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第六十三話 学び続ける

平安末期の過酷時代を生き抜くための学びは続く

 知佳を見送ったのち、冬休みの間、結衣と真貴は仁から出された課題に一緒に取り組んだ。


 課題は“筆写”である。平安時代末期から鎌倉時代に書かれた手紙や書状を半紙に毛筆で写しとるというものである。単に書き写すのではない。内容・書式・用語法まで身につけることも課題に含まれている。二人は高校時代の漢文の教科書と“くずし字辞典”とを参考にしながら、地道に課題をこなしていった。


 真貴は今の世に来てすぐに仁から習字の指導を受けたときのことを思い出していた。仁はあの時からすでに真貴が千年前に戻ることを想定していたのだろう。幼い頃に体得した技術を忘れないよう、丁寧に指導してくれたおかげで、今でも抵抗なく毛筆を手に取ることができる。真貴は仁の深慮に感謝した。


 課題を進める中で真貴が驚いたのが「知信記」という一一三六年、保延二年四月十七日の日付がある平家基という宮田村の村司が国府宛に出した「解状」である。平家基はこの文書で国司あてに『様々な夫役を免除してもらうかわりに、「請布所」として、課せられた税はきちんと納めてきた。それなのに、突然「留守所」から神社や朝廷、都での仕事をせよとの命令が来た。このままでは村人も逃げ出し、村として立ち行かなくなってしまうので新たな「雑事」を免除してほしい』と願い出ている。


 村長が国の長に税の交渉ができるのだ、このような書き方をすればいいのだ、と知った時には、仁から出された課題の重要さが痛感できた。


 結衣は慣れない旧字のくずし字に苦しみながらも、何とか筆写を続けていた。

 結衣が驚いたのは仁の学者としての底力である。仁は古語を口頭で使えるだけではなく、歴史にも深く通じている。その基盤になっているのが当時の一次資料を自ら判読できる能力であることを知って、自分が目指そうとしている国文学、歴史学という学問の奥深さを実感していた。


 二人が昼からずっと筆写を続けていると、美和子から声がかかった。

「結衣、真貴、おやつを食べなさい。今日は“おしるこ”ですよ」


 二人が居間に行くと、小ぶりなお椀にたっぷりの“おしるこ”が用意されていた。

「おばあ様、ありがとうございます」

「うわー、美味しそう」

 美和子はソファに腰をおろしながら言った。

「私はね、真貴がうちに来て間もない頃、仁さんの指導であなたたちがそろって習字の練習をしている光景を今でも昨日のことのように覚えているわ」

「私が叔母様に『書は人です』って言われて、習字の練習を頑張り始めたときね」

 結衣がおしるこを一口食べて答えた。

「結衣ちゃんはあの時からどんどん上手になりましたもの」

「あの頃から、叔母様のようになりたいなって思いはじめたんだけど、実際、国文科に入ってみて、叔母様のすごさを思い知ったわ。山登りみたい」

「結衣、なんだか不思議な例え方ね。どういう意味?」

「山ってね、離れたところから毎日見てると慣れちゃって高さの感じとか分からないじゃない。それが、いざ登ろうと思って近づくとすごく大きくて、登り始めると大変じゃない」

「そうねえ、そういわれるとそうかもねえ」

「私は結衣ちゃんの言っている意味、よく分かります」

「さっすが、わがとも」

 三人は楽しく笑った。


 一月の第二週、真貴は看護科の学生として極めて大事な授業を受けるため、松本の信濃大学医学部を、イェイェら同級生たちとバスに乗って訪ねた。授業内容は医学部で行われる系統解剖学実習の見学である。

 真貴たち学生は、看護学校の引率教官の指示で、予防衣を身に付け、前室でご献体下さった方に黙とうを捧げてから、解剖室に入った。実習を進めるのは信濃大学医学部の学生である。


 真貴は遺体、そしてその解剖に平常心で向き合えるか、内心不安だった。千年前の世界では死は日常だった。年に何度も傷を負って亡くなる人、病で亡くなる人を目にしてきた。しかしながら、今の世に来て、真貴は一度も遺体を直接に見ていない。今の世では死は非日常であり、ましてや遺体の内部をつぶさに見ることなど、看護学生になってもリアルに想像したことはなかった。


 解剖に先立ち、医学部の指導教官がいくつかの注意や留意事項を述べたうえで言った。

「このご遺体は、私たちに命の仕組みを教えてくれる先生です。くれぐれも失礼がないように」

 真貴は献体してくれた人に報いようと心を強くし、解剖に臨む決心をした。傍らのイェイェも、マスクをしていても、ひどく緊張して奥歯を噛みしめている様子が伝わって来た。


 医学部における解剖実習は一日では終わらない。大学により進め方は異なるが一か月から数か月かけて、丁寧に少しずつ進めていく。


 真貴たちが対面した遺体は、すでに頸と上肢の解剖は行われており、解剖部位は胸と腹が対象になっていた。

 解剖室にはホルマリンの独特の匂いが漂っていた。解剖中の遺体に近づくと、その匂いは強く、目や鼻の粘膜が刺激され、涙や鼻水が滲んできた。


 医学部生が作業に取り掛かる準備をしている間に、指導教官から看護学校生に頸周りの人体構造の説明があった。

「ここが頸動脈です。動脈の大半は人体の内部を通っていますが、首、手、脚の何箇所かは体表の近くを通ります。脈をとるポイントです」


 胸の解剖が始まった。看護学生が固唾をのんで見守る中、胸骨が明らかになり、その胸骨を外して、肺、心臓が見えてきた。 

 時間をかけて心臓が取り出された。解剖実習を行っている医学部生たちに指導教官が心臓を巡る動脈や静脈のつながりと位置関係を説明するのを看護学生たちも聞くことができた。

