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第六十五話 有機農業

千年前の世界に化学肥料はない

真貴は礼司に有機農法を学ぶ

 三月の最終週、結衣が京都から帰省した。真貴は圭の運転する車で駅まで出迎えに行って、三人で義弘の見舞いに行った。


 一人部屋の病室のドアをノックして開けると、美和子も来ていて、二人そろって、窓から佐間の春の風景を眺めていた。

「おじいちゃん、おばあちゃん、ただいま。おじいちゃん、思っていたより元気そう。よかった!」

義弘が嬉しそうに答えた。

「結衣。おかえり。結衣の顔を見ると元気がわくよ」

 美和子も笑顔で答えた。

「結衣も元気そうでよかった」

「あれ、おじいちゃん、その小さな龍はお姉ちゃんのお土産?」

「そうだよ、我が家の守り神だ。これのおかげか、このところ少しいい。来週には一時帰宅ができそうだ」

 義弘は龍の置き物と結衣を目を細めて見ていた。美和子と真貴はその様子をにこやかに眺めていた。


 翌日の昼過ぎ、礼司が車で真貴と結衣を迎えに来た。

 車が走り出すとすぐに結衣が尋ねた。

「叔父様、今日は米作りのための大事な見学ってうかがっていますが、田植えまでは、まだまだ時間がありますよね?」

「そう、田植えまでは時間はあるけど、この時期の作業が収穫量に大きく影響するんだよ」

 真貴が尋ねた。

「今日、おうかがいするところは有機農法で米作りをされているとお聞きしていますが、化学肥料を用いなくても収穫に支障はないのでしょうか?」

「特別な工夫がなければ、一般的には二割程度は減少するといわれているね」 

 結衣が驚いた。

「えっ?!そんなに減るの」

「そうだね。でも、千年前と比べると三倍以上の収穫は十分に見込める」

 千年前の三倍と聞いて真貴は心が躍った。

「その秘密がわかるんですね!」

「残念ながらすべてとはいかないね。稲の品種改良の効果が大きいからね。でも、二割以上の増収は見込めると私は思っているよ」

 

 車は、まだ冬枯れの稲の切り株が残った田んぼの中を走って行く。やがて柔らかい緑の若草で覆われている田んぼが現れてきた。緑の絨毯の中にぽつんぽつんと小さな赤紫の花芽が見えるところもある。

礼司が運転しながら尋ねた。

「結衣、真貴、あの緑の絨毯のような草はなにかわかるかな?」

 結衣がすぐに答えた。

「もっちろん!レンゲソウです。小学校の時、帰り道で摘んだこともあります。満開になるのはまだ先ですよね?」

「その通り。では、この時期なぜ田んぼがレンゲソウに覆われているのかな?」

「えっ、考えたことなかった……きれいだから、観光資源になるから!」

「残念!」

 真貴が答えた。

「たしか肥料になるんですよね。でも、私は不思議なんです。植物を育てると地中の栄養分が奪われるのに、それが肥料になるのが」

「いい疑問だね。今日はそのあたりから勉強することになりそうだね」


 三人が乗った車は田んぼが広がる佐間北部の平野の外れにある一軒の農家の庭に滑り込んだ。大きな農家で、母屋は茅葺の上にトタンで上葺きされている。広い庭の一角には母屋と変わらないほど大きな作業小屋があり、それと並んでトラクターやコンバインなどを収納したガレージがあり、普通乗用車、軽自動車、さらには四輪駆動の軽トラックが置かれていた。


「おおい、タケさーん!」

 礼司が車を降りて、大きな声で母屋の方に声をかけると、ひげ面にゴマ塩頭の七十代くらいの男性が出てきた。グレーのつなぎを着て、作業用のジャンパーを羽織り、長靴を履いている。

「やあ先生、三年ぶりかな」

「もうそんなになるかな。今日は忙しいところ無理を行ってすまんなあ」

「なあに、毎年やってることだからね。そちらの娘さん方かい、有機農法のことが知りたいっていうのは?」

「ああ、俺の兄貴の孫娘とその親友だ」

「龍口結衣です」

「望月真貴です」

「阿部丈雄です。先生とは四十年くらいの付き合いになるかな」

「タケさんは私の米作りの先生のようなもんだよ」

「いやいや、仲間でしょ。我々がやっていて上手くいったことダメだったことを先生が理由を考えて整理し新しいアイデアを出す、それを一年ずつ積み重ねていく、という関係だよ」

