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第二十七話 佐間の稲作の千年

久しぶりに義弘の弟、農学者の礼司が龍口家に来ていた

礼司はたくさんの野菜を持ってきて、農業の歴史の話を始めた

 結衣と真貴とが龍口家に戻ると、礼司の古いSUVが停まっていた。二人が母屋の玄関から台所に向かおうとすると、居間から礼司の声がした。

「おう、二人ともおかえり。暑かったろう」

 二人が居間に行くと、礼司がソファに腰をおろし、傍らにはいくつかの段ボール箱があった。真貴は、義弘と仁から礼司が言い伝えの伝承者のひとりであり、自分の事情を了解していると伝えられていた。


「叔父様、ごぶさたしています」

 真貴が丁寧に挨拶すると結衣が続けた。

「叔父様、お久しぶりです。その箱は、何かお土産?」

「あぁ、夏野菜をどっさり持ってきたぞ」

 美和子が台所から現れた。

「二人ともおかえりなさい。手を洗ったら手伝ってちょうだい。お昼まだでしょ?今日のお昼はそうめんです」

「りょうかーいっ!おじいちゃんは?」

「ご用事で出かけたわ。おじいちゃんはお昼を先に済ませたから」

「わかりました。器とお箸を四人分用意します」


 三人が台所で準備を始めると礼司が段ボール箱の一つを持ってきた。

「お義姉さん、そうめんだったら、みょうがとおおばがあります」

「あら、いいわね。真貴、ねぎはまだ刻んでないわね。こっちを刻んで薬味にしましょう。結衣そろそろお湯は沸きそう?あぁ、礼司さんは座ってください」

「いや、残りの箱も持って来ましょう。重いですから」

 礼司が箱を持ってきた。

「とうもろこし、かぼちゃ、あしたば、おくら、なす、きゅうり……くらいかな」

「こんなにたくさん、ありがとうございます」

「いやいや、うちは家内と二人きりなんで、食べきれないんですよ」


 四人の昼のそうめんはさわやかな夏の薬味の香りがいっぱいのものになった。食事が終わり、美和子が入れたお茶を結衣と真貴とが配った。

「叔父様、とてもおいしかったです」

 真貴がコメントすると結衣が続けた。

「みょうがとおおばが入ったそうめんはごちそうです」

「食べ盛りの二人に喜んでもらえてうれしいよ」

 礼司は湯呑を手に相好を崩して笑った。

「私が若かったころこの近くで農業指導員をしていてね、今日はね、いろいろ一緒に取り組んだ仲間との会合があって、その時の仲間たちが、今、取り組んでる野菜を持ってきてくれたんだ」

「長いお付き合いなんですね」

 美和子が応じると礼司が続けた。

「そうなりますね。農業では何かをはじめてその成果が安定するまでとなると、だいたい十年はかかりますから」


 結衣が尋ねた。

「なんでそんなに時間がかかるの?」

「農産物は一年に一回だけしか作れないからだよ。言い換えたら一回の実験に一年かかる。工業なら、短い時間に何回でも実験できるけど、農業はそうはいかないからね。二人は今日、田んぼの中の道を歩いて帰って来たんだよね?」

 結衣と真貴はうなずいた。礼司が真貴を見ながら話し始めた。

「緑の田んぼがずっと広がっていただろう。でも昔、真貴が信濃に来た頃はこの辺りでは米はほんの少ししか穫れなかったんだ。それが約千年かかって、あの田んぼになったんだよ」 


 真貴は八歳から二年半を過ごした昔の信濃の風景を思い出した。湖の際、山裾のわずかな土地を拓き、様々な穀物が植えられていた。米も作られてはいたが、それは年貢として納めるもので村人の口に入ることは稀だった。稲の株も今日目にするものより貧相だった。


 真貴は礼司に尋ねた。

「なぜこの辺で、お米がたくさんとれるようになったんですか?」

「そうだね、大きくは三つの理由があるんだ。まずひとつめの理由は田んぼにすることができる土地が増えたことだね。真貴はよく知っていると思うけど、今の田んぼのかなりの部分は千年前は湖の底だったんだよ」

 結衣が尋ねた。

「湖があったなんて信じられないんだけど、真貴ちゃんが言うからそうなんだよね?」

「地質調査のデータを示してもいんだけど、地名に名残があるよ。佐間は山の中なのに海が付く地名や水神を祀った神社があるだろう」

「そうか……でもどうして湖はなくなったの?」

「周りの山から流れ込んでくる土や石が次第にたまって湖が埋まってしまったんだよ。湖は江戸時代の初めごろまで残っていたらしいよ」

「そうなんだ」

 ようやく結衣が納得した。


「ふたつめの理由は温暖化だろうね。これは十九世紀末からの話なんだけど、平均気温が約一度高くなり、大気中の二酸化炭素濃度は約二倍になった。温暖化は熱帯地方や砂漠地帯には災厄だったけれど、寒冷地での稲作にはかなりに助けになったんだ」


