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第五十六話 特別講義、生き抜くための農学(一)

礼司は真貴に「生き抜くための農学」を教える

真貴と結衣のフィールドワークが始まる

 真貴の通う看護学校では、一年生の九月半ばから初めての実習「基礎看護学実習Ⅰ」が行われる。真貴もイェイェも実習に臨んだ。イェイェは一時期の頑なさが和らぎ、ときおり笑顔も見せるようになっていた。


 真貴が初めての実習で学んだ最も重要なことは、五感を使って患者さんと向き合うことであった。患者さんの体温や血圧は機器によって知ることができ、重要なデータではあるが、指導に当たったベテラン看護師は、血色、声色、動き、さらに体臭にまで気を配っていることを知った。千年前の世界には体温計も血圧計もない。真貴は千年前の世界で患者と向き合った場合を念頭に指導を受けた。


 真貴の毎日は学ぶことで大変だった。看護学生の勉強は授業だけでは終わらない。予習復習が必要であり、レポートの作成もあった。仁から与えられた平安末期の社会と歴史に関する課題もあった。さらに、礼司から農業にかかわる課題が与えられた。ただ、実際に礼司からの課題に臨むと、すでに小学校の頃からときおり礼司が教えてくれていた佐間の農業の歴史や、食用や薬用の野生植物の利用法などが多く、礼司がずっと前から真貴のために準備を整えていたことが分かった。


 十月二週目の連休を前に、結衣が京都から帰って来た。翌日から二日間、礼司が真貴に行う泊りがけでのフィールドワークに結衣も参加するためであった。

 その日の夕食は結衣のリクエストで“むしり”になった。若鶏を外はパリッと、中はじゅわっと焼き上げ、これを“むしり”ながら食べる料理である。


 結衣が食べながら真貴に尋ねた。

「真貴ちゃん、前に聞いたことがあるかもしれないけど、平安時代の鶏料理ってどんな感じだったの?」

「私が知っているのは、山鳥とか鶉とかを火で炙ったものです。今食べている“むしり”に近いんですが、これほど美味しいお肉ではないですし、味付けも塩だけだったと思います」

「あれ?"むしり"の味付けって塩だけじゃないの?」

 圭が答えた。

「結衣にはわからないかな?これ、胡椒がふってあるし、実は隠し味で砂糖を少し使っているの」

「えーっ、そうなんだ」

「平安時代には、砂糖も胡椒もないですし、味噌も醤油も唐辛子もありませんでした。だから、味わいは、素朴というか単調なものになります。ただ、皆、お肉を食べることができれば、それだけで満足でした」

「そっか……そうだよね。厳しい時代なんだから」


 圭がフォローした。

「平安時代の終わりころの庶民の食事は、粟とか稗とか麦とかのお粥が主で、副食とか栄養とかの考え方はなかったんですからね」

「ええ、とにかく食べられることがすべてでした。この時代に来て、栄養とか健康とかの知識を得てみると、タンパク質やカルシウム、ビタミンが全く足りていません。だから、皆、病気や怪我への抵抗力が少なかったと思います」

「明日からの叔父様のフィールドワークは、そのあたりを補うのが目的の一つって言ってたよね?」

「そうです。少しでも食生活を改善できる知恵が欲しいです」


 翌朝、結衣と真貴とが朝食を終え、一泊旅行の準備を整えているところに礼司がやって来た。居間に上がって来た礼司に、美和子がお茶を出しながら挨拶をした。

「朝早くからありがとうございます。今日は二人をよろしくお願いします」

「いやいや、年寄りは早く目が覚めちゃってね。今日は私も楽しみにしてました。しかも結衣までが参加を希望してくるとは予想外でした」

「結衣は、少しでも真貴と一緒にいたいようですし、真貴がこれから行く世界のことを身をもって知りたいようです」

「楽しみにしているようですが、今日はハードかもしれませんよ」


 義弘が居間に現れた。

「おお、兄さん。おはようございます。この頃、体調はどうです?」

「おはよう。心配かけてすまないな。やはり好調とはちょっと言いにくくてね。来週は検査入院だ」

「大事にしてくださいよ」

「まったくだ。まだやるべきことがあるんだから」

 玄関の方から結衣の声が聞こえた。

「叔父様、用意ができました」

 礼司は立ち上がった。

「では行ってきます。明日の午後三時くらいには戻ると思います。途中で電話連絡しますから」


 礼司の車の後部座席に結衣と真貴は座った。車は龍口家の庭先から緩やかな坂を下り、秋晴れの空の下、実りを迎えている田んぼの中の道を進む。

「叔父様、今日の予定を教えていただけますか?」

 結衣が礼司に尋ねた。

「まずは、和紙の紙すきをやっている工房に行こうと思う。紙すきの体験の予約をしている。それから伊那の方に行って食事、午後はキノコ狩りができる民宿の予定だよ」

「すごく素敵なプランだわ。まるで長野県おすすめの観光プランみたい」

「そんなに喜ばない方がいいかもだぞ」


 一時間半ほどで最初の目的地である紙すきの工房に到着した。礼司はまず工房の周りに植えられている低木に二人を案内した。

「これは何という植物かわかるかな?」

 結衣は真貴を見た。真貴はためらわずに答えた。

こうぞだと思います」

「正解だ。これが和紙の原料になる。楮は長野県の低山にはあちこちで見ることができる」

 結衣はなぜ紙すきの工房に来たのか不思議だった。

「叔父様、今日は食べ物と農業のフィールドワークじゃないんですか?和紙は素敵だけどちょっと違うような……」

「製紙業は今では工業だが、昔は農産物的な位置づけだったとも言えるんだよ。原料は植物と水だけだからね」

「でも食べ物じゃないですよね?」

「平安時代末期、紙は公事や雑役の代納品として高い価値があったんだよ。農産品の代わりに納めれば農産品を納める量は少なくて済む。雑役の代わりに納めれば、農繁期に大事な人手を取られなくて済む。紙の生産に最適なのは冬の寒い季節だ」