 丈雄は楽しそうに笑った。


 礼司が真貴に言った。

「真貴はレンゲソウについて質問があるんじゃないかな?」

「はい。教えてください。中学の時に、田や畑は作物を作り続けると地中の栄養分が減っていくので、休ませながら作物を育てると習いました。でも、レンゲソウは肥料になると聞いています。どうしてレンゲソウは肥料になるんでしょうか?それとレンゲソウが広がっている田んぼと刈り取ったままの田んぼがあります。どうしてでしょうか?」

「こりゃ驚いた。いきなり有機農法の要所の質問が来たね。そうだね、まずレンゲソウは植物の種類でいうとマメ科になるんだが、マメ科植物は他の植物にはない、すごい特徴がある。マメ科植物は大気中の窒素を取り込んで、その根に蓄えることができる。こうやって蓄えられた窒素は植物の体を作るのに欠かせない材料になるんだ」


 結衣も質問した。

「でも、窒素って空気の中にたくさんありますよね。植物も呼吸してるって習いましたが、大気から取り込めないんですか?」

 この質問には礼司が応えた。

「気体の窒素を取り込むことができる植物は存在しない。マメ科植物だって単独ではできない。マメ科の植物は根に根粒こんりゅうという小さなコブを作り、その中に「根粒菌」というバクテリアを住まわせいるんだ。根粒菌はレンゲソウが光合成で作った糖分を分けてもらう。根粒菌はレンゲソウに、空気中の窒素を植物が吸収できるアンモニアにして提供するんだ」


 丈雄が続けた。

「レンゲソウのある田んぼと刈り取ったままの田んぼがあるのは、農業の方法の違いだね。刈り取ったままの田んぼでも水を張るときに硫酸アンモニウムのような化学肥料を使えば土中にアンモニアを供給できる。すごく簡単にできる。レンゲソウは田んぼの土の中に鋤き込まなくてはいけない。手間がかかる。でも化学物質を使わなくていい。有機農法をやるにはレンゲソウはとても大事なんだ」

 結衣が言った。

「つまり、レンゲソウは化学肥料のような効果があるんですね」

「そうだね、大昔から使われている堆肥もアンモニアを含むんだが、レンゲソウほどの量を確保するのは難しかった。レンゲソウは春の日差しで勝手に増えてくれるからね」


 真貴はふと大事なことに気付いた。千年前の世界で自分はレンゲソウを見た記憶がない。この特徴的は花なら春の記憶にあったはずである。

「レンゲソウは日本古来からの植物なのでしょうか?」

「たしか江戸時代の初めごろに中国からもたらされたんじゃなかったかな……」

 礼司が記憶を探りながら答えた。

 真貴は輝いていた光がいきなり消えたように思え、がっかりした。


「それについて、三年前から先生の協力で試していることがあるんだよ。こちらに来てごらん」

 丈雄が広い庭の一角に三人を案内した。そこにはレンゲソウより背が高い草の茂みがありいくつか白っぽい、小さな花をつけていた。丈雄が説明をはじめた。

「スズメノエンドウという草なんだが、マメ科の在来種だ。大昔から日本の野山に生えている。ちょうどレンゲソウと同じく秋に種から発芽して冬を過ごし、春先からしげる。この数年、レンゲソウの代わりにならないかを実験中だ」


 結衣が質問した。

「レンゲソウがあるのに、なぜ代わりを探すんですか?」

「実はね、レンゲソウは種を種子会社から買っているんだ。経済的なこともあるけど、有機農法の精神は、自分らの周りの自然の力で作物を作るってところにあるんで、自生している植物を利用できれば一歩前進になるんだよ」

