を輪切りにして、味噌で煮込んだみそ汁のような料理で、正月などに健康を祈願するものである。
皆は義弘の病状や真貴の今後に触れることはなく、季節の話題や知佳や結衣からの便りを話題に過ごした。
食事の後、義弘は書斎に入った。机の上には横長い荷物が置かれていた。義弘は送り主を確かめ、包装を解いた。緩衝材で包まれた濃いワイン色の布袋の長い包みが入っていた。濃い緑の房のある紐で口が閉じられている。義弘が紐をほどくと、ほとんど漆黒の拵えの太刀が出てきた。
義弘は太刀の鞘を左手に取り、右手で柄を握り、太刀を抜いた。室内照明の下でもはっきりわかる黄金の刀身が現れた。
義弘は鞘を机の上に置き、左手で柄尻近くを握り、太刀を中段に構えた。軽くゆすってバランスを確認した。
その後、刀身を鞘に収め、太刀を刀袋にしまい、口をしっかり縛って閉じ、緩衝材を巻いて箱に収め、部屋の明かりを消して寝室に向かった。
翌日、土曜日の朝食が終わり、皆でお茶を飲んでいるとき、義弘は真貴に言った。
「この後、道着を着て納屋の方に来なさい」
「はい」
前週のはじめに四角く長い段ボール箱が義弘あてに届き、さらに週末近くなって軽トラが荷物を運んできて、義人がそれらを納屋にしまっているのを真貴は知っていた。この一時帰宅の時期に合わせてのことであろうから、何かあるだろうとは予想していた。
道着に着替えて納屋の方に行くと、義人がすでに作業をはじめていた。納屋の前の少し広い場所に、木製の台が五基並べられていた。義人は、その上に、納屋から運び出した巻藁を立てはじめた。真貴も手伝って五基の巻藁の用意が整った。
義弘が上下濃紺の道着を着て現れた。右手には黒い拵えの太刀を握っている。義弘の顔には生気が戻り、声に力があった。
「真貴、これが私の最後の教えになると思う」
「はい、おじい様」
「これから教えるのは真剣を使って“切る”技術だ。今の世では真剣を抜いて向き合うなどというはないが、千年前なら起こりうることだろう。命をやり取りする場面での技術になる」
「はい」
とうとうこの日が来たと真貴は思った。
「スポーツ剣道でも切る動作は意識するが、真剣で切るとなれば、意識の仕方はまるで違ってくる。刃物は叩きつけても切れない。刃物を当てた瞬間に引くことで切ることができる。だから太刀には反りがあるんだ」
真貴は義弘の目を見てうなずきながら答えた。
「はい」
義弘は巻藁の方に進み、巻藁の状態を確認したうえで、義人に指示して、配置を調整した。
義弘は太刀を鞘から抜いた。春の陽光の中に、黄金に輝く刀身が現れた。
真貴は、普通の刀身が出てくると予想していたので黄金の輝きが目に入り驚いた。義弘は鞘を義人に渡した。
「では、はじめる。よく見ておくんだ」
義弘は左端の巻藁の前に立ち、中段に構えた。
「かぁーっ!」
気合とともに義弘は踏み込み、左手の片手突きで巻藁の最上部を突いた。次の瞬間には太刀を引き、右に踏み出しながら剣先を左から右に旋回させて、巻藁の上端部二十センチほどを切り飛ばした。続いて左に踏み込み刀を切り返して袈裟懸けに中央上部から斜めに切り下げ、最後は再び右に踏み込みながら、ほぼ水平に逆胴の動作で巻藁をまっふたつにした。
二、三秒で行われた動作を、真貴は頭の中で何度も反芻した。気が付くと義弘が肩で息をしていた。
「おじい様、大丈夫ですか?」
真貴が駆け寄ろうとするのを制して義弘は言った。
「真貴、今の動きを再現しろ。はじめはゆっくりでいい。切る感覚を覚えるんだ」
真貴は義弘の右側に並び、慎重に太刀を受け取った。
「まず、中段に構えろ。重さと重心を確認するんだ」
真貴は指示に従って構えた。昨年の湯多神社の例祭の時に、初めて黄金の太刀を手にして、その重量感に戸惑ったのを契機に、練習用の木剣を重いものに代えていたので重量感は気にならなかったが、わずかな不注意でも大怪我につながる抜き身の刃物を握った緊張感が沸き上がって来た。
真貴は足を払って履いていた草履を脱ぎ裸足になった。頭の中で再度、義弘の残像を確認した。
