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第三十七話 エン・アッマーヴァイ・カーパートゥ

窃盗未遂で捕まった少年に宮地は向かい合った

はじめは敵対的だった少年の口から、言葉が漏れてきた

 その日、夜の十一時を過ぎた頃に宮地が電話をかけてきた。

「町長当選、おめでとうございます。先ほど留守番電話を聞きましたよ」

「お忙しいところすみません。町長としての依頼ではなく、個人としての相談です。児童相談所に行って、バッグを奪おうとした子のことを見てきていただけませんか?費用は私が負担します」

「費用の話はひとまず置きましょう。その子が言葉が通じず、名前も保護者もわからずという状態はなんとかしなくてはならないでしょう。弁護士として動く場合には手続きが必要ですが、明日、できるだけ早く、まずは様子を見てきます」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」


 翌朝、宮地は自ら車を運転して、児童相談所を訪ねた。所長の判断で職員の立会いを外した個別面談が認められ、問題の子と向き合えることになった。その子は児童相談所の一室に留め置かれていた。二人の男性職員が交代で見守っているということだった。


 宮地は問題の子と二人だけで会わせてもらえることになった。宮地は部屋に案内された。部屋は六畳ほどの広さで、床にはタイルカーペットが敷かれていた。部屋の奥には布団がたたまれて置いてあったが、昨晩、使われた様子はなかった。部屋の中央に小さな座卓が置かれ、その上にはトレーに載せた食べ物もあったが、手が付けられていなかった。問題の子は座卓の前にひざを抱えて座っていた。宮地が部屋に入ると、顔を上げて怒りのこもった目つきで宮地を睨んできた。


 宮地は座卓をはさんで少年の前に胡坐をかいて腰を下ろした。両手を少し後ろにつき、微笑みを絶やさないよう気を付け、黙って少年の目を見た。少年は何度も顔を伏せて視線を逸らせては、再び顔を上げて宮地の目を見返した。かなりの時間が過ぎた。


 やがて、少年の目から怒りの色が消え、わずかに涙がにじみ出した。そして少年が口の中で、繰り返し小さな声で呟いているのに宮地は気づいた。

「エン・アッマーヴァイ・カーパートゥ……エン・アッマーヴァイ……」

 似たような言葉を聞いた覚えがあった。少年の顔をじっと見た。どこかで見たような容貌だった。宮地は記憶をさぐった。ふと二十年以上前に関係した事案を思い出した。


「“カーパートゥンガル”……“助けて”……タミル語!?」かつて担当した強制送還事案の時にスリランカの若者が叫んでいた言葉だった。宮地は胸ポケットからスマートフォンを取り出し、翻訳アプリを開いた。選択できる言語を探っていくとタミル語があった。日本語からタミル語の翻訳をセットしスマートフォンに吹き込んだ。

「もう一度ゆっくり話して」

 スマートフォンのスピーカーから聞きなれない言葉が流れた。

 少年がびくっと顔を上げた。目を見開いていた。

 宮地はもう一度スピーカーから言葉を流した。少年は今度はゆっくり、はっきり声にした。

「エン・アッマーヴァイ・カーパートゥ」

 スマートフォンのスピーカーから合成音声の日本語が流れてきた。

「私のお母さんを助けてください」

 宮地は大きくうなずいて立ち上がり職員を呼んだ。

「警察に連絡してください。この子の言葉がわかりました。タミル語、スリランカで使われている言葉です。そして、この子は『母親を助けてほしい』と言ってます。窃盗はそれが動機かもしれません」


 宮地は警察が到着するまでの間、翻訳アプリを駆使して会話をつづけた。この子の母親は町内の「小屋」で動けなくなっていることが分かった。

 パトカーが到着した。警察官たちは少年を署に連れて行こうとしたが、宮地は一歩前に出て声をかけた。

「私は弁護士の宮地です。この子は『母親を助けてほしい』と訴えています。つまり保護者は判明しましたが、その保護者が危険な状態にある可能性があります」

 警察官たちは顔を見合わせた。宮地はさらに続けた。

「まず現場を確認し、この子の母親を保護することが優先だと思います。ご一緒に向かわせていただけませんか?聴取はその後からでも間に合います」

 署員の一人が無線で上司に確認を取ると、しばらくして「了解」と返答があった。宮地と警察官、そして少年は一緒にショッピングモールへ向かうことになった。


 一行はショッピングモールに着いた。そこからは少年に先導させて母親がいるという「小屋」に徒歩で向かった。少年はモールから出て、冷たい風が吹く農道を三十分以上歩き続けた。そして川べりにある道具をしまう小屋にたどり着いた。


