第二十六話 真貴の憂鬱
中学校三年生の夏休みを前に真貴は憂鬱だった
進路を自分で選択しなくてはいけない 真貴は迷っていた
梅雨が明けると、標高六百メートルの佐間には、からりとした空気が満ちる。朝の気温は高くても二十度、昼の最高気温も三十度を超えることはほとんどない。日が昇ると町を取り囲む山々は緑が滴るように輝き、穂をつける前の稲の葉が風にそよぐ。日が西の山々に沈んでいくと川べりには蛍が飛び交う。そして夜、空気が澄んで標高が高い佐間の夜空には満天の星が輝く。
中学三年の夏、清々しい季節をよそに、午後十一時の就寝前、真貴は自分の部屋で夏休み明けに予定されている進路希望についての三者面談の案内のプリントを前に気持ちが沈んでいた。龍口の一族は皆、優秀だった。仁、義弘、礼司そして義人はいずれも有名国立大に学んでいた。
義人の息子の昌平は東京大学大学院二年、長女の知佳は信濃大学二年である。そして、義人以降、昌平も知佳も、高校は長野市内にある有名進学校に進んで、寮生活を送っていた。結衣も何の疑問もなく同じ進学校を受ける準備を行っている。真貴の中学校での成績は悪くはない。結衣は学年トップレベルにいるが、真貴もそれに次ぐグループにいる。龍口家の皆は結衣と真貴とがそろって同じ高校に進むものと考えている。
真貴の中でいろいろな思いが渦巻いていた。ひとつは龍口家からこれ以上経済的な負担をかけるのは申し訳ないという思いである。龍口家の皆は、真貴を何代にもわたって待ち続けていたと言ってくれて暖かく迎えてくれた。家族として受け入れ、結衣と同じように扱ってくれた。その愛情に揺らぎがないことを真貴は知っている。その一方で、真貴はこの世界で生きていくにはお金がかかるということ、お金は働いて得るものだということを学んだ。自分のためにお金を使ってもらうことを申し訳なく感じていた。
次に、これまでに何度も旅行に連れて行ってもらったが、佐間の土地を離れること自体がなぜか不安だった。
真貴はこれまでの旅行を回想してみた。
小学校四年の夏には泊りがけで静岡に行った。初めて富士山を見て、海を見た。いずれも想像していたよりも大きく、美しかった。砂浜を裸足で歩き、海水を手に取って初めて口に入れたときの塩辛さは衝撃だった。
小学校六年生の時の修学旅行の行き先は東京だった。テレビで見慣れたはずの街並みが、現実に立つと異様に感じられた。目にすることができる自然は街路樹だけで、どこまでも人工の建物群が広がっていた。
中学校の社会見学では塩尻の平出遺跡に行った。縄文時代から平安時代にかけての大集落跡で、茅葺の竪穴式住居が再現されていた。平安時代の住宅を見たとき真貴には懐かしさとも辛さとも言いようがない感情が湧いた。修学旅行は京都、奈良に行った。平安時代、奈良時代の建造物をいくつも見たが、今の世界に来る前の真貴が目にしたことがない立派なものだった。同時代の茅葺の竪穴式住居を思い出し、あの時代の自分らを京は、まったく気にしていなかったと知った。
旅先でも恐怖や緊張は覚えなかった。ただ、それでも、佐間に戻ると胸がほどけた。佐間は自分の居場所だと強く感じていた。ときどき戻れるとはいえ、その佐間を長く離れることはやはり不安だった。
さらにもう一つの思いは、自分でもまだその正体がつかめずにいた。きっかけは知佳が「救急看護師になる」という将来の目標を語るのを聞いたことであった。将来の自分がどうありたいかという課題を真貴はいままで考えたことがなかったことに気づいた。
上野、信濃で生贄に立つまでの日々は一日、一日を生き延びるのが精いっぱいだった。食べるものがない、命が危険にさらされるというような状況がいつもだった。
千年後の世界にたどり着いたばかりの時、まずは、この世界で生きていくということに懸命だった。言葉を覚え、同年代の子に追いつけるよう勉強した。剣道にも懸命に取り組んだ。かつて父に教わったものが千年後の世界でも通用することが自信になった。やがて日々の中に楽しみが増えていった。
これまでは、自分が取り組むべきものが常に目の前にあった。なんとかやっていけるように思えてきた。しかし、その先はどうするのか。将来の自分がどうありたいかには、今すぐ答えを出さなくてもいい。しかし将来はやってくる。何に立ち向かうのか、立ち向かうには何が必要か、真貴にはわからなかった。