「タケさん、成果はどんなもんだい?」

「悪くないね。よく茂るのでレンゲソウより田んぼに鋤き込みにくいけど、緑肥としての効きはいい勝負だと思うよ」

 もしかしたら、礼司は三年以上も前から自分のために、この自然農法の取り組みを検討していてくれたかもしれないと気付き、真貴は感謝で胸が熱くなった。


「では、次の授業だ。タケさん、今日は種籾の処理を見せてもらえるんだろう?」

「もう用意しているよ」

 結衣がすぐに質問した。

「種籾って、稲の種子ですよね。前の年に収穫した籾の一部を保存していて、それを蒔くのでしょう?何か『処理』する必要があるんですか?」

「そこんとこを勉強するのが今日の二限目だよ。さあ行こう」


 三人は丈雄の案内で作業小屋に入った。藁の香りや何か肥料らしい匂いが漂っている。丈雄が明かりを点灯すると竹の籠に盛られた種籾と、大きないくつかの容器、さらには測定器具類があった。

 丈雄がこれらを背にして説明をはじめた。

「これから見てもらうのは種籾の比重選別と温湯消毒という二つの工程です。大きな田んぼが対象の時には、処理する種籾が数十キロ以上になるんで手作業じゃあ間に合わないんだけど、今日処理する種籾は、栽培の実験中のものなので一キロほどです。そこで、昔からの手作業でやります」


 真貴が質問した。

「すみません。昔というと、いつごろから始まったやり方でしょうか?」

「その質問には私が答えよう」

 礼司が言った。

「比重選別の方は明治の初め頃、農学校の先生が研究発表したところから普及し出したんだ。温湯消毒の方はかなり昔から試されていたようだが、科学的裏付けが取れたのは十九世紀の終わりだったかな。二十世紀後半になると薬品による消毒が主流になって一時廃れたけど、二十一世紀になると環境負荷がないことで再注目されて急速に普及しているんだ」

 真貴は『これは最新技術だ』と思った。


「では始めます。まず比重選別です」

 丈雄は話しながら作業を進める。大きな白い樹脂製の容器にホースで水を張り始めた。

「元気に育ついい種籾というのは、中身がぎっしり詰まっているんだ。見た目より重い、つまり比重が大きい。ただ、種籾を一粒ずつ体積と重さを測って選別することはできません。そこで水に沈むか浮くかで選ぶわけです」


 結衣も真貴もうなずいた。

「ただ、水の比重だと合格基準が甘すぎるんです。ほとんどの種籾が合格してしまう」

 丈雄は傍らの棚から「精製塩」と記された茶色の大袋を取り出し、さらに中身を樹脂製のボールにとりながら重さを測った。

「そこで、塩を入れて水の比重を高くします」

「えっ?!種籾を塩水につけてもいいんですか?」

 結衣がびっくりして声をあげた。

「短い時間なら大丈夫です。選別後、すぐに水で洗うことが重要です」

 丈雄は測り取った塩を少しずつ水を張った容器に混ぜながら投入した。念入りにかき混ぜてから、ガラス製の棒状の測定器を取り出し塩水の入った容器に入れた。


「これは比重計です。この作業の肝は塩水の比重を一.一三ぴったりに調整することです」

 丈雄は比重計の目盛りを見ながらホースで水を入れ足した。

「これでぴったりです。比重計を確認してみてください」

 結衣もと真貴が容器を覗くと、比重計の緑の帯の真ん中に水面が来ていた。

「うん、ぴったり」

 結衣が呟いた。

「では、種籾を入れます」


 丈雄は比重計を取り出すと、竹籠に入っていた種籾を、何のためらいもなく一気に塩水の入った容器に投入した。棒を使ってかき混ぜると、しっかり沈む種籾と浮いてくる種籾とにきれいに分かれた。丈雄は柄のついた目の細かい笊で浮いた種籾を掬い取って作業小屋を出て、地面に撒いた。

「スズメたちにおやつをやってきました」

 丈雄は底の種籾を逃さないように気を配りながら、塩水の入った容器を傾け、大半の塩水を捨てた。その後、容器にホースで水を注いではかき回し水だけを捨てるという操作を三度繰り返し、最後に竹籠に選別した種籾を移して、手でかき混ぜながら上から水をかけて仕上げた。

