第三十九話 流鏑馬(やぶさめ)(二)
真貴の流鏑馬の練習が始まった
幼い日の父や叔父の騎乗姿を胸に真貴は練習を続ける
真貴が、「できるかどうかわからないが」と条件を付けながらも流鏑馬にチャレンジする旨を告げたところ、吉野も大伴もたいへん喜んだ。ただ、真貴が受験生ということもあり、目指す水準は低めに設定し、密度の濃い練習に臨むことになった。
乗馬クラブに通える時間は限られているので、真貴は一人でできるトレーニングを充実させた。ことさら力を入れたのは、箙(えびら、矢の入れ物)から矢を抜き取って、弓につがえて、引き絞り、放つまでの一連の動作を、体に覚えこませることであった。流鏑馬では、これらの動作を疾走する馬の上で行わなくてはならない。考えたり、手元を見たりしているようでは、決してうまくいかない。礼司は義人と協力して、庭の片隅に二つのやぐらを組んだ。その一つには乗馬クラブで廃棄寸前だった鞍を載せ、もう一つには矢を受けるための巻藁を載せた。真貴は動画を参考に、大伴に借りた弓矢で地道な練習を繰り返した。
二回目の練習の日が来た。
礼司と吉野が見守る中、真貴は馬に跨がった。
「まず前回の復習です。止まったまま、鐙に立ってみましょう。膝で馬を挟み、体の芯を意識して――そう、ゆっくり」
真貴は慎重に鐙に体重を預け、背筋を伸ばした。馬はわずかに耳を動かしただけで落ち着いている。
「よくできています。では、いったん腰を下ろして……もう一度立ってください。今度は手綱を緩めて、膝の指示で常歩で行きましょう」
馬がゆっくり歩き出す。真貴は上下するリズムを膝で吸収するよう努めた。最初は上体が揺れたが、二周目には芯が通り、安定してきた。吉野が感心したように小声を漏らした。
「よし、次のステップです。手綱を放してみましょう。怖いでしょうが、大丈夫です」
真貴は一瞬ためらったが、意を決して手綱を離した。両腕を肩の高さまで広げる。馬は穏やかに歩を進め、真貴は膝と体幹で姿勢を保った。
「そのまま輪乗りを。膝の圧で方向を指示してみてください」
真貴が腰をわずかにひねると、馬は素直に曲がった。
大伴は次の指示に移った。
「では速歩に。落ち着いて。呼吸を合わせて」
馬の揺れが大きくなる。真貴は必死に膝で吸収し、体幹で上体を安定させた。汗が額に滲むが、顔は引き締まっている。
「素晴らしい。――ここまでできれば、次は弓を持ちながらでも行けます」
そう言って大伴は弓を手渡した。はじめて馬上で弓を持ち、真貴はその重みに思わず腕を震わせた。
「まずは矢を持たず、弓だけで姿勢を作ってみましょう。馬の上で弓を扱うことに慣れるのが大事です」
真貴は弓を構え、馬上でバランスを取りながら何度も動作を繰り返した。その瞬間、ふいに脳裏に映像がよぎった。
幼い頃、勢多の村。父と叔父が片肌を脱ぎ、汗に濡れた背中を陽にきらめかせながら馬を駆っていた。矢を番える手は迷いなく、矢を放つと同時に短く息を吐いた。弦が鳴り、矢が木の的に突き立つ音が響いた。振り返った父の顔は自慢げに見えた。
一連の父の動きに自分の今の動きが重なった。真貴の背筋が自然に伸び、腕の震えが収まる。弓を引く姿勢がすっと定まった。まだ矢は放っていない。しかし、ここに至るまでの流れに、吉野も礼司も、ただ驚きの目を向けていた。
真貴の流鏑馬の練習は順調に進んだ。
五月に練習を始めて六月には速歩で走る馬上から矢を射ることができるようになった。はじめは矢を射るタイミングも矢筋も安定せずコツをつかむのに苦労したが、七月には駆歩でも射ることができるようになり、命中精度も上がってきた。
暑さの盛り、八月の初め、結衣が夏休みに入り龍口家に帰って来た。その翌々日、結衣は礼司とともに乗馬クラブで見学した。礼司はビデオカメラで真貴の練習風景を撮影して龍口家に持ち帰った。
夕食の後、皆で見ることになった。画面にはクラブの外れの一角が映っている。画面右奥に真貴が馬に乗って現れた。義弘と美和子は画面に身を乗り出した。
真貴はヘルメットをかぶり練習着を着てブーツを履き左手に弓を持っている。画面の外から大伴の声がして、真貴が駆けてきて、矢を番え、画面中央付近で矢を放ち駆け抜ける。何度か繰り返すが失敗はない。よく見ると、馬の速さが徐々に上がってきている。
結衣が昂奮して解説した。
「おじいちゃん、おばあちゃん、しっかり見えた?真貴ちゃんすごいよ。五月に始めたばかりなんだよ。馬がほんとに速いんだから」
真貴の到達レベルは、当初想定していた水準をとっくに越えていた。遅めの駆歩で大きな的を射れば十分とされたが、速さはもはや襲歩になりつつあった。
義弘が感想を述べた。
「これなら十一月の小昏鹿島神社の例祭は大丈夫そうだな」
礼司が答えた。
「ええ、何なら今でも大丈夫ですよ」
美和子が不満そうな声をあげた。
「礼司さん、真貴の服装なんだけど、まさか本番はこの格好じゃないですよね」
「もちろん流鏑馬にふさわしい衣装で臨みます。吉野さんは山野辺神社の関係者の方から狩装束を借りるようなことを言ってましたよ」
「狩装束って、あの笠をかぶって、毛皮の腰巻をするような……。それは真貴には似合わないわ。流鏑馬って、何か衣装に決まりがあるんですか?」
「伝統ある神社ならあるんでしょうが、小昏鹿島神社は初めての試みですから、場にふさわしければいいと思いますよ」
美和子が大きくうなずいた。
「そういうことなら、衣装は私が何とかしようと思います。真貴の凛とした美しさが引き立つ衣装を私が考えます」
真貴がびっくりして声をあげた。
「おばあ様、一回しか着ないかもしれない衣装ですから、借り物でもいいですし……私は白い剣道着と紺袴でもいいかなと思っていました」
美和子が首を振って答えた。
「剣道着は違うでしょう。真貴にふさわしい品格のあるものにします。これは私の楽しみです」
結衣が続いた。
「おばあちゃん、いいなあ。私も一緒に考えさせて!」
「じゃあ二人で考えましょう」
美和子は真貴の流鏑馬の際の衣装を、結衣の協力を得て作ることにした
小昏鹿島神社の例祭に向けて動きがはじまる




