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第六十話 特別講義、軍事史(一)

真貴と結衣の学習は続く

仁の夫で著名な歴史学者で、東洋の軍事史研究の大家、藤森達志と龍口家に来た

 十一月に入った。樹々が色づき、佐間の空気は急速に冷たくなってくる。


 真貴は仁や礼司から渡された資料の勉強に加え、看護学校で解剖生理学、病理学などの科目、さらに基礎看護学実習Ⅱが始まり、寝る間も惜しいほど忙しかった。しかし、そんな日々であっても、真貴は龍口家における自分の役割は果たしたかった。

 

 今年も、圭がJAから干し柿にする市田柿を大袋で買って来た。真貴は居間で美和子と並んで柿剥きをはじめた。美和子が真貴に言った。

「真貴、あなたは寝る時間も削って勉強しているでしょ。もう、今年はやらなくていいから」

「おばあ様、私は、こうやってご一緒に柿を剥いていると心が安らぐのです。けっして無理してやっているわけじゃありませんから。それに、この秋が……」

「真貴、わかったわ。一緒に剝きましょうね」

「はい、おばあ様」

 二人は黙って柿を剥き続けた。


 十一月最後の勤労感謝の日を含む連休前日の夜に、結衣が京都から帰って来た。真貴は母屋の玄関で結衣を迎えた。

「結衣ちゃん、お帰りなさい」

「真貴ちゃん、ただいま」

 二人はしばらく見つめ合い、どちらからともなくハグした。結衣が真貴の耳元でささやいた。

「もう、半年しかないね」

「まだ、半年あります」

 ハグを解いた結衣に真貴が言った。

「お母様が、暖かいシチューを用意してます」

「嬉しいな。真貴ちゃんも食べる?」

「はい、一緒にいただきます」

 二人は母屋の台所に向かった。


 翌日の午後、仁が夫の藤森達志と龍口家に来た。藤森達志は引退した歴史学者で、東洋の軍事史研究では大家とされていた。


 達志に真貴の実情を告げると話が面倒になるので、仁は達志に、同立舎大学の国文科に通う龍口家の末娘が平安時代の勉強に熱心なので、自分が苦手とする軍事史を教えてほしい、末娘の親友で歴史と古武術に興味のある友人も同席したがっていると要請したところ、達志はよろこんで引き受け、今日の講義に至ることになった。


 講義の場所はいつもの通り龍口家の居間である。結衣と真貴が「藤森達志」という名前を事前にネットで検索したところ、京都大学の人文科学研究所長を務めたすごい学者とわかり緊張していたが、現れたのは、形の良い禿げ頭の気さくな好好爺というべき老人だった。

 

 仁が二人に達志を紹介した。

「今日の講師を紹介します。歴史学、特に軍事史の研究家、そして私の夫の藤森達志です。世の中では大家と呼ぶ人もいるけど、教えることが大好きで、猫にでも講義するような先生と思ったらいいから」

「仁さん、素敵な紹介ありがとう。こんな感じで講義するのははじめてだけど、なんだかいいね」


 達志は楽し気な様子で、テーブルをはさんで結衣と真貴の前に座った。達志はA4判で十枚ほどのレジュメを用意していた。それを結衣と真貴、さらに仁にまで渡した。


「二人とも、高校では日本史を勉強していたと聞いているけど、そうかな?」

 結衣と真貴が「はい」と答えると、達志は機嫌よく話をはじめた。

「了解。では、まずは“平安時代から鎌倉時代までの軍事史の大きな流れ”についてお話ししましょう。といっても、難しい話ではありません。戦いの形がどう変わってきたか――それを、制度、武器、戦術の三つの視点から見ていきます」


「まず、平安時代の初期。この頃はまだ律令制の名残があって、国家が軍団を編成する仕組みがありました。ですが、桓武天皇の時代になると、軍団制度は形だけのものになり、実際には地方の国司や豪族が、自分の土地と人を守るために“私的な武力”を持ち始めます」

 真貴は勢多にいた頃、父から聞いた望月家の来歴を思い出していた。望月家は寛平の御代、八九〇年頃に国府を守る武者のお役目をいただき信濃から上野に移ったと聞いている。まだ朝廷が国府に軍団を置いていたのだろう。その後、将門の乱のあと、勢多に逃れ、落ち着いた後、代々村長を務めていたのは、豪族になったということだったのだろうと理解した。