 真貴は丈雄の作業の一挙一動を見逃すまいと集中して見学していた。


「次は温湯消毒です」

 丈雄は作業小屋の片隅にある給湯設備のあるあたりに向かった。給湯器の温度を上げて、しばらく捨て湯をしてから四角いバスタブのような容器にお湯を入れはじめた。 戻ってくると選別に用いた白い樹脂容器に水を入れはじめた。次に先ほど竹籠に選別した種籾を、青い目の細かい樹脂ネットの袋にすべて移した。


 待ち時間に入った所で説明が始まった。

「温湯消毒というのは、簡単に言うとお湯の温度でもみ殻についている病原菌やカビ菌を死滅させて、いもち病を始めとする病害を予防するやり方です。稲が健全に育つには、病気から守ることが大事です」

 結衣も真貴も説明に聞き入っていた。

「当然ですが、お湯の温度が低いと効果がありません。高すぎると籾がダメになります。ねらい目は六十度で十分間、あるいは五十八度で十五分間です」


 結衣がびっくりして声をあげた。

「六十度ですか!熱すぎて素手は入れられない温度ですよ」

「ええ、そうです。六十度で十分間という条件は、先人たちが失敗を繰り返してたどり着いたプラチナレシピです」

 お湯が容器に七分目ほど貯まったところで、丈雄は温度計を出して温度を測り始めた。それから作業場の中ほどの石油ストーブの上で温められていた大きなやかんをもってきて、温度の微調整を行った。 

「この作業をやるコツはお湯と水をたっぷり用意しておくことです。湯の量が少ないと、種籾がお湯に入った瞬間に温度が下がりすぎます。水をたっぷり用意していないと、お湯から引きあげた種籾の温度がなかなか下がらず、煮えてしまいます」


 丈雄は分厚いゴムの作業用手袋をつけて片手に種籾の入った樹脂ネットの袋を持ち、もう片方の手で机の上にあったキッチンタイマーを取り上げて、真貴に渡した。

「タイムキーパーをしてください。成功がかかってます」

 真貴は両手でタイマーを受け取り、十分間を慎重にセットした。

「じゃあはじめます」

 丈雄が袋をお湯に浸けると同時に真貴はタイマーをスタートさせた。丈雄は温度計を見ながら、袋をお湯の中で上下左右に動かし続けている。緊張の時間が過ぎて行った。

 結衣がタイマーを横から見ながらカウントダウンをはじめた。

「あと一分……三十秒……二十秒……十、九、八、七、六、五、四、三、二、一」

「今です!」


 真貴は自分でも驚くほど大きい声で告げた。

 丈雄は袋をお湯から出すと、小走りに水の容器に向かい袋を入れてすぐに上下左右に振り動かした。

 結衣と真貴が不安そうな顔をしているのを見て、礼司が丈雄に声をかけた。

「どうだい、上手くいったかな?」

「もちろんだよ。タイムキーパーがよかったからね」

 丈雄が振り返り、歯を見せて笑った。


 阿部丈雄に何度も礼を言って、三人は帰途についた。

「どうだい、面白かっただろう」

 礼司が運転しながら後部座席の二人に声をかけた。

 真貴が答えた。

「はい、すごいものを見せていただきました。緑肥も種籾の処理も素晴らしかったです」

「私、農業がこれほど緻密で科学的だなんて、まったく知らなかった」

 結衣も答えた。

「これが農学ってものだよ。認識が改まっただろう」

 礼司がちょっと誇らしそうに言った。


「でも真貴ちゃん、千年前には比重計も温度計もタイマーもないんだよ。あれほど厳しい条件の作業はできないんじゃない?」

 結衣が不安そうに言った。

「大丈夫だと思います。中学校で習った理科の知識を用いるとできると思います」

「さすが真貴だな。もう、そこまで行きついたか」

 礼司が楽しそうにコメントした。

「えー、中学校の理科?!真貴ちゃん教えてよ」

 礼司が真貴に先回りして答えた。

「真貴、言うんじゃないよ。これは結衣の宿題にするから」


現代の農学を用いるには精密測定器具がいるが千年前にはない

真貴はそれを中学生の理科の知識で実現できるという

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