 

 真貴はイェイェの顔のこわばりがほぐれたのに気が付いた。皆、少しずつ無用な緊張が解けて、学ぶことに集中できるようになってきていた。

 

 一通りの説明が終わると、指導教官は、医学部生たち一人一人に、心臓を手に取って観察するよう指示した。心臓が医学部生たちの手を一巡すると、教官は看護学生たちにも、心臓を手にするよう指示した。


 看護学生の中では真貴が最初に受け取った。真貴はその大きさが手のひらに載るほど小さく軽いことに驚いた。知識として心臓はその人の拳ほどの大きさであると分かってはいたが、実物を見ると、この臓器が生命活動に必要な血液を休みなく送り出していることが奇跡のように思えてきた。


 真貴は自分の次にイェイェに心臓を手渡した。イェイェは目を大きく見開き、両手で押し頂くように心臓を受け取った。心臓は次々に看護学生たちの手を経て、医学部生に返された。


 看護学生たちは、実質一時間ほどの見学を終えて解剖室を出た。外の空気が清々しかった。 看護学校の引率教官が解剖のこの後の流れを解説した。


 解剖された遺体全ての肉片、骨は、ステンレス製の容器に収められる。解剖室の清掃が済んだ後、解剖を行った医学部生が遺体の部分の一つひとつを棺に収める。納棺を終えると、指導教官が故人の名前を読み上げて札を棺の上に置く。学生たちは、このときになって初めて、生前の名前を知る。全員が起立して黙祷を捧げることで、解剖実習は終わる。


 看護学生たちは黙って教官の話を聞いた。帰りのバスの中でも誰も軽口をきくことはなく、静かに、解剖実習見学は終わった。

 

 一月の最後の週、真貴はポリオの予防接種を受けた。看護科の学生は実習前には、麻疹、風疹、水痘、おたふくかぜ、B型肝炎、インフルエンザの予防接種を受ける。真貴は、それに加えてポリオ、狂犬病、破傷風などの予防接種を五月のはじめには完了させるつもりでいた。


 目的は千年前の世界で、これらの伝染病にかかるのを防ぐことにある。ただ皮肉なことに、平安時代に最も脅威だった疫病、天然痘への対処は二十一世紀では不可能だった。技術的に不可能なのではない。種痘を受ければ十分予防になる。しかしながら、世界保健機関は一九八〇年に根絶を宣言し、ワクチンの生産が終わった。この結果、天然痘のワクチンは医療関係者であっても利用ができなくなったのである。


 千年前の世界に戻った際、様々な疾患や怪我の治療に使える医薬品をどう入手するかについて、真貴は礼司に相談するとともに、学校の図書館で借りた漢方薬のテキストで勉強を重ねていた。この結果、タンポポ、ツユクサ、ユキノシタなどには解熱、清熱作用があること、ドクダミ、ハッカ、ビワさらにはナンテンなどには消毒や殺菌の作用があることなどの知識を得ることができた。


 礼司がもっとも大事な薬草として指定したのは、葛、芍薬、升麻、黄花蒿であった。葛、芍薬の根から抽出した成分を併せると、葛根湯と呼ばれる現代でも用いられる漢方薬の基本構成になる。これに信州地方で山菜としてよく食べられている更科升麻の根茎の生薬を併せると、発疹性発熱疾患である麻疹はしか、風疹、水痘みずぼうそう、痘瘡(天然痘)、猩紅熱しょうこうねつに効果がある。黄花蒿は漢方では解熱に利用されるが、二十世紀になってマラリアに驚異的な効果をもたらすことが発見されている。礼司は、これら四種の薬草に加え、金銀花・蝉退・紫根・荊芥などを取り上げ、補助的に用いることを推奨していた。


 真貴はこれらの薬草一つ一つについて外観、利用法を記載したカードを作り、記憶に刻み込む努力を重ねた。


 ついに二月に入った。佐間の一月末から二月初めは寒さが厳しい。

 午後十時、真貴は勉強の手を休め、ココアを淹れた。優しく甘くほろ苦く、どこか懐かしさを感じながら、カーテンを少し開けて二重ガラス越しに外を見た。凍てつく空に細い月が山の上にかかっていた。例年であれば早く春が来ることを願うのだが、真貴は、今年は時間が過ぎるのが異様に早く感じ、春が来るのが少しでも遅ければと思った。


ついに二月、春が近づくが、

真貴は春が来るのが少しでも遅ければと思った

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