第六十四話 義弘、政(まつりごと)を語る
義弘の病状は短いであろう安定期にあった
彼は町の危機的状況と向き合った政治経験を語る
三月に入り第二週。龍口家の庭の日当たりのよい場所にある梅の花一輪がほころんだ。
龍口家の当主、義弘の病状は短いであろう安定期にあった。看護学校一年の学年末試験を無事に終えた真貴は時間の余裕ができたので、しばしば義弘を見舞った。
その日、真貴が義弘の個室を訪れると、礼司が来ていた。義弘も礼司も、真貴が部屋に入ると笑顔で迎えてくれた。
「叔父様、いつもご指導ありがとうございます」
礼司は真貴にネットを介して農学や植物学の指導を行っていた。
「おじい様、お庭の梅が咲き始めました。今朝、写真を撮って来ました」
真貴は、スマートフォンで撮影した、少し霞んだ青空を背景にした梅の花の写真を義弘に見せた。
「もう三月も半ば近いな……」
義弘が呟いた。礼司が傍らで無言でうなずいた。
義弘が真貴を見ながら言った。
「真貴、今日、時間はあるかな?」
「はい、大丈夫です」
「幸いなことに、私は今、体調もまずまずだし、頭もはっきりしている。この機会に真貴に伝えておきたいことがある」
「はい、何でしょうか?」
真貴は、義弘のあらたまった態度に緊張した。
「老婆心かもしれないが、小さな共同体の操舵について、私の経験を話しておきたい」
「ありがとうございます」
真貴は椅子に座り、鞄からノートと筆記具を取り出そうとしたが義弘が言った。
「ノートを取るような話ではない。それより、私の話を聞きながら、真貴なりに考えてほしい」
「わかりました」
真貴は鞄を閉じて、両手を膝の上で揃え、義弘の目をしっかり見た。義弘がゆっくり話し始めた。
「とりとめのない話になると思うが……まず、率先してリーダーになろうとはしない方がいい。伝統的な共同体ではリーダーは『経験のある者』が務めるのが共同体のメンバーにとって受け入れやすい。最大公約数として自分たちの考え方や生活のやりかたを代表するものがリーダーとして安心できる」
「だが“未経験の事態”では話が別だ。経験は足かせにもなる。経験型のリーダーは何もできないか、漸進策を取って変化に間に合わないことが多い」
「ただ、このような時でもリーダーを代わるのは望ましくない。必ずや変化を嫌う者たちの反発を招くからだ。このような時はこっそりリーダーに献策するのがいい。経験が役に立たない状況に陥った時、長老型のリーダーは往々にして孤立している。周りにいるのは同種の輩で役に立たない。そこで体制を維持しつつ、体面を保たせつつ、陰から支えて事態に対処させるように仕向ける」
礼司がにやりと笑った。
「兄さんが町長になるまでの話ですね」
「そうだ。あの時はひどかった」
「何があったのでしょう?教えていただけますか?」
真貴は義弘が先々代の佐間町長を務めていたことは知っていたが、町長になるまでの経緯は知らなかった。
「一九八〇年に始まったバブルの崩壊が、この町を混乱に陥れたんだよ」
「日本は一九八〇年代、バブル経済に沸き返っていた。土地の価格が急上昇して資産が急増する、その土地を担保に借金し、さらに土地を買って資産を増やすという狂気の経済連鎖が起きていたんだ。その余波は、この静かな高原の町まで巻き込んだ」
「当時、私は病を得た父の後を継ぐような形で町議会議員になっていた。そのころ、この町が出てくる恋愛映画がヒットし、急激に観光客が増えた。それを目当てにペンションや土産屋が増えてさらに観光客であふれ、道路が大渋滞した」
「高度成長期でも人口流出が続き経済が停滞していた町には起死回生の千載一遇のチャンスに見た。町は道路を拡幅したり観光施設を作ったりに大きな投資を決めた。私は危ういものを感じていて、慎重になるよう主張したが、誰も聞く耳を持たなかった」