結衣と真貴の通う中学校は龍口家から緩やかな坂を下り、徒歩二十分ほどのところにある。比較的新しい学校で、住宅地のややはずれの川べりに位置する。七月の二週目は一学期の期末テストがあった。あけ放った窓からは梅雨明けのさわやかな風が吹き込む中、教室には皆がテストに取り組む際の鉛筆を走らせる音と紙をめくる音だけがかすかに響いていた。
二日間のテストを終えた日、午前中にすべてのテストが終わると、結衣は真貴を誘って帰ろうと結衣のクラスを訪ねた。小学校の間、結衣と真貴は学校でも帰宅後も、多くの時間を一緒に過ごした。中学に入ると結衣はバスケットボール部に入った。中学校に剣道部がなかったため、真貴は地域の剣道教室を続けることにした。そこでは義弘が指導者の一人を務めていた。クラスも違い、二人が一緒に過ごす時間は大幅に減ってしまった。
結衣が真貴のクラスに行くと、ほかの生徒が次々に帰る中、真貴は自分の机についたまま窓越しに山と空を眺めていた。物思いにふけるきれいな横顔に結衣は少し見とれていた。
真貴が結衣に気づいて振り返った。
「結衣ちゃん……」
「真貴ちゃん、一緒に帰ろう」
「部活はいいの?」
「うん、週明けからだから」
二人は青々とした田んぼの中の道を歩いていた。日差しは強いが風があるので暑さはさほど感じなかった。ただ、真貴の表情に朗らかさがなく、うつむき加減だった。
「私さ、このごろ真貴ちゃんがなんだか元気がないような気がしてるの。私の気のせいだったらいいんだけど……何か困ってることでもあるの?」
「ううん、困ってるわけじゃないんだけど……」
「よかったら私に話してくれない?真貴ちゃんが悩んでいるのを見ると私が不安になっちゃうんだよね」
「ありがとう……でも、私も何をどう説明したらいいのか、まだ分からないの」
「何かきっかけがあったの?」
「……あのね、中学生になったくらいから、今の時代の仕組みみたいなものが分かるようになってね、中学校を卒業した後は自分でどうするかを決めなくちゃいけないってわかってから、考えているんだけど、どうしたらいいかわからないでいるの」
「それだったら、迷うことないよ!真貴ちゃんは私と一緒に長野の高校に行くの。私はバスケで日本一を目指す。真貴ちゃんは剣道で日本一を目指す。姉ちゃんの後輩になるんだよ」
「でも、その後は……」
「それは、高校生になってから考えたらいいじゃん!」
「そうかもしれないけど……私、ずっと龍口のおうちのお世話になってるでしょ。このままでいいのかなって……」
「真貴ちゃん!私、怒るよ!うちの皆は真貴ちゃんのことが大好きで家族だと思ってるのっ!」
「ありがとう、結衣ちゃん。そう言ってもらえるとわかってるんだけど……」
真貴は立ち止まり、顔を上げていったん視線を湯多神社の方に移し、あらためて結衣を見た。
「結衣ちゃんは、高校を出た後、どうしたいか考えてるの?」
結衣が、四、五歩先で立ち止まり、振り返った。
「まだ、夢だけど、やりたいなって思ってることがあるの。真貴ちゃんにだけ教えようかな」
「えっ、いいの……」
結衣がにっこり笑い話し始めた。
「われは、いにしへの世や人のありさま、ことばのさまを、よく知りたくこそ思ふなれ……どう、私の平安語?通じるレベルかな?」
「結衣ちゃん、すごい!わかるよ!」
「私、真貴ちゃんに出会ってからずっと、真貴ちゃんの言葉で話したいと思ってる」
「結衣ちゃん……」
「それとね、じつは仁叔母様にあこがれてるんだ。あんな、かっこいい大人になりたい。前に真貴ちゃんが叔母様とお習字していたとき、私が『代わりに書いて』と言うと叔母様が『書は人です』と言ったの覚えてる?」
「うん、覚えてる。あの後、結衣ちゃん頑張って練習したよね」
「はっとしたの。『正々堂々とやらなくちゃっ』て。真貴ちゃんは、あこがれる人はいないの?」
「憧れというより、ただ心から尊敬しているのはお姉さまなの。あんなに強くて優しくて……弱い人の助けになりたいなんて」
「だったらお姉ちゃんと同じでいいじゃん」
「そう思うこともあるんだけど…なんだかこの町を離れるのは不安なの」
ふと呼び声を聞いたような気がして、真貴は再び顔を上げ、湯多神社の方を見た。田んぼの緑、森と山々の深緑、その上には真っ青な夏空が広がっていた。
真貴の迷いはなかなか晴れない……