 少年が何か声をかけて小屋の戸を開けると、中に女性が横たわっていた。古新聞紙とブルーシートに体をくるみ、枕元には空になったペットボトルが五本転がっていた。衰弱して発熱していた。救急車が呼ばれ、女性は佐間総合病院に搬送された。

 宮地は少年を連れて病院から児童相談所に戻った。名前を尋ねるとマニと答えた。父親はわからないとのことだった。宮地はマニに、母親は必ず助かるから、それまで児童相談所で待つようにと説明した。マニは小さくうなずいた。


 年末が近い十二月第三週の土曜日の午後、真貴は受験勉強の休憩がてら干し柿の取り込みを行った。冷たい乾燥した風にさらされ、柿の表面には白い細かい結晶が浮き出していた。この冬は干す時期が遅めだったので出来栄えが心配だったが、例年と変わらない出来栄えとなった。母屋の台所で美和子と一緒にポリ袋に詰めていると来客があった。


 来客は義人とは時間を打ち合わせていたようで、義人が玄関で迎え居間に案内した。圭が不在だったので、美和子がお茶を用意し、真貴に居間に持っていくように指示した。お茶うけに取り込んだばかりの干し柿をつけた。


 真貴はお茶と干し柿を盆に載せて居間に運んだ。来客は宮地弁護士だった。宮地は真貴を見ると笑顔を浮かべ声をかけてきた。

「もしかして、真貴ちゃんか?大きくなったねえ。私を覚えているかな?」

「はい。長野の家庭裁判所でお話を聞いていただきました。お世話になりました。選挙の時にも助けていただき、ありがとうございました」

「君の元気で幸せそうな姿を見れてよかったよ」


 義人が続けた。

「真貴、宮地さんは先月ショッピングモールの窃盗未遂事件で捕まった子の面倒をみてくれているんだ。真貴も結衣も興味があるんじゃないかな?」

「はい、あの子のことが心配でした。モップを取り上げようとして、あの子の手を叩いた感触が今も残っています。結衣ちゃんも、あんな子どもがなぜあんなことをしたのかと言ってます」

「今日は、話の全体が見えてきたということで説明に来てくれたんだよ。結衣も呼んでおいで。一緒に話を聞かせていただこう」

「はい、呼んでまいります。先生、お茶を熱いうちにどうぞ。干し柿は我が家で作ったものです」

 真貴が小さく礼をして、結衣を呼びに行くのを宮地はじっと見ていた。それから湯呑を手に取り、一口すすり、言った。

「ほんとうに素晴らしい娘さんになりましたね」

「先生のおかげです」

「いやいや、私はただ……。真貴ちゃんのようにうまくいくことは、そんなにないですよ」


 真貴が結衣と一緒に居間に戻って、皆が座った。宮地が話をはじめた。

「弁護士として守秘義務があるのですべてを話せるわけではないけど、君たちが逮捕に協力したあの少年がなぜ事件を起こしたか、これからどうなるかを説明します」

 皆、小さくうなずいた。

「あの少年は体調を壊して動けなくなった母親のために薬や食べ物をなんとかしたかったんだ。彼は日本語がほとんどできず、どこに助けを求めたらいいか分からなかった。お金さえあればなんとかなると考えてショッピングモールで窃盗におよんだんだ。ただ、こんなことになるまでには長い物語があるんだ」


 宮地の話は十二年前まで遡った。少年の母親はインド洋に浮かぶスリランカに住むタミル人だった。日本人の多くは知らないことだが、スリランカは一九七〇年代から仏教徒のシンハラ人とヒンドゥー教徒のタミル人の内紛があった。二千年代初め、最終的にはタミル人は内戦に敗れた。このような状況下で少年の母親は技能実習生として来日した。仕事は北関東の工場での縫製だった。彼女は内戦で父親を亡くし母親や兄弟に経済的支援をする必要があった。仕事は大変だったが彼女は頑張った。


 そのうち彼女は近くで農業技能実習生として働いていた男性と恋愛関係になり、身ごもってしまった。実習期間中の妊娠は契約違反だった。妊娠が発覚し彼女は職を失った。彼女は男性と同棲しながら、病院にかからず出産した。出産の際には同郷の女性たちに助けてもらった。もちろん出生届は出していない。