礼司がうなずいた。
「今考えれば、バブルの時は皆、おかしくなっていたとしか言いようがない」
義弘が続けた。
「そして、一九九〇年三月の終わりに不動産の総量規制という国策が決まり、バブルが崩壊した。まったく信じられないような変化が起きた。観光客は潮のように引き、事業者は撤退と倒産が続いた。税収は急減し、インフラ投資は宙づりに――財政は破綻寸前だった」
「町長も町議会の古参もまったく対処できず立ち尽くしているような状態だった。あとから考えれば当然だった。彼らが実権を握ってからの十年はバブル経済の膨張期で、何もせずとも好調は維持され成果が上がったように見えていたのだから」
「危機感を共有していた若手議員グループと町役場の若手が連日話し合い、その時の中心人物を町長にして改革を断行する計画を立てた。ところが、これが権力の簒奪に映ったんだろう。古参議員たちは怒りを爆発させ、改革の話し合いどころではなくなった。そこに加えて不倫疑惑が若手議員のリーダーにかけられた。彼は自ら命を絶ち、改革はとん挫してしまった」
礼司が言った。
「あの時の兄さんは、ひどく落ち込んでいましたね。『もう、政治は嫌だ』と言い出して、町議員をやめようとしていましたよね。しかし、そうもいかなくなった」
「ああ。気が付くと私が改革派のリーダーのような立場になっていた。しかし、事態はまったく動かない。そのとき、まだ存命だった私の父が策を授けてくれたんだよ。町長の腹心で町役場の実質的ボスであった副町長と秘密裏に話し合い、事態の打開策を分かってもらえと」
「私は父の仲介で副町長と会った。佐間の町内は避けて長野市でね。副町長は警戒心むき出しだったが、我々が権力の奪取を目的としないことが分かると態度が軟化した。やはり彼らは困っていたんだよ」
「私は若手グループが作成した町財政の長期シミュレーションを説明した。当時の町の幹部は、数字に基づき長期的に考えるという能力は乏しかった。法律にも疎かった。彼らは無自覚で地方債の不正発行、いわゆるヤミ起債をすることまで考えていたんだ」
「私は、今の段階で財政を引き締めないと五年以内に財政破綻することを説明した。副町長は長く黙し、視線を落としたまま、息をひとつ吐いた。『……わかった』。これでかろうじて破綻は免れたが、その五年後に私が町長になるまで思い切った改革はできなかった」
礼司がフォローした。
「バブル期の町の幹部たちが次第に退場していって、結局、兄さんは町政を預かる立場になったんだけど、その時はバブル崩壊後の日本経済どん底時代でね、ずっと苦労し続けることになったんだよ」
義弘が応じた。
「まあ、正当な苦労なら頑張れるんだがね、町長になった私を困らせたのは、町の古い因習だよ」
真貴が不思議そうに尋ねた。
「今の世に因習というようなものがあったんですか?」
「因習は、たぶんどの時代にもあり続けてきたんだと思うよ。何らかの権力構造ができると、それを利用して不当な利益を得ようとする不心得者が現れる。権力側に規範意識に欠ける者がいると付け込まれて不正が始まり腐敗は進んでいく」
「具体的にあったことを教えていただけますか?」
「ああ。まずは町から外注に出す様々な仕事が既得権にまみれていたんだ。建設工事、土木工事、ごみの回収、さらには様々な物品の購入も、談合、随意契約、年末年始の付け届けがセットになっていた。しかも、それが長い期間そのままだったので罪の意識もなく役得扱いだった」
「町の公務員やパート職員の採用さえ、口利きが当たり前だった。町長になってすぐの年末、何人かの親が龍口の家にやってきて、お歳暮を出しながら、子どもを役場で雇ってほしいと言われて、絶句したよ」
「この町立佐間総合病院だってひどいものだった。長期入院や手術を受けるときは、病院職員や医師に『謝礼』を包むのが慣習になっていたんだ」