 真貴はその先が知りたかった。

「そしてみっつめは…?」

「お百姓さんたちの努力と工夫と挑戦だよ。これが最大の理由だね」

「具体的にはどんなことをしてきたのですか?」

「ひとつめの理由とも関係するんだけど、まずは農地を拓くための努力だよ。今のような重機がない時代、山からの土砂や石が流れ込んだ河原を田んぼにするにはすごい努力があったんだ。工夫は数えきれないほどあるけど、あえて挙げるなら種籾の選別と肥料かな。種籾を選別する前は、前の年に収穫した籾をそのまま蒔いていた。そうすると、できのいい籾も悪い籾もそのまま育てることになるから、その年の収穫も増えはしない。でも、できのいい籾を選んで蒔いたら、少し収穫が増える。それを翌年も、その翌年も繰り返すと徐々にではあるけど収穫は増えていく。これがもう少し進むと品種改良になる」


 結衣が不思議そうに尋ねた。

「それくらいで変わるものですか?」

「一年に一パーセントだけ増えたとする。これを十年繰り返すと収穫は一割増える。肥料も大事だ。弥生時代には草木を焼いた灰を撒いたり、刈り取った草や葉を田畑に敷き込んだりしていたが、平安時代の終わりころから牛や馬の糞尿が肥料として普及しだしたんだ。こんな工夫を積み重ねた結果、同じ面積からの収穫量は、江戸時代には平安時代のほぼ倍まで増えたんだよ」

 近代化以前の江戸時代までに達成された成果に真貴はびっくりした。もし、あの村で倍の収穫があったら、誰も飢えることはなかった。


 礼司の話は続いた。

「ただ、農業で、今までと違う方法を試すのはとても危ないことなんだ。うまくいけばいいけど、もしかすると収穫が減るかもしれない。最悪の場合、全滅するかもしれない。それでも、少しでも収穫を増やすために、命がけで新しいやり方に挑む。それが農業における『挑戦』なんだ」


 真貴は礼司の話に聞き入ってしまった。その年、その年の天候は今の時代でも人間の力では変えようはない。しかし、龍神に贄を捧げる前に、人間の力で変えることができることがあったこと、挑むべきことがあったことを知り、心が騒いだ。

「龍神様は必要ではなかったということでしょうか?」

 真貴が尋ねると礼司の答えは意外だった。

「いや、龍神様への信仰こそが挑戦する心を支えるものだったのだよ」


「…どういう意味でしょうか?」

「私の経験から話をしよう。私がアフリカでの農業指導に初めて行ったとき先輩指導員が現地人たちと一緒に精霊に祈りを捧げているのを目の当たりにしたんだ。ちょっと脱線するけど、アフリカの一部では蛇のような精霊が信じられている。この蛇はふだんは大地を支えるために海の底でとぐろをまいていて、ときどきとぐろを解いて自分の体で空にアーチをかける。このヘビは雨を降らせるという重要な役目を担っている、とされているんだ」


 結衣が東アジアとの類似性に気が付いた。

「それって、中国や日本でいう龍じゃないの?」

「確かによく似てる。同じような伝承は、オーストラリアや北アメリカにもあるんだ。本題に戻ろう。私は先輩指導員に『自分らは外のコミュニティから来た技術指導者だから現地の儀式から距離を置いた方がいいんじゃないか?』と尋ねたんだ」


 結衣と真貴は礼司の経験談に引き込まれていた。

「先輩は『外の世界の者だから現地の神様の許しを得る必要があるんだ。現地の人は自分らの守り神を大切にしてくれる人にこそ心を許すし、何かがうまくいかずトラブルが起きたとき、よそ者が自分たちの神をないがしろにしたせいだと考えるようなことになったら、技術指導どころじゃなくなるよ』と教えてくれたんだ」


 礼司はお茶を一口すすり、話をつづけた。

「私はその時を契機に経験を積んで、発展途上国で農業をよりよくしていくには心の拠り所が大切なんだとわかって来たんだ。さっき説明したように、農業で従来の方法を変えるという挑戦は命がけのものになる。そのときには『きっと精霊が守ってくれる』という信仰こそが、挑戦する心を支えるものになるんだよ」

 結衣も真貴も大きくうなずいた。


「我々だってそうだよ。この山深い佐間の地で、ずっと皆が龍神様を信じ続けてきたのは『耐えられなくなったときには龍神様が救ってくれる』と考えてきたからなんじゃないかな。実際、湯多神社の伝説にもあるだろう。大昔、この地に蜘蛛の化け物が現れたとき、龍神様は巫女をお遣わしになって人々を救った、って」


 結衣も真貴も農業と信仰の深い関係に言葉を無くしていた。礼司は二人の後ろで一緒に話をにこにこしながら聞いていた美和子を見た。美和子が黙って大きくうなずいた。


『耐えられなくなったときには龍神様が救ってくれる』という信仰が

この地に暮らす人々を支えてた……

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