第六十二話 初稽古
義弘はがんの転移が見つかった 病状は思わしくない
家族皆が心が沈む中、知佳がシンガポールから帰ってくる
十月ごろから不調を訴え、佐間総合病院に検査入院をしていた龍口義弘の検査結果は、思わしくなかった。二年前に切除した大腸がんが肝臓に転移していることが確認され、術前の化学療法などを経て、十二月に入り摘出手術が行われた。しかし、開腹してみると予想以上に病変が広がっており、根治切除は困難と判断された。医師からは、今後半年ほどの経過を見込むとの説明があった。
佐間総合病院に併設されている看護学校に通う真貴は、放課後はたびたび義弘を見舞った。
その日も真貴は学校からの帰宅前に、義弘の病床のある個室を訪れた。義弘は食事中だった。
「おじい様、お食事いかがですか?」
義弘はスプーンを置き、真貴の顔を見て小さく微笑んだ。
「正直なところを言うと、ちょっと味が薄いねえ。圭さんには『食事も薬のうちですから』と言われているので、仕方ないとは思うんだがね」
真貴はベッドの傍らのパイプ椅子に腰かけた。
「おそらく、肝臓や腎臓への負担を少なくするための味付けだと思います。すみません」
「いやいや、真貴が謝る話じゃないよ。真貴は、今、いろいろ学ぶことで大変だろう?早く帰って、自分の体をいたわりなさい」
真貴は、義弘の声を聞きながら、胸の奥に小さな痛みと温もりが同時に広がるのを感じていた。
「私はおじい様とお話していると、とても癒されます」
「真貴、すまない。お前の大切な時期に、私が体を壊して、気遣いをさせることになって……」
「そんなことはおっしゃらないでください。私は、まだまだおじい様を頼りにしています」
「真貴、ありがとう」
真貴は洗濯物を預かり、すっかり日の落ちた道を自転車で帰宅した。気温はすでに零下になり、顔に当たる風が痛かった。
昨年までの龍口家の年末は、掃除をするにしても料理を作るにしても、家族全員で新たな年を迎えるための緊張感が漂っていた。しかしながら当主不在の今年は、皆、気持ちが高まっていなかった。陣頭指揮を執っていた美和子は連日病院に義弘を見舞い、町長である義人はもちろん、圭も大きな責任を負う仕事で忙しかった。長男の昌平は米国に行ったままで帰国する見込みはなかった。長女の知佳は帰省の意思は伝えてきていたが、いつになるのかはわからないままだった。
二十三日になって結衣が京都から帰って来た。
結衣は帰宅したその足で入院中の義弘を見舞い、病院に行っていた美和子と一緒に龍口家に帰宅した。真貴も冬休みが始まっており、美和子と結衣を玄関で迎えることができた。
「おばあ様、お疲れ様です。結衣ちゃん、お帰りなさい」
「真貴ちゃん、ただいま。これっ、アッサンブラージュ・ミヤコのクリスマスケーキ!」
「京都のケーキ屋さんですか?」
「そう、超有名店。予約しておいて新幹線に乗る前に受け取ってきたの。私、このケーキを絶対に真貴ちゃんと一緒に食べようと決意していたの」
「私たちも一口もらえるのかな?」
珍しく、早く帰宅していた義人が声をかけた。
「あれ、お父さん、早いね。もちろんです」
真貴は、結衣の声を聞きながら、少しずつ年末の空気が戻ってくるのを感じていた。
十八時ごろ圭が車で帰って来た。
「結衣、帰ってきてるわね。今日は皆で鍋です。結衣、真貴手伝ってね。超特急で作りたいから」
結衣と真貴は圭の車から食材を降ろし、一緒に鍋を仕立てた。
鍋はキノコをふんだんに使い、鶏肉を入れたものだった。礼司にキノコ鍋をごちそうになって以来、結衣も真貴もキノコが大好きになっていた。
鍋を囲み、結衣の京都での生活の話や真貴の学校の話で盛り上がっているときに、結衣のスマートフォンに連絡が入った。知佳からだった。結衣はスピーカーモードにした。