真貴は病院にそのような因習があったことに驚いた。
礼司が言った。
「まあ、日本の腐敗はまだたいしたことないかもしれないよ。発展途上国の役人ときたら、公務で会うときでさえ、公然と賄賂を要求してくる。ちょっとした許認可を遅らせて、言外に金を要求してくる。それでいて、こちらが彼らの上司や権力者と親しいと分かると、すり寄ってくる。途上国支援では、私も腐敗には悩まされたものだよ」
真貴は因習をなくす具体的方策を知りたかった。
「おじい様はどうやってそのような不正を正していったのでしょうか?」
「まず、町長としての声明を出した。『町は法に則ったきちんとした行政を行う』と。これで、勘のいい者は不正から手を引き出した。そして、私が口利きをはっきり断ったことが伝わって役所の空気が変わってきた。さらに一年間待ったうえで業者に入札予定価格を漏らしていた職員を懲戒処分にした。これで権力側に規範意識はかなり改善した」
「しかしながら、最後まで手を焼いたのは町民に染み付いていた意識だったな。ことに町立病院のスタッフへの付け届けはなかなか手ごわくてね、はじめは院内に『医師、看護師への謝礼は不要です』と掲示していたんだが、ついには『医師、看護師への謝礼や手土産は違法です』と掲示するはめにまでなったよ」
礼司が続けた。
「見方を変えると、民衆はいつも権力に振り回されてきたがゆえに、権力から身を守る術として権力に付け入る隙をいつもうかがうことが当たり前になっていると言えるだろうね」
真貴は大きくうなずいた。
「真貴、なぜ私が政治の話をしたかというと、私はとても心配しているからなんだ。この世界で十年を過ごしたお前から見れば、千年前の村は不合理と不正にあふれたものに見えるだろう。そこでお前が村を良くしようと行動を起こすと、権力者からは反逆の意思がある者、民衆からは自分らのやり方を否定する者に映り、危うい立場に追い込まれるのではないかと私は恐れている」
礼司が続けた。
「私はね、千年前の村人には真貴は、途上国の村人にとっての異世界からの指導者のように見えると思う、ちょうど私のような。村人はなかなか心を許さないのが当たり前だと思っていた方がいい。慎重に振る舞ってほしい。理解には時間がかかるんだ」
真貴は義弘と礼司がどこまでも自分を案じ、手を尽くしてくれることに感謝しきれない思いだった。立ち上がり、深く礼をして言った。
「おじい様、叔父様、政についての教え、ありがとうございます。村に戻ってからのことはいろいろ考えてはいましたが、どうやって村の人々の役に立つか、助けるかというところばかりに考えがいって、自分の立場についての思慮が足りず、政という見方も不十分でした。ほんとうにありがとうございました」
「我々の経験が真貴の助けになれば幸いだ。真貴はいろいろ考えていたとのことだが、具体的にはどのようなことを考えていたのか聞かせてくれないか?」
「はい。私はまずは村の病人や怪我人を助ける者になりたいと考えています。薬師としてはじめることができれば、村の人々からの信頼も得やすいのではないかと思っています」
礼司がうなずきながらコメントした。
「それはいい着眼点だ。どの時代でも、どのような国であっても、自分らの健康と生命を助けてくれるものは歓迎される。そもそも真貴は看護師を目指してきたのだから、いい流れだと思う」
義弘も微笑みながら続けた。
「私もいいと思う。武で得られる信頼より、徳と仁で得られる信頼の方が、はるかに豊かなものになることは明らかだからな」
午後の窓の外は景色が春特有の霞に包まれていた。今日もまた梅の花が二、三輪咲きそうだった。
義弘は言った
「武で得られる信頼より、徳と仁で得られる信頼の方が、はるかに豊かなものになる」