「そうか、食べ物と人手をキープして、農業が忙しくない冬場の労力が活用できる」

「しかも女性でも男性に劣らない生産性を実現できる」

 真貴が発言した。

「私が知る限り、昔は紙はとても貴重で、村ではお経が書いてある経典くらいしかありませんでした。自分らで紙を作ることができれば、きっと村の救いになります」

 礼司が予約していたため、結衣と真貴はほとんど待たずに紙すきを体験できた。真貴は工房にあるあらゆる設備や道具類、指導者のやり方などを一つ一つ記憶に刻もうと懸命に観察した。


 紙すきを終えて三人は伊那谷に向かった。結衣が楽しそうに言った。

「叔父様、伊那での昼ごはん、楽しみです」

「結衣、今回のフィールドワークの最難問は、今から行く昼ごはんだよ。平安時代の佐間で、栄養として圧倒的に不足していたタンパク質とカルシウムを何とかするための食事を体験に行くんだ」

「すごい!さすが叔父様」

「だから、最難問なんだ。繰り返すけど、そんなに喜ばない方がいいかもだぞ」


 礼司の運転で車は伊那市の繁華街の中の駐車場に入った。

「これから行くのは私の知り合いの居酒屋さんだ。普段は夕方からしかお店を開けないんだが、特別に昼ごはんを用意してもらったんだ」

 礼司が先頭に立って、二人が後にしたがい、飲食店の並ぶエリアに入った。やがて礼司は居酒屋「伊那正」と看板が掲げられた店の前で立ち止まった。店の入口の傍らには「伊那谷名物三大珍味」という幟が立ててあった。暖簾は出てなかった。


 礼司が店の引き戸をノックして「俺だよ」と声をかけると「開いてるよ」と返事があった。店に入ると板前の格好をした礼司と同世代の男性がカウンターの奥で待っていた。

「先生、久しぶりだね。そちらが話に出ていたお嬢さん方かい?」

「そうなんだ。悪いねえ、丸山さん。時間外に開けてもらって」

「外ならぬ先生の頼みだからねえ。連絡にあった通り三大珍味メインで定食を準備してるよ」

「ありがとう、早速いただくよ」


 三人はテーブルに着いた。やがて丸山が定食一人分ずつをトレイに載せて運んできた。

「じゃあ、お嬢さん方、説明しよう。これが、ざざ虫の天ぷら、これは蜂の子の炒りもの、そしてこれがイナゴの佃煮、これで伊那谷名物三大珍味のそろい踏みだ」

 結衣は驚いて目を見開き礼司を見てそれから真貴を見た。礼司は面白そうにニヤニヤしている。真貴は困った顔をして結衣とは目を合わさないようにしていた。


「真貴ちゃん、もしかして、昼ごはんがコレって知ってたの?」

「ええ、私は栄養のことを叔父様に相談したら昆虫食なら問題解決になるかもとうかがって、食べてみたいと希望しました。結衣ちゃんに言った方がいいかなと思ったんですが、今日、朝から結衣ちゃんが、あまりに楽しそうで言い出しにくくて……」

「真貴ちゃん、これ、食べるの?!」

「はい、私が希望したものですから」

 礼司が結衣に助け舟を出した。

「結衣、無理だったら、丼物でも頼んでいいぞ」

 結衣は、三秒間ためらったが、きっと顔を上げて宣言した。

「もちろん食べます。真貴ちゃんが食べるのに、私が食べないなんてないです」

 結衣は、ざざ虫の天ぷらの一切れを箸でつまみ、天つゆにくぐらして口に放り込んだ。思い切って噛んでみたが、その味と触感はまったく悪くなかった。

「あれ?なんだか小エビの天ぷらみたい」

 真貴も口に運んでいた。

「美味しいです」

 礼司が食べながら言った。

「まあ、食べなれないものって勇気がいるけど、食べてみたらどうってことないのが大半だから」


 結衣と真貴は、蜂の子もイナゴも食べたが、いずれも美味しかった。食べ終わると、丸山が新しいお茶を持ってきた。

「お嬢さん方、頑張ったね。さすがに先生のお弟子さんだ」

「丸山さん、昆虫食について、ちょっと解説してくれないかな。結衣、真貴、丸山さんは国際連合食糧農業機関のスタッフが来た時も昆虫食を提供して、解説をした人なんだよ」

「先生、あまりハードル上げないでくださいよ。えーっと、伊那の昆虫食っていうのは、いつごろからなのかわからないくらい歴史が古いんですよ。長野県はご存じの通り、海無し県で、小魚が手に入らないもんで、それを補うものとして伝統的に食べられていたんですよ」


 真貴が質問した。

「昆虫食はタンパク質に加えてカルシウムも豊富と聞きましたが、どの程度摂れるんでしょうか?」

「たしかねえ、調理法にもよるけど、イナゴだったらシラスと変わらないくらいタンパク質、カルシウムもが摂れると聞いてますよ。そうそう鉄分やビタミンA、B2なんかも豊富らしいです」


 礼司がフォローした。

「昆虫食は今や世界のトレンドになりつつあるんだよ。タンパク質を作り出すのに必要なエネルギーは肉類の数分の一、可食部分は倍以上だから効率がいいんだ」

 結衣が面白そうに言った。

「最先端の食料学が千年前の栄養問題を解決するかもなんだね」

 丸山がきょとんとしているのを見て礼司が言った。

「“千年来”の栄養問題だよ」


昆虫食を試食した二人は、次はキノコ狩りに向かう

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