「キェーッ!」
真貴は気合とともに巻藁の上部を狙い左片手突きを繰り出したが、狙いよりも左上を突く結果になった。つぎに、太刀を引いて右に踏み込み、切先を旋回させて、巻藁の上端部を切り飛ばそうとしたが、切こ込みが浅く、切り飛ばせなかった。次の動作、左に踏み込みながらの袈裟懸けは上手くいったが、この動作で剣先が下がりすぎて、逆胴では狙っていた位置よりかなり下を切り払うことになった。
「申し訳ありません。上手くできませんでした」
真貴は剣先を下ろし、義弘にわびた。
「真貴、上手くいかないところもあったが、決して悪い結果ではない。初めて真剣を振るったにしては上出来だと思う。太刀を納めず握ったまま、一歩下がり、型稽古の感覚で、今の動作を反復してみなさい」
「わかりました。やってみます」
真貴は三度、四度と動作を反復した。次第に、無用な力を入れていたところが分かり、刃筋が安定してきた。
義弘から指示が出た。
「よし、もう一度、やってみろ」
真貴は構えて動作のイメージを頭の中で反復した。息を整え、再度、気合とともに左片手突きから動作に入った。突きはわずかにだが逸れた。旋回切りでは、巻藁を切り飛ばせたが刃の当たる位置がやや手前に来てしまった。袈裟懸けはきれいに決まったが、逆胴は水平よりも上側に切り上げるようになった。
「まだまだです」
真貴は自分の出来栄えに満足できなかった。しかし義弘は微笑んでいた。
「真貴、太刀をこちらに」
真貴は注意を払って、太刀を義弘に渡した。
「義人、晒をくれ」
義人が用意していた晒を渡すと、義弘は刀身を晒で丁寧に拭った。その後、太刀を目の高さに持ち上げ、目をこらして詳細に刀身の状態を確認した。
「驚いたなあ。ほんとうにかすり傷も曇りさえ残っていない」
義弘は、義人から鞘を受け取り刀身を納めた。
「義人、すまないが片付けておいてくれ」
真貴が義人を手伝おうとすると、義弘から声がかかった。
「真貴、そのまますぐに座敷に来てくれ」
真貴は汚れた足裏を玄関できれいにし、義弘に付いて座敷に入った。
義弘は太刀を右脇に置き正座し、真貴に座るよう促した。
真貴は正座して座り、手をついて、今日の指導の礼を述べた。
「おじい様、体調がすぐれないにもかかわらず、ご指導ありがとうございました。修練不足で十分な結果が出せず、申し訳ありません」
「真貴、先ほども言ったが、初めて真剣を手にしての成果としては、上出来だ。修練不足ではない。今、修練が始まったのだ」
「ありがとうございます」
「さて、真貴。ここから先がほんとうに大事な話だ」
「はい」
義弘は右脇に置いていた太刀を右手で取って、自分の前に置いた。
「真貴、この太刀を持って行け」
真貴は驚いて言葉を失くした。
「これは湯多神社に奉納されたものとは別の黄金の太刀だ。井桁君から私に友情の証として贈られたものだ。去年の例祭の後で受け取ったが、白鞘の作りだったので、武具屋に黒漆太刀拵にするよう注文していたものが先日出来上がったものだ」
「私がこれを……」
「そうだ。私がお前にしてやれる最後の餞だ。龍神の巫女は黄金の太刀を佩いて顕れたというのが伝承だ。さあ、手に取るんだ」
真貴は太刀を手に取り胸元に抱いた。目から涙が溢れてきた。
義弘が話を続けた。
「これから六月までの二か月足らずだが、この太刀を使って型稽古をしなさい。そして、技量が充実したと思えたら、巻藁切に挑みなさい。まだ、二台、納屋に残してある。真貴なら十分できると思う」
「おじい様……」
「それと黄金の太刀はできるだけ秘しておきなさい。千年前にはあるはずがない武器になるから。そう……命を賭して闘わざるを得なくなるまでは」
「はい、お約束します。お姉さまからも、できるだけ剣を抜いて戦わないように諭されました」
「そうか、知佳も思っていたか……体が動くうちに今日の日が迎えられてよかった。今日はいい日だ」
座敷から見える庭の一角にある桜は、今日の暖かな日差しで開花が進んだようだった。
ついに桜の季節を迎えた
六月まではいくらもない