「十世紀に入ると、荘園が広がり、在地の武士団が育ってきます。彼らは数十人から数百人の兵を集め、食料も武器も自前で持って戦場に向かいました。戦いは計画的ではなく、遭遇戦が多かった。つまり、“出くわしたら戦う”というスタイルです。この時代の戦争は、短期決戦が基本でした。長く戦える体制がなかったんですね。そして十一世紀の白河院政期になると、寺社勢力や荘園領主も武装化し、地方では国衙領つまり国の直轄地と荘園いわば私有地をめぐる争いが頻発します。」


 真貴ははじめて村が襲われた時のことを覚えていた。村はずれで襲われた人々が父のもとに逃げてきた。父と叔父は、刀と弓矢を持ってすぐに駆けだした。最初の襲撃は撃退できたが、その後も襲撃は繰り返された。


 結衣が質問した。

「では、十世紀頃には朝廷は地方の治安を守らなくなっていたんですね?税金は集めるくせに」

「国衙領については、そういってもいいでしょう。例外もありますが、ここ、信濃の国では松本におかれていた国府に国司が来なくなり、地元の役人への実務委任が常態化していました」

 真貴が質問した。

「では民衆はどうやって身を守ったのでしょう?」

「いい質問です。ひとつの方法は公民の身分を捨てて寄人よりうどとなって自前の兵を持つ荘園に逃げ込みました。今の世界でいうと、内乱が続く国で、民衆がとりあえず治安が維持されている武装集団の支配地に逃げ込むようなものです。もう一つは民衆自身が武装して自分らの身と土地を守るようになりました」

 真貴は仁を見た。仁は小さくうなずいた。以前に仁は、農民が武装し自治自衛能力を身につけ、苛政に立ち向かう可能性を教えてくれていた。『歴史的事例があるんだ』と真貴は気持ちを強く持とうと思った。


 達志の講義は続く。

「白河院政期が終わると武士団の規模がさらに大きくなり、戦いも複雑になっていきます。そして十二世紀。源氏や平氏という二大集団が、中央政権をめぐる軍事的な覇権争いを始めます。この頃になると、軍の規模は数千から数万に達し、戦争は“作戦”と“兵站”を考慮した計画的なものになります。つまり、“どう戦うか”を事前に考えるようになったわけです」

 結衣が質問した。

「源氏と平氏の争いの話は日本史でも出てきましたが、日本国中の武士がいずれかに加わったのでしょうか?」

「そういうわけではないですね。当時人口の多かった関東の源氏のグループと、畿内の平氏グループが戦いましたが、これには加わらなかった豪族はいくらでもいます。それと、源平の戦いは領地を巡る戦いではなく、“天皇”という日本国の覇権の奪い合いの性格が強いです」


 結衣と真貴がうなずいたのを見て、達志は講義を続けた。

「この流れの中で、戦場の様子も変わります。平安中期までは、一騎打ちが基本でした。武者同士が名乗りを上げて、正々堂々と戦う。ある意味牧歌的なものでした。でも、平安末期から鎌倉時代にかけては、騎馬の指揮官と徒歩の兵士による集団戦が主流になります。この集団戦のスタイルは、南北朝時代まで続いていきます。

つまり、軍事の流れはこうです。レジュメを見てください」

 達志が用意したレジュメには次のように記されていた。

“国家の軍”から“私的な武力”へ。

“遭遇戦”から“計画的な戦争”へ。

“一騎打ち”から“集団戦”へ。


「では、レジュメの次のページに進みます。ここからは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、武士たちが実際に使っていた武器についてお話ししましょう。この時代は、戦いの規模が大きくなり、戦術も複雑化していきます。それに伴って、武器も進化していくんですね」

 達志は真貴に質問した。

「望月さんは、古武術に興味があるということでしたね。何か体験されたこと、ありますか?」

「はい、剣道をやっていました。先月、はじめて薙刀を体験させていただきました」

 結衣がフォローした。

「それだけじゃないです。真貴は去年、流鏑馬を成功させました!」

「素晴らしい!まさにこれから話す内容を網羅しています。嬉しいですね、体験者に歴史を語れるのは」


 達志はますます上機嫌で講義を続けた。

「まずは弓です。この時代、狩猟用や戦闘用として使われる弓は、七尺――約二メートル程度のものが主流でした。非常に高い威力を持っていて、最大射程は二百メートル以上、有効射程でも五十メートル以上ありました」