「もしもし、姉ちゃん、どうしたの?」
「結衣、私ね、今、シンガポールのチャンギ空港にいるのよ。どうやらね、キャンセルが出て明日朝一番の便で帰国できそうなの」
「えー、明日はクリスマスイブだよ。そんな日にキャンセルなんてあるの?」
「キャンセルは出るときは出る。私には龍神様の加護があるから」
圭が電話を替わった。
「もしもし知佳、乗るのは明日朝でしょ。今夜はどうするの?ホテルはあるの?」
「空港内で過ごすよ。国際派遣なんかじゃよくあることだから大丈夫」
「明日は何時ごろ着くの?」
「うーん、あとで結衣にメールする。少なくとも、晩ごはんには余裕で間に合うと思う」
「晩ごはんね。何か食べたいもの、ある?」
「そうだねえ……かつ丼、ソースかつ丼を食べたい!」
「わかったわ」
電話を終えて結衣が言った。
「明日の晩ごはんはソースかつ丼?クリスマスイブなのに」
「大丈夫よ。ちゃんとチキンも用意しているから」
真貴は久しぶりに活気づいてきた龍口家の雰囲気が嬉しかった。
知佳が乗った便は十三時過ぎに羽田に着いた。大混雑の空港から新幹線を乗り継いで、佐間の最寄り駅に到着したのは十六時近くになった。知佳は迎えに来た圭の車に乗って、佐間総合病院に義弘を見舞った。圭が事務や会計関係の処置をしている間に知佳は義弘の個室に先行した。
「おじいちゃん、お加減はどう?」
「おお、知佳、おかえり。お前の元気そうな顔を見たら、私も元気が湧いてくるよ」
「これ、お土産」
知佳はトランクの中から小箱を出し、さらに小箱から金属製の龍の置物を取り出し、ベッドの傍らの台の上に置いた。
「龍の置物か」
義弘は龍の置物を見つめながら、目尻を少しだけ下げた。
知佳はベッドの横の椅子に腰かけた。
「そう、我が家のシンボル。街の雑貨屋で見かけて一目ぼれしたの。この子はきっとおじいちゃんを守ってくれる、って」
「そうだな、まだまだ頑張らなくては。知佳も力を貸してくれ」
「もちろんよ。私の来年の初仕事は“一番弟子に最高の稽古をつけること”と決めてる」
「ありがとう。知佳」
知佳は祖父の手に、自分の手を添えた。
「まだまだよ。そうでしょ、おじいちゃん」
「そうだな」
病院を後にし龍口家に戻った知佳は、車の中で、母屋の玄関で結衣と真貴が出迎えていることに気が付いた。知佳は車を降りると小走りに二人に近寄り、両手で二人の妹を抱きかかえた。
「ただいま、結衣、真貴。会いたかったよ!」
「お姉ちゃん」
「お姉さま」
結衣と真貴はそれぞれ知佳の肩に顔をうずめた。
しばらくそれを見ていた圭が言った。
「もう満足したでしょ。知佳は荷物を降ろして着替えてらっしゃい。皆でクリスマスの料理をするから」
「了解でーす」
知佳は車の荷室からトランクを取り出し自分の部屋へと持って行った。
知佳を迎えたクリスマスイブは賑やかで華やかなものになった。
食事が終わり、片付け物をしているとき、知佳は真貴に声をかけた。
「明日朝、庭で型稽古をするよ」
「はい、ありがとうございます。お姉さまは休まなくていいのですか?」
「飛行機の中で、嫌というほど休んだわ。今は体を動かしたい。真貴と稽古をするのを楽しみにしていたんだから」
「はい、私も楽しみです」
翌日、クリスマスの朝、空が晴れ、佐間は放射冷却で冷え込んでいた。
真貴が庭でジャージ姿で木剣を手にストレッチをしていると、知佳もトレーナーを着て木剣を手に現れた。
「お姉さま、おはようございます」
「おはよう!」
知佳は真貴が手にしている木剣が以前使っていたものより長くやや太いことに気が付いた。
「木剣を重たくしたようね」
「はい。真剣を手にする機会があって、重めのものに変えました」
