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第五十四話 護身術(二)

護身術の実技が始まった

少し武道をやった経験など、実戦では役に立たない

三河の言葉は厳しい……

 翌朝の九時から、ビルの三階にある広いフロアで、護身術の訓練が始まった。指導員の三河、日向、因幡はいずれも七分袖Tシャツにロングパンツのジャージを着て、スニーカーを履いていた。受講生たちも、各々、運動に適した服装で集まっていた。


 受講生たちは、まず、短いビデオを見せられた。東京で起きた無差別殺人事件の犯人が警官に逮捕されるまでの検証映像だった。これを一通り見た後、三河が解説した。昨日の座学の時とは三河の口調が変わっていた。


「素人でも刃物を持つとどれほど危険か分かったと思う。事件後の実際の警官の映像出せるか?」

 日向がパソコンを操作した。三河はモニターに現れた警官を指さしながら話をつづけた。

「警官の制服のここと、こことが切られている。防刃ベストを着ていたので助かったが、さもなければ大怪我をしていた」


 受講生たちは、見慣れたニュースが初めて恐ろしく見え、誰も声を発せなかった。真貴は上野から信濃への山中で、野盗と闘い深手を負って亡くなった叔父を思い出していた。日々鍛錬している者でも、刃物を手にした相手と渡り合えば命が危ういことを、真貴は身をもって知っていた。


「昨日も言ったが、最高の護身術は危険を予測し、危険な状況に陥らないことだ。しかし、危険な相手に出くわしてしまったとき、どうするか?」

 三河は、いきなり一人を指名した。

「相原君、答えて」

 指名されたのは、紺色のジャージを着た中背の二十代後半の受講生だった。彼女は少し考えて答えた。

「……逃げる」

「正解。しかし反応はもっと早く」

 相原は首を少しすぼめた。


 三河は続けた。

「一番いいのは逃げること。逃げられそうにないときは隠れる。隠れて逃げる機会をうかがう。戦うのは極力避ける」

 皆、一様にうなずいた。三河はさらに続ける。

「今から訓練するのは、最後の場合、逃げられない、隠れられない場合への対応だ。日向、こちらへ」

 大男の日向が、トレーニングナイフをもって三河の横に来た。

「まず、ナイフを持った相手に襲われるケースを想定する」


 三河は手元の資料に目を落とした。

「入江君、合気道二段。短刀取りの稽古も経験済みか?」

 入江は立ち上がって、「はい」と、小さくうなずいた。

「今から訓練するのは、戦うしかない最悪のケースだ。では、日向と向かい合って、切りつけてくるナイフを取ってみろ」

 日向はナイフを手に取り、入江と向かい合った。互いに礼をし、実戦練習が始まる。入江は反時計回りに動き、日向の突きを待った。日向が低く構えて左脇腹を狙って突き出す。入江は日向の右側に踏み込もうとしたが、日向がナイフを右に払ったため、右脇腹に竹刀を受けてしまった。


「そこで止め!」

 三河が声をかける。入江は大きく息を吐きながら答えた。

「まったくダメでした。思うように動けません」

「それでいい。申し合わせの稽古と実戦とは別物だ。少し武道をやった経験など、実戦では役に立たないと承知しておくことだ」


 三河が受講生全員に向けて話し始めた。

「実戦の注意を三つ」

 全員の注意が集まった。

「第一は冷静さを失わないこと。まず状況をよく見る、次にその状況下で選べる手段をいくつか考えて、どうするかを決めて行動する。やみくもな行動は命取り。第二は利用できるものは何でも利用する。ものを投げつけるのは効果がある。バッグや本を顔面に投げつける。屋外なら石や砂を投げつける。相手の目に入れば幸い。第三は逃げられる状況になるまで、絶対に相手に背中を見せてはいけない」


 真貴は三河の言葉はよくわかったが、実際にその通りにできるかとなると自信は持てなかった。他の受講生も一様に不安そうにしている。三河は続けた。

「まず、武器を持った相手にどこまでできるのか示す。因幡、こちらへ」

 今度は因幡が三河の横に来た。

「君らの中から武器の使い手を選ぶ」

 三河は、再度、手元の資料に目を落とした。


「剣道経験者は……望月真貴君。前に」

 真貴は自分が呼ばれるとは予想しておらずびっくりしたが、「はい」と答え立ち上がった。

「今から見せるのは、刃物を持って襲ってくる相手への具体的対処法だ。では望月君、この竹刀で因幡に切りかかってみろ」


 真貴は、三河から渡された竹刀を手に取った。普通の長さの竹刀である。因幡と向き合い礼をして、真貴はいつものとおり中段に構えた。因幡は男性としてはかなり小柄である。真貴は防具をつけずに竹刀を構え、相手が丸腰という状況がストレスだった。真貴が躊躇しているのを見て三河から声が飛んだ。