 二人は数年でうまくいかなくなった。貧困に苦しみ男性は酒におぼれ暴力を振るうようになった。子どもと自分の身の安全のため、彼女は男性の元を離れた。この時点で在留資格はとうに失われていた。その後、彼女は点在するコミュニティを転々とすることになる。やれる仕事は夜間清掃や皿洗いなど限られていた。その仕事も不法滞在が発覚しそうになると仕事を捨てて逃げた。


 次第に彼女は体調を壊していった。それでも何とか耐えていた。そしてこの秋まで群馬でやっていた職場に入管が目を付けたと聞いて逃げた。しばらくコミュニティに隠れていたが、長野の方に仕事があるとの情報を得て長野に向かおうとした。交通費に乏しい彼女は仲間から長野まで連れて行ってくれるというインド南部のヒンドゥー教徒というカップルを紹介された。


 しかし彼らに裏切られた。群馬から長野に向かう夜中の国道の山中で、彼女は子どもとともに車から降ろされ、金とスマートフォンを奪われた。二人は歩いて佐間までたどり着いたが、彼女は体調が悪化し動けなくなった。少年は母親を川べりの道具小屋に残し、水や食料を探し回った。しかし、母親の具合はどんどん悪くなった。そこで、薬や医者に診てもらうには金が要ると考えショッピングモールで窃盗をはたらいた、とのことだった。


 真貴は話を聞いているうちに涙が込み上げてきた。せいいっぱい働いても、食うや食わずの生活は生贄に立つまでの日々そのものだった。言葉が通じない世界に紛れ込んだ恐ろしさもよくわかっていた。病に苦しみながら寒い小屋でひたすら耐えた親子が父を亡くした後の自分と母に重なった。


 結衣は怒っていた。父親としての役割を果たさず、酒におぼれ暴力を振るった男がまず許せなかった。追い詰められていく彼女が頼るすべがないことも許せなかった。親切を装い、彼女をだましたカップルが許せなかった。


 結衣は宮地に尋ねた。

「先生、母親からスマートフォンとお金を奪ったやつらを警察に捕まえてもらえないんですか?」

 宮地は渋面で答えた。

「できないと思う。捕まえてもらうには被害届を出さなくちゃならない。彼女は今は不法滞在者だ。日本にいてはいけない人からの届出は受け付けてもらえないだろう」

 義人も尋ねた。

「そのカップルはほかにも犯罪を重ねているだろうから、捕まえる意味は十分にあると思うんだが……奪われたスマートフォンの位置情報から追跡できるんじゃないかな?」

「それもできないんですよ。母親の持っていたスマートフォンにはSIMカードが入っていませんでした」

「じゃあ、どうやってスマートフォンを使っていたんでしょう?」

「フリーWiFiがあるところ、コンビニとか駅とかからネットに接続するんです」


 真貴が尋ねた。

「そのお母さんは助かったのでしょうか?」

宮地が答えた。

「助かりました。すでに退院しました」

「よかった。今、どこにいるんでしょうか?私にできる支援は何かありませんか?」

「それが……今は東京の入管の収容施設に入れられました。近いうちに本国に送還されるでしょう」

 結衣と真貴は言葉を失った。


 ややあって結衣が声を上げた。

「それって、あんまりじゃないですか。安い賃金で働かせて、面倒になったら首にして、死にそうになるまで痛めつけて、それで追い返すなんて」

 義人が答えた。

「結衣、日本の技能実習制度は“言われたとおりにトラブルなしに仕事して決められた期間が過ぎたら帰ってもらう”、という仕組みなんだ。少しでもその枠からはみ出したら日本から出て行ってもらうことになっている」


 真貴が尋ねた。

「その母子は無事に故郷に戻れるのでしょうか?」

「私も詳しいことは知らないが、おそらくスリランカの出入国管理局に送り込まれ手続きが終わったら、終わりじゃないかと思う。その先の交通費や生活費は手当てしてもらえないだろう。故郷まで着いても、タミル人の村は内戦の爪痕が癒えていないようで、状況は厳しいと思うよ」


 皆、しばらく押し黙った。美和子がそっとやってきて、熱いお茶を皆に注いだ。宮地は真貴が作った干し柿を味わい深そうに食べ、お茶を飲んだ。

「とても美味しいです。今日は若い二人にも話を聞いてもらえてよかった。龍口さん、この件はまた連絡します」

「わかりました。なんでも連絡してください。お待ちしています」


 宮地は車を運転して帰って行った。冬の午後は短い。日がすでに西の山の方に傾いていた。寒さが厳しくなりそうな雲が多い天気だった。


貧しい国から豊かさを求めてこの国にやってきたマニとその母親は無一文で強制送還される

真貴も結衣も心が痛んだ

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