 真貴は去年、初めて弓を手にした弓の重さと長さを思い出した。

「本体の素材は、この信濃近辺で採れた「峰棒」(みねばり:カバノキ科の落葉高木)、「檀」(まゆみ)や「槻」(つき)などの樹木が用いられています。この時代、さらに竹を外側に張り合わせた“伏竹弓”や、内外両面に竹を貼った“三枚打ち”などが登場し、威力を保ちつつ、より遠くへ矢を飛ばせるようになります。弓は、騎馬武者の主力武器であり、遠距離からの先制攻撃――いわゆる“アウトレインジ戦術”の要でした」

 真貴は、流鏑馬をはじめた際に走る馬の上で弓矢を取り回すことができるまで苦労をしたこと思い出した。

 結衣が手を上げて質問した・

「“アウトレインジ戦術”って何でしょうか?」

「おお、失礼。戦術用語です。要するに敵の武器が届く範囲の外から攻撃するやり方です。この戦術は現代でも重要で、より射程の長いミサイルや砲を開発する動機になっているんです」

 

 結衣がうなずき講義が再開した。

「では、次は刀です。古代の刀は直刀でしたが、平安中期以降、戦いが徒歩戦から騎馬戦に移ることで、反りのある刀が主流になります。片手でも馬上で抜きやすく、振り下ろして斬るのに適していました。刃長は約七十五から七十八センチほどで、細身で優美な姿をしており、先端は小さく尖り、刺突にも適していました」

 真貴は井桁高久が再現した黄金の太刀を思い出していた。まさしく達志が説明する通りの仕様であった。


「そして薙刀ですが、薙刀は、平安時代に登場した長柄武器で、多くは刃長四十センチ前後、柄の長さが九十から百八十センチといところですが、とてもバリエーションが多いです。薙刀は、騎馬武者に対抗する徒歩兵の武器として有効で、柄尻や柄そのものも攻撃に使える点が特徴です」


 結衣が質問を思いついた。

「武蔵坊弁慶が使っていた武器ですよね?」

「そういわれていますが、実は弁慶そのものが、ほんとにいたのかどうかわからないんです。ただ弁慶のような僧兵が好んで使っていた武器であることは確かです。そうそう、四国の今治にある大山祇神社には、弁慶が使ったという刃長だけで約百六センチもある薙刀の刃が奉納されています。ただですね、この薙刀に柄をつけると全長は三メートルを越える上に重心が刃側に偏るので、武器として使えたかどうか疑問なんですよ」


 真貴は東京の竹本道場での薙刀体験を思い出した。先端の物打ちが竹である薙刀竹でさえ、武器として振り回すのは厳しかった。先端に重たい鋼鉄の刃をつけた場合、破壊力は大きくても俊敏性に欠けることは確かだった。

 達志が説明を補足した。

「鎌倉時代には、柄が約百二十センチ、刃が約九十センチ、総長は約二百十センチのものが主流となってます。これくらいが、機動性と威力のバランスが取れて、実用的だったと思います」


「防具についても触れておきましょう。レジュメの次のページを見てください。この時代の防具には、大鎧と胴丸があります」

 レジュメには二つの鎧のイラストが描かれていた。

「大鎧は上級武士が騎馬戦で用いるもので、重厚で威圧感があります。源平の大河ドラマで主役級が着ている派手な鎧がそうです。ちなみに、私も監修にかかわったことがあります」

 達志はちょっと自慢そうに言った。


「一方、胴丸は中級・下級武士が徒歩戦で使うもので、着脱が容易で機動性に優れています。戦闘の規模が大きくなるにつれて、上級武士も胴丸を使うようになり、戦闘様式が徒歩戦中心に移っていくと、両手に籠手を嵌めるスタイルが一般化していきます。つまり、武器と防具の変化は、戦い方の変化そのものなんです。騎馬戦から徒歩戦へ。個人戦から集団戦へ。武器は、ただの道具ではなく、戦術と思想の反映でもあるんですね」


 真貴は、自分の父と叔父が着ていたものが胴丸だと分かった。山中で野盗に襲われたとき、二人とも胴丸を着用していた。信濃にたどり着いた時も、父は胴丸を着たままで、叔父の胴丸と刀を担いでいた。信濃で父母と暮らしていた時、それらの武具はまだ大切に保管されていた。自分が生贄に立った後、あの武具はどうなったのか……真貴は何とも言えない気持ちになった。


藤森達志の講義は続く…

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