「君は今追い詰められている。その相手を切らないと助からない」


 真貴は気持ちを入れ替えた。間合いを測り、隙を与えないよう、遠間でゆっくり振りかぶって一気に打ちに行った。袈裟懸けに切り込んだと思った瞬間、相手が消えた。次の瞬間、仰向けに転倒していた。

 「そこで止め!」

 三河が聞こえた。真貴は起こったことが理解できなかった。

「参りました。何もできませんでした」


 三河が言った。

「いい打ち込みだったが、スポーツ剣道の打ち込みだ」

 日向がビデオをモニターに映した。

「望月君も皆も、何が起きたのか分からなかったと思うので、モニターで確認する」

 日向がスローで再生をはじめた。

 真貴が一気に踏み込んだ瞬間、因幡は姿勢を極端に低くして真貴の左足の前に飛び込んだ。そのまま真貴の左足を左手でつかみ、右手で真貴の左ひじを押し上げ、真貴を転倒させていた。ビデオが終わると三河が解説した。

「望月君の打ち込みは相手の上半身を狙ったものだ。相手が左右に逃げるのは考慮していただろう。しかし、因幡は下に逃げた。人間は下への動きは追随しにくい。そして、近接戦を想定していなかったので、あっけなく倒された」


 真貴は剣道にこんな隙があるとは考えたこともなかったので、驚嘆するしかなかった。

「因幡は、自衛隊や警察のインストラクターを務めている。このレベルに数日で届くことはない。しかし、数日の訓練でも、まったく何も知らないより、確実に危機への対処能力は高まり、生き延びる確率は増える。知識と訓練が自分を助けることを肝に銘じて、実戦訓練に臨め」


 その日一日、さらに三日目、四日目の午前まで実戦訓練は続いた。

 三河の口調は厳しかったが指導は的を得たものだった。日向と因幡は丁寧に訓練生の相手を務めていた。

 訓練生どうしが二人一組になって練習する際には、真貴は自然と入江とペアになった。入江は積極的で失敗にめげない性格をしていて、真貴も気持ちを切らさずに練習に励むことができた。


 訓練五日目は自分や同僚が負傷した場合の対応を座学と実習で学んだ。真貴は看護学校で怪我をした者への救急処置は教わっていたが、自分が傷を負ったときのセルフケアや止血について学ぶのは新鮮だった。


 訓練の最後に三河から講義があった。

「今回は私どもの訓練プログラムに参加いただき、ありがとうございました。これは商売の挨拶として言っているのではありません。私は危険を承知で世界のいろいろなところに赴く日本女性たちが、少しでも危ない目に遭うことがないよう、万が一の時にも何とか無事に戻れるよう心から願っています」

 この五日間で受講生たちには変化が現れていた。自分らの赴く先では日本では思いもよらない危険があること、その危険に対処するためには意識も知識も技術も必要であることが身に染みてわかってきていた。


 真貴は義弘に感謝していた。この訓練なしに千年前の世界に戻っていたらどれほど無用な危機を招き自分の命も周囲の人々の命も危険にさらすことになっていたかもしれない。剣道はそれなりに身についてはいるが、実戦においては不完全なものであることを思い知らされた。


 三河の話は続いた。

「私には強い後悔があります。具体的事件名は伏せますが、南アジアで起きた狂信者集団による襲撃事件で亡くなった日本人女性たちは、私が危険地域での行動要領の指導にあたっていました。指導の際に、もっと真剣に、もっと現実に即して具体的に指導をしておけば……と思うと慚愧に耐えません。そこで私は、ある意味では過激とも言える、このような講習を行うことにしました」


 三河は受講生の顔を一人ずつ見ながら続けた。

「世界にはあなた方の力や支援を待っている人たちが数多くいます。一方、悲しいことですが、あなた方に危害を加えようとする人たちもたくさんいます。よきことの使命を果たすには危険を退ける知識と訓練が必要です。あなた方が無事に使命を果たし、戻ってこられることを、私は強く願っています」


 受講生全員が強くうなずいた。いきなり入江が立ち上がって拍手をはじめ、皆も続いた。


 講習会を終えて会場を出ると、真貴は入江に声をかけられた。

「望月さん、ありがとう。望月さんがいてくれたおかげで、私はいい訓練ができたと思う」

「こちらこそ、ペアを組んでくれてありがとうございました」

「望月さん、どこに行くか知らないけど、お互い、命を大切にしながら頑張ろうね!」

「そうですね。私も同じような立場の人と知り合えてよかったです」

「じゃあ、私こっちだから」

 入江は大きく手を振りながら、大阪の街並みの中に歩き去っていった。

 

 真貴は佐間に帰るためにJRの駅を目指して歩き出した。午後三時過ぎの日差しが照りつけていた。残暑厳しい大阪の街を歩きながら、真貴は早く、爽やかな佐間に戻りたいと思った。


三河は言う「よきことの使命を果たすには危険を退ける知識と訓練が必要です。あなた方が無事に使命を果たし、戻ってこられることを、私は強く願っています」

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