「そうか……」
二人は並んで素振りからはじめ、一時間以上かけて型稽古をした。
知佳は真貴の剣さばきが以前よりキレのあるものになっていることがすぐに分かった。一挙一動にかける集中力が向上していた。
稽古が終わった。
「真貴、これから大晦日まで毎日稽古をするよ」
「はい、ありがとうございます」
「そして、正月の朝に防具をつけて初稽古をしよう。本気で動けなくなるまで地稽古をする」
「はい。思いっきり、お姉さまの胸を借ります」
「うん。私も思いっきりやる。もしかすると、今の真貴は、これまで対戦してきた誰よりも強いかもしれない」
冬の朝日の中で、知佳は汗を拭きながら白い歯を見せて笑った。
年が明けた。元旦の朝六時、知佳と真貴は剣道教室にいた。
道着を着た二人は、神棚に礼をして、素振りをはじめた。室温は零下に下がり、道場の床を踏む足は、はじめは冷たさに感触を無くしそうだったが、体が温まってくると、冷たさが心地よく感じられてきた。
十五分ほどの素振りの後、二人は黙ってうなずき合い、防具を着けた。そのまま、試合場の枠線が引いてある場所に移動し、開始線に向かい合って、そんきょの姿勢を取った。知佳が、すくっと立ったのに合わせ、真貴も立ち上がり、ともに中段に構えた。
「キェーイッ!」
冷気を震わせる知佳の気合で地稽古が始まった。
知佳は真貴の精神的成長を感じていた。これまで向き合って最初の一声をかけると、真貴は呼応して緊張感を急激に高めていた。しかし今日の真貴は落ち着いている。肩も脚も無用な力は入らず、柔軟に対応できる余裕が見える。知佳はさらに気合をかけて、最小限の動きで小手打ち面を取りに出た。
真貴は小さくステップバックし、小手を外しながら、次の瞬間に膝を柔らかく使い、知佳の左側に体を低く保ちながら入り、逆胴を放った。
知佳は右面を打とうとした位置より下に真貴の頭がきて、逆胴を取られそうになっていると気付き右に逃れながら、竹刀を右面に回し打ち気味の面を狙った。
真貴の逆胴と知佳の右面が同時に当たったが、打突音は鈍く、いずれも有効打とは言えない浅い当たりになった。
二人は素早く離れ、向き直った。ともに動悸が高鳴り、呼吸が乱れていた。
知佳は真貴の成長に目を見張った。真貴は会心の逆胴が決まらず、知佳の技量の高さを、いまさらながら思い知った。
二人は二十分近く地稽古を続けた。最後は鍔迫り合いのまま、互いの脚が交差し、そろって転倒した。二人とも息が荒く、なかなか立ち上がれなかった。
「真貴、一休みしよう」
「はい、お姉さま」
二人はそろって壁際に控え、面を取って汗をぬぐった。全身から汗が吹き出し、練習場の寒気が、むしろ心地よかった。
「真貴、ほんとうに強くなったね」
「お姉さまのご指導のおかげです」
「私は正直に言うと、真貴が強くなるのが恐ろしい。千年前に戻って強敵に出会っても、真貴は弱者を守るためなら、正面から立ち向かいそうな気がするんだ」
「お姉さま……」
「できるだけ剣を抜いて戦わないでほしい。生きながらえてほしい」
「……胸に刻みます」
「私は矛盾しているよね。でも、稽古は続けよう。再開できる?」
「はい、お願いします」
二人はさらに地稽古を続けた。
疲れ果てて龍口家に戻ると、圭が待っていた。
「おかえりなさい。いい稽古ができたようね。風呂を沸かしているから、入ってらっしゃい。それから“おせち”を、皆でいただきますから」
穏やかな正月の朝が始まった。
知佳は三日の朝に、羽田経由でふたたびシンガポールに向かった。結衣と真貴は新幹線駅まで同行して、別れを惜しんだ。
知佳は言う
「できるだけ剣を抜いて戦わないでほしい。生きながらえてほしい」と




